第二十八話 河内|一万の軍、甲斐へ入る
駿府を出てしばらくは、道も広かった。
東海道から北へ外れ、山へ近づくにつれて景色が変わる。
家が減り。
田が減り。
道が細くなる。
前を進んでいた岡部勢の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
「先ほどまで旗が見えていたのだが」
泰満が言った。
「山へ入れば、こんなものでございましょう」
彌太郎が答える。
「同じ軍なのだろう」
「同じ軍でございます」
「見えぬぞ」
「一万が全部見えたら、それはそれで困ります」
「なぜだ」
「道に入りきりませぬ」
泰満は振り返った。
自分の後ろには、小瀬戸から連れてきた百。
その後ろに、十二家から預かった二百が続いている。
さらに後方には別の軍勢がいるはずだった。
だが、それも見えない。
山道が曲がるたびに、人の列は途切れる。
「これで一万と言われても、よく分からぬな」
「紀伊守様が見ておられるのは三百だけですからな」
「前には岡部殿」
「その後ろに庵原勢」
「その後ろに福島殿」
「葛山殿もおります」
「わしらが続いて」
「さらに後ろに遠江勢」
彌太郎が指を折った。
「全部つながれば、大軍でございます」
「つながれば、か」
泰満は前を見る。
道はさらに狭くなっていた。
二人並んで歩ける場所もあれば、一列にならなければ進めない場所もある。
荷駄が止まれば、その後ろも止まる。
馬が足を取られれば、また止まる。
前の軍勢が休めば、自分たちも進めない。
逆に、自分たちが止まれば、その後ろの兵も止まる。
「戦になった時も、こんなものか」
「場所によるでしょう」
「前が戦っていても、後ろは知らぬこともある?」
「ありましょうな」
「一万いても」
「一万が一度に槍を突けるわけではございませぬ」
泰満は何も言わなかった。
大軍とは、もっと大きな塊だと思っていた。
広い野に、一万の兵が並ぶ。
旗が無数に立ち。
一斉に動く。
そんなものを想像していた。
だが、実際にその中へ入ってみると違う。
百。
二百。
三百。
それぞれの家の兵が、道の上に長く伸びている。
前にいる者は後ろを見られない。
後ろにいる者は前で何が起きているか分からない。
一万というのは、その全部を足した数にすぎなかった。
それでも、命令が通り。
道がつながり。
兵糧が届き。
前と後ろが同じ目的で動けば、一つの軍になる。
泰満は、自分の三百を見た。
これも同じだった。
◇
昼を過ぎた頃。
前から伝令が下ってきた。
「岡部勢、先の道を越えました!」
泰満が道を開けさせる。
「武田は」
「姿なし!」
「河内まであとどれほどだ」
「この先、半日ほど!」
伝令はそのまま後方へ走っていった。
命令や報せも、こうして前から後ろへ渡される。
一万の軍が一つに動いているように見えても、その間を走る者がいる。
命令を伝える者。
道の様子を知らせる者。
遅れた軍勢を急がせる者。
そういう者が止まれば、軍も止まる。
泰満は自分の三百へ声を掛けた。
「ここで少し休む」
兵が道の脇へ寄る。
座る者。
水を飲む者。
草鞋を締め直す者。
村越は荷駄を見ていた。
「遅れている馬は」
「二頭ほどおります」
「置いていくか」
「まだ歩けます」
「無理をさせるな」
「承知」
泰満は十二家の頭を順に見た。
今朝よりは、少し顔と名前が一致するようになった。
「具合の悪い者はいるか」
「こちらはおりませぬ」
「二人、足に豆が」
「草鞋を替えさせろ」
「はい」
別の男が言った。
「紀伊守殿」
「何だ」
「この程度なら、まだ心配はいりませぬ」
「分かっている」
「ずいぶん細かく御覧になるので」
「三百も預けられたからだ」
男が少し笑った。
「二十人でも同じでございましたか」
泰満が男を見る。
「なぜ知っている」
「曳馬で若い朝比奈殿が二十人を連れて走り回った、と聞いたことがございます」
彌太郎が横で吹き出した。
「有名でございますな」
「笑うな」
「若殿の武名でございましょう」
「そういう話ではなかった」
「では、どういう話で」
「必死だっただけだ」
男が少しだけ笑った。
泰満は立ち上がった。
「休憩は終わりだ」
「照れましたな」
「彌太郎」
「はい」
「先へ行け」
「置いていかれそうなので嫌です」
◇
河内へ入った時。
泰満が最初に感じたのは、静かだということだった。
戦の最中だと聞いていた。
もっと声がし。
兵が走り。
どこかで火が上がっていると思っていた。
だが、道の先に武田勢はいない。
岡部勢が周囲を警戒しながら進んでいるだけだった。
「退いたのか」
泰満が呟いた。
少し進んで、その静けさの理由が見えてきた。
柵が壊れている。
土がえぐられている。
道端には折れた矢が何本も落ちていた。
木には刃が当たった跡もある。
踏み荒らされた地面。
黒く焦げた場所。
折れた槍の柄。
埋められたばかりらしい土盛りが、道から少し離れた場所に幾つも並んでいた。
泰満の顔から笑みが消えた。
「ここで戦ったのか」
「そのようですな」
彌太郎も声を落とした。
さらに進む。
負傷した兵がいた。
頭に布を巻いた者。
片腕を吊った者。
杖をついて歩く者。
富士勢らしい。
泰満たちの軍列を見て、道を空ける。
一人が小さく言った。
「ようやく来たか」
責める声ではなかった。
疲れきった声だった。
それだけに、泰満は返す言葉がなかった。
春から。
福島たちは、ここにいた。
二千の兵が河内にいるだけで、武田は南へ来られない。
そう考えていた。
確かに、それで何月も戦を起こさずに済んだ。
何も起きないことが役目だった。
だが。
いざ武田が来れば。
そこに残るために、人が死ぬ。
何も起きない状態を守るためにも、最後には戦う者がいる。
「若」
「何だ」
「止まりますぞ」
前の軍勢が詰まっていた。
泰満は我に返る。
「三百を道へ広げるな。詰めろ」
「はっ」
声を上げた。
「十二家、前との間を空けすぎるな!」
返事が返る。
今は考えている場合ではない。
自分にも三百がいる。
◇
福島助春の陣は、思ったより小さく見えた。
正確には。
周囲の兵が減っていた。
負傷兵は後ろへ回され。
富士勢の一部も別の場所で立て直している。
柵は直されている。
だが新しい木と古い木が混じり、どこが破られた場所なのかはすぐ分かった。
それでも福島の旗は立っていた。
泰満が陣へ入ると、助春は外にいた。
「おお」
泰満を見つける。
「紀伊守ではないか」
「御無事で何よりにございます」
「無事に見えるか」
泰満は少し助春を見た。
「……少し、お痩せになりましたか」
「半年も山で兵を食わせてみろ」
助春が自分の腹を叩く。
「兵だけではない。わしまで痩せる」
彌太郎が頭を下げながら笑いを堪えている。
「笑ったな」
「滅相もございませぬ」
「泰以殿のところの者は、昔からこれだから困る」
「叔父上をご存じなので」
「知りたくもないほど知っている」
助春はそう言ってから、泰満の後ろを見た。
「何人だ」
「三百」
「ほう」
「小瀬戸から百。駿府で二百預けられました」
「ずいぶん増えたな」
「私もそう思っております」
「そのうち千になる」
「やめてください」
助春が笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
北を向く。
「信虎は引いた」
「増援を見て、ですか」
「おそらくな」
「どこまで」
「まだ分からぬ」
助春の表情が変わった。
「追わなかったので?」
「追えると思うか」
泰満は周囲を見る。
壊れた陣。
負傷した兵。
空いた場所。
以前ここに立っていた兵が、今はいないことも分かる。
「……無理ですね」
「ああ」
「御屋形様からも、河内を守れと」
「それもある」
助春は言った。
「だが一番は、兵が疲れていた」
泰満は助春を見る。
「追えば勝てたかもしれぬ」
「はい」
「負けたかもしれぬ」
「はい」
「分からぬなら、追わぬ」
泰満は少し驚いた。
以前なら、助春は真っ先に追う男だと思っていた。
助春が泰満の顔を見て笑う。
「何だ」
「いえ」
「わしが追わなかったのが意外か」
「少し」
「御屋形様に半年待たされた」
助春は肩をすくめた。
「多少は我慢も覚える」
それから声を落とした。
「それにな」
「はい」
「信虎も馬鹿ではない」
泰満の顔が引き締まる。
「こちらの増援が来るまで、ここで全部ぶつける必要はない」
「一度下がり」
「あちらに都合のよい場所で待つ」
助春は北を見る。
「こちらは、河内へ入る道を知っている。だが、その先は武田の方が知っている」
「では」
「次からはこちらが、知らぬ土地へ入る」
泰満も北を見る。
山が続いている。
その向こうに、まだ見たことのない甲斐がある。
「次はこちらが行く番だ」
◇
その日の夕刻。
河内に入った諸将が集められた。
福島助春。
葛山氏広。
岡部。
庵原。
駿河の諸将。
泰満も末席に座っている。
遠江勢はまだ全てが到着してはいない。
後方から順次入っている最中だった。
絵図が広げられた。
助春が最初に口を開く。
「武田は北へ退いた」
岡部の将が尋ねる。
「どこまで」
「斥候を出している。だが、まだ掴みきれておらぬ」
「追撃は」
「今日はせぬ」
助春の答えは早かった。
「兵を休ませる」
葛山氏広が頷く。
「それがよろしいでしょう」
助春が氏広を見る。
「随分簡単に賛成するな」
「福島殿が追うと申されると思っておりましたので」
「皆、わしを何だと思っておる」
「攻める方で」
部屋の空気が少し緩んだ。
助春も鼻で笑った。
「間違ってはおらぬ」
それから絵図へ手を置く。
「だが、ここからは別だ」
指が河内から北へ進む。
「御屋形様の命は、信虎を押し戻すこと」
「河内はすでに戻りました」
氏広が言う。
助春が顔を上げた。
「戻った?」
「正しくは、武田がいったん退いた、でしょうな」
「同じではないか」
「違います」
氏広は穏やかに答えた。
「こちらが強くなったから退いたのか。別の場所で戦うために退いたのか。まだ分かりませぬ」
助春は少し黙った。
「なら、確かめに行く」
「そこは同意いたします」
氏広の指も北へ動く。
「このまま今川が河内に止まれば、信虎は兵を整えてまた来ることができます」
「だから叩く」
「はい」
「信虎が二度と来られぬところまで」
氏広が助春を見る。
「そこは少し違います」
「何がだ」
「二度と、ではございませぬ」
室内が静かになる。
「御屋形様が望んでおられるのは、武田を滅ぼすことではない」
「分かっておる」
「ならば、信虎が話に応じるところまででよい」
助春は絵図を見た。
「応じなければ」
「押す」
「それでも応じなければ」
「さらに押す」
「同じではないか」
「終わる場所を忘れぬという話です」
助春は一度だけ笑った。
「そなたは面倒だな」
「よく言われます」
泰満は二人の話を聞いていた。
どちらが間違っているわけでもない。
助春は、戦を前へ進める。
氏広は、その戦をどこで止めるかを見る。
役目が違う。
氏親が二人を並べた理由が、少し分かった気がした。
「では」
岡部の将が話を戻した。
「河内にどれほど残します」
助春が周囲を見る。
「春からいた兵のうち、傷んだ者は下げる」
「駿河まで?」
「ひどい者はな。軽い者は河内に残す」
「守備は」
「富士勢を立て直す。穴山勢とも合わせる」
氏広が補う。
「道と兵糧を知る者も残した方がよろしいでしょう」
「ああ」
「全軍で北へ出るわけではないので」
「当然だ」
助春の指が絵図を北へ進む。
「先は岡部」
岡部の将が頭を下げる。
「はっ」
「道を見ろ。敵を見つけても勝手に奥へ入るな」
「承知」
「その後ろに庵原」
「はっ」
「岡部が当たればすぐ支えろ」
庵原の将が頷いた。
「本隊はわしが率いる」
助春が続ける。
「氏広は近くにいろ」
「私の兵も本隊に続けます」
「ああ」
次に助春の目が泰満へ向いた。
「紀伊守」
「はっ」
「そなたの三百は、氏広の後ろだ」
「承知しました」
「本陣から使いが行くこともある」
「はい」
「勝手に前へ出るなよ」
泰満が少し顔をしかめる。
「なぜ私だけ」
「若いからだ」
「私はもう紀伊守です」
「では若い紀伊守だからだ」
部屋の何人かが笑った。
助春はそのまま後ろを見る。
「遠江勢は後備え」
泰満は泰能の方を見た。
「後ろを固めろ。荷駄もある。河内との道を切らせるな」
泰能が頭を下げる。
「承知」
助春は絵図全体を見る。
先鋒。
その支え。
本隊。
交渉役。
後備え。
守備。
一万の兵が一つにまとまっているのではない。
役目を分けることで、一つの軍になる。
「明朝、岡部から動く」
助春の声が締まる。
「武田が退いたからといって、戦が終わったと思うな」
誰も笑わなかった。
「ここからが、こちらの戦だ」
◇
翌朝。
まだ山に霧が残っているうちに、岡部勢が動いた。
兵が列を作る。
旗が揺れる。
やがて山道へ入り、その姿が消えた。
すぐには次は動かない。
しばらく待つ。
前との間を取る。
道が詰まれば、後ろまで動けなくなる。
やがて庵原勢が出る。
それも山へ消える。
次に福島の旗が上がった。
「本隊、進め!」
声が響く。
福島勢が動く。
葛山勢が続いた。
泰満は馬上で、それを見ていた。
「紀伊守様」
村越が来る。
「前より、出立の合図にございます」
「分かった」
泰満は後ろを見る。
三百人。
小瀬戸の百。
十二家の二百。
駿府で初めて顔を合わせた兵たちも、今は三つのまとまりに分かれて並んでいる。
それぞれの頭も決まった。
昨日より、少しだけ軍らしく見えた。
「彌太郎」
「はい」
「前との間を空けすぎるな」
「承知」
「村越、荷駄を遅らせるな」
「はい」
十二家の頭たちを見る。
「行きます」
一人が答えた。
「はっ」
「三百、動け!」
列が進み始めた。
前には葛山の旗。
さらに前には福島。
その先に庵原。
もっと先に岡部。
振り返れば、山の向こうから遠江勢が続いてくる。
すべてを見渡すことはできない。
すべての兵の顔を見ることもできない。
それでも同じ軍だった。
前が道を開き。
後ろが支え。
荷駄が続き。
命令が行き来する。
そうして一万が動く。
河内を守るために置かれた軍は、この日から姿を変えた。
武田を待つ軍ではない。
武田を追って、北へ進む軍となった。
泰満も、その長い列の中にいた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




