第二十九話 大島|武田信虎、道を塞ぐ
岡部勢から使者が戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
山道を駆け下りてきた男は、福島助春の前で膝をつく。
「武田勢を確認!」
助春が顔を上げた。
「どこだ」
「大島の先にございます」
「数は」
「分かりませぬ。ただし旗、多数」
「陣を取っているのか」
「はい。こちらを待っております」
助春は葛山氏広を見る。
「逃げなかったな」
「逃げるつもりで退いたのではなかったのでしょう」
氏広が絵図を引き寄せる。
河内から北へ続く道。
富士川に沿って山を抜ける。
大島の辺りでは、川沿いに少し土地が開ける。
だが、その先へ抜ける道は限られていた。
大軍が通れる場所となれば、さらに少ない。
「ここですか」
「ああ」
助春が指を置く。
「道を塞ぐには悪くない」
「今川を甲府へ出したくないのでしょうな」
「なら、そこを通る」
「簡単に申されます」
「ほかに道があるか」
氏広は少し考えた。
「一万を動かせる道はございませぬな」
「なら決まりだ」
助春は使者を見る。
「岡部に伝えろ。勝手に突っ込むな。庵原が着くまで敵を見ていろ」
「はっ」
「敵が出てきたら」
「どういたします」
「その時は戦え」
「承知!」
使者が立ち上がり、再び北へ走る。
助春は後方を見た。
兵の列は、まだ山道の向こうまで続いている。
「一万集めても」
氏広が言った。
「ここでは一万並べられませぬな」
「ああ」
「武田も同じことを考えているのでしょう」
氏広は絵図の大島を指で押さえた。
「狭い場所へこちらを入れ、一度に戦える人数を減らす」
「一万を一万として使わせぬ」
「そういうことでしょう」
助春が笑う。
「なら、どちらが先に嫌になるかだ」
「そう簡単であればよいのですが」
「そなたはいつも一言多い」
◇
泰満のところへ報せが来るまでには、さらに時間が掛かった。
「武田勢、大島にあり!」
前から来た伝令が声を上げる。
「岡部勢、敵前にて停止!」
泰満は馬上から前を見た。
何も見えない。
葛山勢の後ろ姿があるだけだった。
「武田はどこだ」
「もっと先でございます」
彌太郎が答える。
「岡部殿は」
「もっと先でしょうな」
「戦が始まっても見えぬな」
「山の中ですから」
泰満は振り返った。
三百は道の上に長く伸びている。
その後ろには遠江勢。
さらに荷駄。
ここで勝手に前へ出れば、前の葛山勢へぶつかる。
止まりすぎれば、今度は後ろが詰まる。
「面倒だな」
「大軍というものは、そういうものでございましょう」
「まだ戦ってもいないぞ」
「戦う前だから余計に面倒なのでは」
前が動いた。
「進め!」
泰満が声を上げる。
三百が歩き始める。
しばらく進む。
また止まる。
今度は長かった。
泰満が馬から降りた。
「何があった」
「前が詰まっております」
「それは見れば分かる」
村越が前方から戻ってくる。
「庵原勢が岡部勢の後ろへ入るようです」
「戦が始まるのか」
「そのようです」
泰満は耳を澄ませた。
最初は分からなかった。
風。
川。
兵たちの話し声。
馬の鼻息。
その向こうから、かすかに別の音が聞こえた。
太鼓。
続いて法螺。
しばらくして、人の声。
「始まったな」
彌太郎が言った。
「ああ」
泰満は前を見る。
それでも何も見えない。
自分の軍が戦っている。
だが、その戦場は見えない。
これも大軍なのかと、泰満は思った。
◇
大島では、岡部勢が武田勢と向かい合っていた。
川。
山。
その間のわずかに開けた土地。
北へ抜ける道を押さえるように、武田の兵が陣取っている。
高いところにも旗が見えた。
「正面から来い、ということか」
岡部の将が呟いた。
脇を大きく回る余地はない。
山へ入れば道がなくなる。
川を渡って迂回しようにも、大軍を渡すには時間が掛かる。
その間に武田が動けば、かえって軍を分断される。
信虎は今川軍が通らなければならない場所を押さえていた。
一万の兵がいても、道から出てこられるのが五百なら、最初に相手をするのは五百でよい。
「福島様より、庵原勢到着まで待てとの御命令」
「分かった」
岡部は兵を前へ出しすぎなかった。
武田側も動かない。
互いに弓の届かない距離で見合う。
旗だけが風に動く。
やがて後ろから庵原勢が現れた。
「庵原殿がお着きです!」
「よし」
岡部は立ち上がった。
「行くぞ」
◇
最初に矢が飛んだ。
武田側からだった。
岡部勢の前列が盾を上げる。
何本かが地面へ刺さった。
「進め!」
岡部勢が動く。
足場のよい場所を選びながら前へ出る。
武田勢も陣から出た。
槍がぶつかる。
声が上がる。
岡部勢が押す。
武田勢が下がる。
だが、すぐ後ろから新しい兵が入る。
今度は岡部勢が止まった。
「押せ!」
前へ出る。
また止められる。
槍と槍が組み合う。
前へ出た者が倒れる。
後ろから次が入る。
岡部勢も粘る。
武田も退かない。
武田の狙いは明らかだった。
ここを抜かせない。
今川軍がいくら多くとも、山道から一度に出てこられる兵には限りがある。
正面に来た者だけを受ければよい。
地形が、一万という数を小さくする。
少なくとも、最初はそう見えた。
◇
「岡部勢、交戦!」
報せが福島本隊へ届く。
「どうだ」
「押しておりますが、武田も崩れませぬ」
助春が頷く。
「庵原は」
「すでに後ろへ入っております」
「前へ出せ」
使者が走る。
氏広が助春を見る。
「岡部を替えますか」
「まだ早い」
「疲れますぞ」
「だから庵原を入れる」
助春は前を見た。
「岡部に全部やらせる戦ではない」
ほどなく、再び報せが来た。
「岡部勢、前進止まりました!」
「庵原は」
「右より前へ!」
「そのまま行かせろ」
氏広が絵図を見る。
「武田は、こちらの数を使わせないつもりでしょうな」
「ああ」
「狭いところで受ければ、一万も三千も同じだと」
「最初はな」
助春が言った。
氏広が顔を上げる。
「最初は?」
「岡部が疲れれば庵原がいる」
「はい」
「庵原が疲れれば、わしがいる」
「その後ろに私も」
「その後ろには紀伊守もいる」
氏広が少し笑った。
「随分おりますな」
「それが一万だ」
助春は前へ目を戻した。
「一度に使えぬなら、順に使えばよい」
氏広は一瞬黙った。
それから頷く。
「なるほど」
「何だ」
「福島殿も考えておられるのだな、と」
「喧嘩を売っておるのか」
◇
庵原勢が入ると、戦場の様子が変わった。
岡部勢と正面で組み合っていた武田勢の脇へ、新しい兵が押し出される。
武田も兵を回した。
再び止まる。
だが、今度は長く続かなかった。
岡部勢が少し下がる。
そこへ庵原勢が出る。
疲れた兵の前へ、まだ息の上がっていない兵が入った。
武田側も後ろから兵を足す。
だが、今川のように次々と新しい一隊が山道から出てくるわけではない。
同じ場所で。
同じ兵が。
何度も今川勢を受ける。
「武田、後ろから兵を入れました!」
報せを受けた助春が言う。
「まだあるか」
「はい!」
「なら出させろ」
氏広が横を見る。
「本隊も詰めますか」
「ああ」
助春が立った。
「ここで止まっていても仕方がない」
「福島勢、前へ!」
旗が動く。
本隊が山道から大島へ入り始めた。
今川の後ろには、まだ兵がいる。
武田がどこまで受け続けられるか。
戦は、そこへ変わり始めていた。
◇
泰満の前にも、ようやく命令が届いた。
「葛山勢、前進!」
「小瀬戸衆も間を詰めよ!」
泰満が立ち上がる。
「来たぞ!」
三百が動く。
「家ごとの列を崩すな!」
「はっ!」
「四家ずつ、前との間を見ろ!」
泰満は自分でも前へ出た。
道が少し広くなる。
初めて、遠くに多くの旗が見えた。
「武田か」
「いや」
彌太郎が目を細める。
「手前は福島様の旗です」
「では、その向こうか」
戦の音が一気に近くなる。
矢。
太鼓。
人の叫び。
槍のぶつかる音。
それまで音だけだった戦場が、ようやく姿を見せた。
「三百、止めろ!」
前の葛山勢が止まった。
泰満も止める。
目の前では戦っている。
兵が倒れるのも見える。
武田の旗も見える。
自分には三百いる。
行けば戦える。
だが命令はない。
「まだ行かぬのか」
「命令がございませぬ」
彌太郎が答える。
「分かっている」
前では戦っている。
行けば役に立つようにも思える。
だが、勝手に行けば葛山勢と混ざる。
どこへ入るかも分からない。
隣の隊との間を壊すかもしれない。
「待つ」
泰満が言った。
彌太郎がちらりと見る。
「何だ」
「いえ」
「何か言いたそうだな」
「以前なら、もう走っておられたかと」
「今は三百いる」
泰満は前を見た。
「三百人で勝手はできぬ」
その言葉を口にしてから、自分でも少し驚いた。
昔なら、前へ出ることしか考えなかった。
今は、自分の後ろにいる三百人の動きまで考えなければならない。
◇
戦況が再び動いた。
福島勢が前へ出た。
岡部。
庵原。
その後ろから、さらに新しい兵が加わる。
武田勢も踏みとどまった。
だが、少しずつ位置が下がっている。
「武田、押されております!」
伝令が声を上げる。
助春はすぐに追撃を命じなかった。
「どこが崩れた」
「中央が少し!」
「少しか」
「はい!」
「なら、まだだ」
氏広が頷く。
「退くふりかもしれませぬ」
「ああ」
助春は武田の旗を見る。
まだ揃っている。
兵も逃げてはいない。
後ろへ下がりながら、隊を作り直している。
「岡部を深く入れるな」
「はっ!」
「庵原も追いすぎるな!」
命令が飛ぶ。
武田は下がる。
今川が押す。
だが一気に崩れない。
それでも戦いが長くなるほど、差が出た。
武田側は同じ場所で兵を使い続ける。
今川側は、新しい隊を前へ出せる。
一度に一万が戦う必要はなかった。
五百が疲れれば、次の五百。
その次。
さらにその次。
後ろにまだ兵がいる。
その事実そのものが、前で戦う者を支えている。
◇
「紀伊守!」
前から使者が来た。
「はっ!」
「葛山勢に続け!」
「承知!」
泰満が振り返る。
「行くぞ!」
三百が動いた。
今度は止まらない。
前の葛山勢が広がる。
泰満の隊も戦場へ入った。
「朝比奈の百は左!」
「はっ!」
「第一の四家は中央!」
「第二はその後ろ!」
「第三は右へ!」
十二家の頭がそれぞれ兵を動かす。
完全に思い通りとはいかない。
声が届かない。
隣の組と近づきすぎる。
遅れる者もいる。
三百という数が、急に大きく感じられた。
「彌太郎!」
「はい!」
「右を見ろ!」
「承知!」
「村越、後ろを詰めろ!」
「はっ!」
泰満自身は中央へ進んだ。
武田勢の姿が見える。
思っていたより近い。
「槍!」
前列が揃う。
相手も槍を出す。
ぶつかった。
泰満の隊が初めて武田勢と正面から当たった。
「押せ!」
兵が声を上げる。
一歩。
止まる。
武田も強い。
押し返される者がいる。
倒れる者がいる。
「無理に出るな!」
泰満が叫ぶ。
「横を空けるな!」
自分の三百だけで戦っているのではない。
左には別の今川勢。
右にもいる。
前には福島や庵原の兵。
自分だけが前へ出れば、その線が崩れる。
敵を一人討つことより。
場所を守る。
隣と揃える。
前へ出る時を合わせる。
「前へ!」
再び押す。
今度は武田側が下がった。
一歩。
二歩。
そして、少し大きく下がる。
「追いますか!」
十二家の一人が叫ぶ。
「待て!」
泰満が止めた。
「前を見ろ!」
武田勢は逃げていない。
後ろへ下がりながら隊を作り直している。
「勝手に追うな!」
「はっ!」
少し遅れて、福島から同じ命令が届いた。
「全軍、追いすぎるな!」
泰満は小さく息を吐いた。
自分の判断が、総大将の命令と同じだった。
それだけのことだった。
だが、少しだけ胸の奥に残った。
◇
日が傾く頃。
武田勢は大島から北へ退いた。
今川勢はその場を押さえた。
岡部勢はひどく疲れていた。
庵原勢にも負傷者が多い。
福島勢も戦っている。
泰満の三百にも、傷を負った者が出た。
兵を集め直し。
人数を数え。
家ごとに確かめる。
少し時間が掛かった。
「死者は」
泰満が尋ねる。
彌太郎が答えた。
「今のところ、五人」
泰満の顔が止まる。
「五人か」
「重傷が七人」
「十二家は」
「そちらにもおります」
「小瀬戸は」
「二人」
泰満は黙った。
「全部、名を出してくれ」
「もう始めております」
「十二家ごとに分けろ。誰の家の者か分からなくなるな」
「はい」
泰満は戦場を見る。
勝った。
少なくとも今日、武田は今川軍を止められなかった。
道を開いた。
北へ進める。
だが。
三百で入って。
もう五人、帰れなくなった。
朝、小瀬戸を出た時には生きていた。
駿府で預かった時にも生きていた。
昨日、河内を歩いた時にも。
「若」
「何だ」
「今日は勝ちでございます」
「ああ」
「浮かぬ顔ですな」
「勝っても死ぬのだな」
彌太郎は何も言わなかった。
泰満も、それ以上は言わなかった。
勝てば全員帰れるわけではない。
そんなことは分かっていた。
分かっていたはずだった。
だが、人数として聞くのと。
自分が預かった兵の名として聞くのは、違った。
◇
福島助春の陣には、日が暮れてから諸将が集まった。
「武田は北へ退いた」
助春が言う。
「斥候を出している。今夜は追わぬ」
誰も異を唱えない。
「岡部」
「はっ」
「よく持った」
「恐れ入ります」
「庵原もだ」
「はっ」
助春は絵図を見る。
「信虎は、ここで止めるつもりだったのでしょうな」
氏広が言った。
「ああ」
「地形を使えば、こちらの数は殺せる」
「実際、最初は殺された」
岡部の将が苦笑する。
「こちらは何度押しても抜けませなんだ」
「だが抜いた」
助春が言う。
「後ろに兵がいたからだ」
氏広が頷く。
「武田には、同じ兵で何度も受けるしかなかった」
「こちらは替えられる」
「一万の強みは、そこですか」
「ああ」
助春は満足そうだった。
「一度に一万で戦う必要などない」
岡部の将も頷く。
「前が疲れれば、後ろが出る」
「後ろがいると分かっているだけでも、前は持ちます」
庵原の将が言った。
助春が頷く。
「それもある」
氏広が絵図の大島を見た。
「武田は、今川の数を地形で殺そうとした」
「ああ」
「今川は、数を時間に変えた」
助春が氏広を見る。
「何だ、それは」
「一度に出せぬなら、次々出す。兵の数を、一日の長さの中で使ったということでございます」
助春は少し考えた。
「難しい言い方をするな」
「そういう役でございますので」
周囲に小さな笑いが起きた。
「正面から受けるなら、こちらが勝つ」
助春が言った。
氏広が少しだけ助春を見る。
「今日のところは、でございますな」
助春が眉を上げる。
「また面倒なことを言う」
「武田も今日の戦を見ております」
「それがどうした」
「今川が何をしたか。どこから新しい兵を入れたか。何をされると苦しいか」
助春は黙る。
「次も同じ場所で、同じように戦ってくれるとは限りませぬ」
少しの沈黙。
それから助春が笑った。
「なら、次の戦い方も破ればよい」
「福島殿らしい」
「そなたは考えすぎる」
「福島殿は考えなさすぎます」
「何だと」
また小さな笑いが起きる。
泰満は末席で、そのやり取りを聞いていた。
だが。
氏広の言葉だけは、妙に耳に残った。
武田も今日の戦を見ている。
今川が何をしたか。
どこが強かったか。
何が弱かったか。
敵もまた、それを見ている。
こちらだけが学ぶわけではない。
泰満は黙って、甲斐の絵図を見た。
大島。
今日通った場所。
その先へ、道はまだ北へ続いている。
そして、その先では信虎もまた、次の戦い方を考えているはずだった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




