第三十話 富田城|今川軍、甲府盆地へ入る
大島で武田勢を退けた今川軍は、その場に長く留まらなかった。
負傷者を河内へ戻し。
崩れた隊を整え。
兵糧を運び直す。
折れた槍を替え。
矢を補い。
草鞋を履き替える。
戦に勝ったからといって、すぐ次へ進めるわけではない。
進むための支度が終わると、岡部勢が再び北へ出た。
武田勢は見えない。
だが、どこかにいる。
昨日まで正面にいた敵が、消えたわけではない。
斥候を先へ送りながら、今川軍は慎重に北へ進んだ。
◇
山が少しずつ低くなっていった。
泰満にも、それが分かった。
「空が広くなったな」
馬上から前を見る。
これまで左右を山に挟まれていた。
道も狭く。
前後の軍勢さえ見えないことが多かった。
それが次第に変わる。
山の間から、遠くまで土地が見え始めた。
「盆地へ出ます」
彌太郎が言った。
「甲府か」
「甲府盆地でございますな。甲府そのものは、まだ先ですが」
泰満は目を細めた。
田がある。
村がある。
道が幾つにも分かれている。
山道とはまるで違う。
兵を広げる場所もある。
騎馬も動ける。
遠くの旗も見える。
同時に。
こちらの旗も、遠くから見える。
「ここまで来ると、武田の国という感じがするな」
「河内も甲斐でございます」
「分かっている」
「穴山殿に聞かれたら怒られますぞ」
「言うなよ」
「私は口が堅うございます」
「信用できぬ」
泰満はもう一度、前を見る。
河内では、今川と穴山の勢力が入り交じっていた。
大島では、山と川の間の狭い道を奪い合った。
ここから先は違う。
武田が長く兵を動かしてきた土地へ入る。
敵の国へ踏み込んだという感覚が、ようやく実感になってきた。
前から伝令が来た。
「停止!」
泰満が手を上げる。
「止まれ!」
三百が道の脇へ寄った。
しばらくして、次の伝令が来る。
「本隊より申し渡し! 諸将、軍議へ!」
「またか」
「戦でございますから」
泰満は馬を降りた。
「分かっている」
◇
絵図の上に、一つの城があった。
富田城。
福島助春がそこを指している。
「ここを取る」
葛山氏広が尋ねた。
「武田は入っておりますか」
「入っている」
「数は」
岡部の将が答えた。
「斥候では、数百に届くかどうか」
「信虎の本隊は」
「さらに北でしょう」
助春が言った。
「大島で退いた兵を、この城へ全部入れたわけではないらしい」
泰満は絵図を見た。
富田城は、今川軍が北へ進むうえで目の前にある。
道を押さえる位置。
放って進めば、後ろに武田勢を残すことになる。
兵糧を運ぶ道も危うくなる。
「落とさねば進めませんね」
泰満が言った。
助春がこちらを見る。
「そういうことだ」
氏広が別の紙を広げた。
「それと、この城についてはこちらにも多少分かっております」
泰満が顔を上げる。
「なぜです」
「大井の城だからだ」
氏広が答えた。
大井氏。
今では武田信虎に従っている。
だが少し前まで、武田と争い、今川と手を結んでいた家である。
今川の者がこの辺りへ出入りしたこともある。
「城の中まで分かるので?」
「全部ではない」
氏広が言った。
「だが、どちらの道が城へ入りやすいか。どこに門があるか。水をどこから取るか。その程度は分かる」
「十分では」
「城は変わる」
助春が言った。
「五年前に穴がなかったところへ、今年も穴がないとは限らぬ」
「なるほど」
「柵が増えているかもしれぬ。道を潰しているかもしれぬ。門を変えていることもある」
泰満が頷く。
「だから斥候を入れる」
岡部の将が言った。
「すでに昔の道を知る者を連れて見せております」
「どうだ」
「大きくは変わっていないようです」
助春が絵図へ手を置いた。
「なら早く取る」
氏広が少し助春を見る。
「囲みますか」
「何日もか?」
「兵糧を断てば落ちるでしょう」
「その間に信虎が来る」
氏広が頷いた。
「それは困りますな」
「城を取りに来たのではない」
助春は言った。
「信虎を追っている」
泰満はその言葉を聞いた。
城を取ることが目的ではない。
ここでも同じだった。
富田城は、ただそこにあるから取るのではない。
北へ進む道を空けるため。
後ろを安全にするため。
そして次へ進むため。
「一日でいけますか」
庵原の将が尋ねる。
「やる」
助春は答えた。
「長く城に付き合うつもりはない」
◇
攻め口は三つに分けられた。
岡部勢が正面。
庵原勢がその脇。
福島本隊は、武田の援軍に備えて後ろに控える。
葛山氏広は本陣近く。
泰満の三百も、その近くに置かれた。
「また待つのか」
泰満が城を見ながら言った。
「大島でも最後まで待ちましたな」
彌太郎が答える。
「三百もいるのに」
「三百いるからでしょう」
富田城は、大きな城には見えなかった。
だが、土塁があり。
堀があり。
門がある。
高低差もある。
城兵もこちらを見ている。
小さく見えても、守る者がいれば城だった。
「正面から行けば、死人が出るな」
「出ましょう」
「分かっていた場所から入るのか」
「そのために昔のことを調べたのでございましょう」
泰満は城を見た。
城を攻める。
以前なら、正面から兵を入れて門を破ることを想像した。
だが、今の軍議では違った。
道を知る。
昔の出入りを知る。
城の変化を調べる。
そこから攻め口を決める。
戦う前に、すでに勝負は始まっている。
間もなく前方で動きがあった。
岡部勢が進む。
城から矢が飛ぶ。
盾が上がる。
大島とは違う。
今回は敵が逃げない。
城の中にいる。
◇
最初の攻撃は、城兵の目を正面へ向けるためだった。
岡部勢が門へ近づく。
城兵が集まる。
矢が集中する。
盾に矢が刺さる。
土塁の上から声が飛ぶ。
岡部勢も応じて矢を返す。
その間に、庵原勢が別の側へ回った。
かつて大井方と往来した者が、その中にいた。
「この先だ」
案内する男が言う。
「昔はここから城へ物を入れた」
「今も通れるのか」
「道は残っている」
木の間を抜ける。
狭い。
大人数は一度には通れない。
荷車が通るような道でもない。
だが、人なら進める。
武田側もそこへ多くを置いてはいなかった。
正面へ兵を寄せている。
「見えたぞ!」
柵。
その向こうに兵がいる。
「止まるな!」
庵原勢が一気に押し寄せた。
◇
「庵原勢、城の東へ取り付きました!」
伝令が福島のもとへ走る。
「入れそうか」
「守り、薄し!」
「岡部をもう一度押せ」
「はっ!」
「正面の兵を動かさせるな!」
太鼓が鳴る。
岡部勢が再び前へ出た。
武田の城兵は正面を捨てられない。
岡部を止めなければ、門を破られる。
だが、庵原も止めなければならない。
守る側の兵が二つに割れた。
「入った!」
遠くで声が上がった。
泰満が身を乗り出す。
「城内へ?」
「そのようです」
彌太郎が答える。
しばらくして、城の一角で今川方の旗が立った。
「早いな」
「知っている城を攻めるというのは、こういうことでございましょうか」
「城は変わると言っていたぞ」
「変わっていなかったところを使ったのでしょう」
泰満は城を見る。
武田側の兵が動いている。
正面から奥へ。
その動きを見て、岡部勢が門へ取り付いた。
「今度は正面が薄くなった」
「はい」
「両方守れぬのか」
「数が足りませぬ」
大島と同じだった。
一か所なら守れる。
二か所でも、まだ守れるかもしれない。
だが、守る場所が増えれば、兵を割らなければならない。
今川には後ろから新しい兵を出す余力がある。
城兵には、それがない。
数の差は、正面から押すだけに使うものではなかった。
◇
昼を過ぎる頃には、勝負はほぼ決していた。
城内へ入った庵原勢が一角を押さえる。
岡部勢も門を破った。
武田方の兵の一部は北へ逃げた。
残った者の中には、武器を捨てて降伏する者も出た。
「追いますか」
泰満が尋ねる。
使者が首を振った。
「福島様より、深追いするなとの御命令」
「またか」
彌太郎が笑う。
「またでございますな」
「武田の本隊がいるからか」
「それもございましょう」
城が落ちたからといって、周囲すべてを今川が取ったわけではない。
信虎はまだいる。
むしろ、近づいているかもしれない。
逃げる兵を追って隊を散らせば、その時に武田本隊が来る。
「小瀬戸衆、城内へ!」
新しい命令が来た。
泰満が顔を上げる。
「我らが?」
「城内の整理を手伝えとのことにございます」
「分かった」
泰満は三百へ命じた。
「入るぞ。ただし勝手に家へ入るな」
十二家の頭たちが返事をする。
「城兵の武具を拾う者も止めろ」
彌太郎が横で言う。
「随分、城主らしいことを仰るようになりましたな」
「小瀬戸で散々やったからな」
「寺も建てました」
「それは今関係ないだろう」
「土地を預かるという意味では似ておりますぞ」
「今は城だ」
◇
城内は、戦が終わったばかりだった。
壊れた門。
折れた矢。
倒れた兵。
血の残る土。
踏み荒らされた場所。
火の消えた焚き場。
泰満は三百を分けた。
一組は門。
一組は城内。
一組は外周。
「勝手に動くな。組ごとに持ち場を守れ」
「はっ!」
負傷者を集める。
今川方。
武田方。
分けて横たえる。
捕らえた兵を一か所へ置く。
蔵を確認する。
水場も押さえる。
「井戸は」
「使えます」
村越が答える。
「濁っておらぬか」
「今のところは」
「念のため、最初に汲んだ水は捨てろ。何が入っているか分からぬ」
「承知」
「兵糧蔵は」
「残っております」
「どれほど」
「まだ分かりませぬ」
「すぐ数えろ」
「はい」
「火の始末も見ろ」
「すでに人を回しております」
泰満が頷いた。
城を取った。
だが、それで終わりではない。
火が出れば使えなくなる。
井戸が使えなければ兵を置けない。
兵糧がどれほど残っているかで、ここに置ける兵の数も変わる。
彌太郎が横から言う。
「戦より忙しゅうございますな」
「城を取った後は、いつもこうだ」
「慣れましたか」
「慣れたくはない」
泰満は城内を見回した。
壊すのは早い。
使えるようにする方が時間が掛かる。
それは寺でも。
城でも。
同じらしい。
◇
しばらくして、十二家の頭の一人が来た。
「紀伊守殿」
「何だ」
「捕らえた兵の中に、この城の者がおります」
「武田の兵ではないのか」
「大井家に仕えていた者だと申しております」
泰満の目が少し変わった。
「連れてこい」
男が連れてこられた。
年は四十ほど。
武具は取り上げられている。
「この城にいつからいる」
「昔からにございます」
「武田が入る前から?」
「はい」
「城の者か」
「左様に」
泰満は少し考えた。
「城の蔵を知っているか」
「存じております」
「井戸は」
「存じております」
「ほかに水は」
「城外に一つ」
泰満は村越を見る。
「確認しろ」
「はい」
男が不安そうに泰満を見る。
「私どもは」
「今は捕らえたままだ」
泰満は答えた。
「だが、余計なことをしなければ斬るつもりはない」
男が頭を下げる。
泰満は少し考え、付け加えた。
「この城を使う。知っていることを教えてくれ」
「承知しました」
男が連れていかれる。
彌太郎が言った。
「敵兵も使いますか」
「城を一番知っているのは、ここにいた者だろう」
「御もっとも」
「全部信じるなよ」
「そこまで素直ではございませぬ」
◇
その日の夕刻。
福島助春は、富田城に諸将を集めた。
「ここを使う」
最初の言葉だった。
氏広が頷く。
「河内からここまで、随分伸びましたからな」
「ああ」
河内。
大島。
富田城。
兵が進めば、兵糧を運ぶ距離も伸びる。
負傷者を戻す距離も伸びる。
使者が走る距離も伸びる。
進めば進むほど、後ろとのつながりが重要になる。
「兵糧を一度ここへ集める」
「そうする」
「負傷者も?」
「軽い者はここ。重い者は河内へ戻す」
岡部の将が尋ねる。
「守備はどれほど置きます」
「明日決める」
「城兵の残りは」
氏広が尋ねる。
「使える者は使いたい」
助春が答えた。
「逃げるなら止めぬ者もいる。こちらへ付く者まで斬る必要はない」
氏広が頷く。
「大井の旧臣なら、武田への思いも一様ではないでしょう」
「そなたの仕事だ」
「また私でございますか」
「そういう役だろう」
「否定はいたしませぬ」
助春は絵図を見る。
大島。
そこを越え。
富田城。
今川軍は、ついに甲府盆地へ足を掛けた。
そして富田城を取ったことで、河内から伸びてきた軍の先端に、一つ新しい拠点ができた。
「信虎は」
泰満が尋ねた。
「北だ」
助春が答える。
「まだ退くでしょうか」
「どうだろうな」
氏広が言った。
「大島で止められず、富田も取られた」
「なら、そろそろ話をしてくるか」
助春が氏広を見る。
「そうであれば、私の仕事になります」
「来なければ」
「福島殿の仕事でございましょう」
「分かりやすくてよい」
助春が笑った。
泰満は二人を見ていた。
河内を守るために始まった戦だった。
武田は河内から退いた。
大島でも押し戻された。
そして今。
今川軍は甲府盆地へ入り、武田方の城まで取った。
最初の目的は、すでに果たしたようにも見える。
「福島殿」
氏広が静かに言った。
「何だ」
「これで、河内はしばらく安全でしょう」
「ああ」
「富田も取った」
「ああ」
「信虎が使者を寄越せば、終われますな」
助春は少し考えた。
「寄越せばな」
「はい」
「だが寄越さなければ」
助春の指が、絵図の上を北へ進んだ。
「まだ行く」
氏広は止めなかった。
「そうなりますな」
泰満は、その指の先を見た。
甲府盆地。
そのさらに北。
武田信虎がいる。
富田城は、戦の終わりではなかった。
河内から伸びてきた今川軍が、ここで一度足を置く。
兵糧を集め。
負傷者を休ませ。
城を守る兵を残し。
そこから、さらに北へ進む。
富田城は、この日から今川軍の新しい前線になった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




