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第二十六話 河内危うし|武田信虎、南へ動く

 大永元年八月。

 河内の山々には、朝から低い雲が垂れ込めていた。

 福島助春は陣の外へ出ると、北へ続く道を見た。

 春から何度、この道を見ただろう。

 何も来ない日が続いた。

 斥候が戻る。

 甲府に動きなし。

 武田勢、南下せず。

 穴山にも大きな変わりなし。

 それを聞くたび、助春は少しだけ退屈そうな顔をした。

 待て。

 氏親にそう命じられた。

 武田が来なければ、それでよい。

 河内に今川の旗があり、信虎が南へ出てこなければ、それだけで役目は果たしている。

 頭では分かっていた。

 だが、戦場へ出ることに慣れた助春にとって、敵を待ちながら何か月も山中にいるのは、やはり性に合わなかった。

 その朝までは。

 遠くで馬の音がした。

 一騎。

 北の道から、泥を跳ね上げながらこちらへ駆けてくる。

 陣へ飛び込んできた男は、馬から転がるように降りた。

「福島様!」

 息が切れている。

「武田勢、河内へ入りました!」

 助春の顔から、わずかに残っていた笑みが消えた。

「数は」

「分かりませぬ。ですが大軍にございます!」

「どこだ」

「北より南下。すでに富士勢が当たっております!」

 助春が振り返る。

「鐘を鳴らせ」

「はっ!」

「諸勢を持ち場へ戻せ。荷駄は後ろへ下げろ」

 陣が一気に動き始めた。

 鐘が鳴る。

 休んでいた兵が立ち上がる。

 槍が運ばれ。

 弓が配られ。

 馬が引き出される。

 春から待っていた敵だった。

 だが、待っていたからといって、都合よく来るわけではない。

「信虎本人は」

「旗を見た者がおります!」

 助春の目が細くなった。

「来たか」

 武田信虎。

 ついに自ら河内へ出てきた。

     ◇

 最初の崩れは、思っていたより早かった。

 昼を待たず、南から兵が駆け込んできた。

「富士勢、崩れました!」

「どこまで下がった」

「後ろの尾根まで!」

「武田は」

「追っております!」

 助春は立ち上がった。

「全部崩れたのか」

「いえ。まとまって退いておりますが――」

「なら、まだ終わっておらぬ」

 助春は周囲を見た。

「富士勢をこちらへ入れろ。逃げる道は空けておけ」

 家臣が顔を上げる。

「そのまま武田も来ます!」

「だからだ」

「は?」

「崩れた兵を狭い道で止めれば、こちらまで巻き込まれる」

 助春は道を指した。

「一度通せ。その後ろを閉じる」

「はっ!」

 命令が飛ぶ。

 槍が動く。

 弓が前へ出る。

 柵の間が開けられる。

 やがて富士勢が姿を現した。

 乱れている。

 だが、潰れてはいない。

 負傷した者を支えながら走る兵。

 兜を失った者。

 弓を捨て、槍だけを持つ者。

 泥まみれになった旗。

 その後ろから、武田勢の声が近づいてくる。

「まだ閉じるな!」

 助春が怒鳴った。

 富士勢が次々と陣へ入る。

 後ろを振り返る者。

 転ぶ者。

 仲間に引き上げられる者。

「もうよい!」

 柵が閉じられる。

「弓!」

 矢が一斉に飛んだ。

 追ってきた武田勢の先頭が崩れる。

 だが止まらない。

「来るぞ!」

 槍が前へ並ぶ。

 武田勢がぶつかった。

 木が軋む。

 槍が折れる。

 人の声が重なる。

 助春は陣の中央から前を見る。

 春から何度も整え直した陣だった。

 道を見て。

 地面を見て。

 どこに柵を置く。

 どこへ弓を置く。

 どこを空ければ兵が動ける。

 何度も確かめてきた。

 何も起きなければ、それでよい。

 氏親はそう言った。

 だが、何も起きなかった数か月が、無駄だったわけではない。

 待っている間に作った陣が、今、兵を守っている。

「右が薄い!」

「二組回せ!」

「左の柵は」

「まだ持ちます!」

「穴山勢は」

「南の道を守っております!」

「動かすな!」

 助春は北を見た。

 武田勢はまだ続いている。

 信虎がどれほどの兵を入れたのか、まだ分からない。

 分かることは一つ。

 ここで崩れるわけにはいかない。

 河内を空ければ、その先は駿河だった。

     ◇

 夕方。

 武田勢は一度下がった。

 追え、と言う者はいなかった。

 助春自身も言わなかった。

 氏親から言われた言葉を忘れてはいない。

 河内から出せれば、それでよい。

 前には死者が残っている。

 今川方にも多くの負傷者が出た。

 富士勢の損害はさらに大きい。

 陣の中では、傷を洗う者。

 矢を抜く者。

 壊れた柵を直す者。

 槍を集め直す者。

 日が落ちても、誰も休めなかった。

「福島様」

 家臣が近づく。

「武田は明日も来るでしょうか」

「来る」

「やはり」

「今日、押せたからな」

 助春は北を見る。

「信虎なら、もう一度来る」

「駿府へ知らせますか」

「ああ」

 助春は少し考えた。

「すぐ出せ」

「何と」

「見たまま伝えろ」

 家臣が筆を取る。

「武田信虎、河内へ侵攻」

「はい」

「富士勢敗退」

「はい」

「福島勢、河内にて防戦中」

 筆が止まる。

「援軍を求めますか」

 助春は答えなかった。

 しばらく北の山を見る。

 ここへ来た時、氏親に言われた。

 そなたに任せるのは、武田を倒すためではない。

 河内を武田に渡さぬためだ。

 その役目はまだ終わっていない。

「書け」

「はっ」

「河内を捨てるつもりはない」

 家臣が顔を上げた。

「そのうえで」

 助春は続ける。

「このままでは、長くは持たぬ」

 筆が再び動いた。

「急ぎ、御屋形様へ」

「はっ」

 使者はその日のうちに河内を発った。

     ◇

 駿府へ急報が入ったのは、それから間もなくのことだった。

 今川館へ駆け込んだ使者は、休む間もなく氏親の前へ通された。

 朝比奈時茂。

 葛山氏広。

 二人もすでに呼ばれている。

「申せ」

 氏親が言った。

 使者が頭を下げる。

「八月二十八日、武田信虎、河内へ侵攻!」

 時茂の顔が上がった。

「富士勢、武田勢と交戦するも崩され、後退!」

 氏広がすぐに絵図へ手を伸ばした。

「福島は」

「河内にて防戦しております」

「陣は」

「まだ保っております」

 氏親が尋ねた。

「穴山は」

「今川方にございます」

「武田へついた者は」

「今のところ、確認できておりませぬ」

 氏親は黙った。

 春。

 福島助春を河内へ入れた。

 二千。

 目的は、武田を南へ出さないことだった。

 その武田が、今来た。

「助春は何と」

 使者が書状を差し出す。

 時茂が受け取り、氏親へ渡した。

 氏親は読む。

 短い。

 富士勢敗退。

 武田勢なお南下の構え。

 福島勢、河内を保持。

 そして最後に。

 このままでは長くは持たぬ。

 氏親は書状を置いた。

 部屋には、しばらく誰の声もなかった。

 河内。

 春から福島助春が守ってきた場所だった。

 武田を南へ出さない。

 そのために二千を置いた。

 そして今、その二千が実際に信虎を止めている。

「福島殿を退かせますか」

 時茂が尋ねた。

 氏親は絵図を見たまま答えない。

 氏広も河内から南へ目を移した。

 山を越えれば駿河だった。

「退かせれば」

 氏親がようやく口を開いた。

「次はどこで信虎を止める」

 時茂が答える。

「駿河境にございます」

「それでは遅い」

 氏親の指が河内を押さえた。

「ここで止めるために、助春を置いた」

「はい」

「ならば、まず助春を持たせる」

 氏広が顔を上げる。

「援軍を急がせますか」

「ああ」

 氏親は氏広を見る。

「そなたが先に行け」

「私が」

「河内へ入れ」

 氏広の表情が変わった。

「兵は」

「葛山から出せるだけ出せ。由比、蒲原にも使いを出す」

 時茂が絵図を見る。

 いずれも河内へ兵を送りやすい。

 掛川や遠江の諸勢が集まるのを待つより早い。

 今必要なのは、大軍ではない。

 明日、明後日を持たせる兵だった。

「富士勢の残った兵も」

 氏広が尋ねる。

「まとめられる者はまとめろ」

「承知しました」

「助春と穴山を支えよ。武田をこれ以上南へ出すな」

 氏広が深く頭を下げた。

「すぐに発ちます」

「頼む」

 氏広が立とうとしたところで、氏親が呼び止めた。

「氏広」

「はい」

「信虎から使者が来たら、そなたが受けろ」

 氏広が氏親を見る。

「和睦を申し出たならば、でございますか」

「ああ」

「今の段階でも?」

「今だからだ」

 氏親は言った。

「武田を滅ぼすために始めた戦ではない」

 氏広が静かに頷いた。

「武田を河内から退かせればよい」

「そうだ」

「その先は、話ができるなら話す」

「ああ」

 氏親は絵図から目を離さない。

「戦は、終わらせるところまで考えねばならぬ」

「心得ました」

 今度こそ氏広は立ち上がり、部屋を出ていった。

     ◇

 氏広が去ると、氏親は時茂へ向き直った。

「こちらも集める」

「どれほど」

「まだ決めぬ」

「駿河から」

「まず近いところからだ」

 氏親は絵図の上を指でなぞった。

 駿府。

 その周辺。

 西へ。

 小瀬戸。

 さらに東海道を遠江へ進む。

「すぐ動ける家へ先に触れを出せ」

「はい」

「岡部にも」

「承知」

「小瀬戸も近いな」

 時茂の指が止まった。

「半日ほどで参れましょう」

「なら出させろ」

 時茂は一瞬だけ氏親を見た。

 小瀬戸を預かっているのは、自分の次男だった。

「紀伊守に?」

「ああ」

「どれほど」

「百」

 時茂が頷く。

「承知しました」

「残りは小瀬戸を守らせろ。城を空にする必要はない」

「はい」

 時茂はもう一度、小瀬戸の位置を見た。

 百。

 泰満が初めて自分の名で動かす兵になる。

 だが今は、その意味を考えている時ではなかった。

 氏親の指は、さらに西へ進んだ。

 掛川。

「掛川にも触れを」

「泰能へ?」

「ああ」

「どこまで遠江を動かします」

 氏親は少し考えた。

「西まで呼ぶ必要はない」

 指が天竜川の手前で止まった。

「東海道沿いで、早く兵を出せる者だけでよい」

「天竜川より東」

「そのくらいで見ろ」

「高天神は」

 氏親は一瞬考えた。

 福島助春本人は河内にいる。

 だが、福島の家から出せる兵がすべて甲斐へ行っているわけではない。

「守りを薄くせぬ程度に出させろ」

「承知」

 時茂は頭の中で数を組み始めた。

 駿河の諸勢。

 小瀬戸。

 岡部。

 掛川。

 東海道沿いの遠江諸家。

 一度に集まるわけではない。

 それぞれの城で命令を受け。

 兵を数え。

 武具を揃え。

 兵糧を出し。

 それから駿府へ向かう。

「御屋形様」

「何だ」

「全軍が揃うのを待ちますか」

「待たぬ」

 氏親は即座に答えた。

「助春は今、戦っておる」

「はい」

「一千集まれば一千送れ。次に二千来れば、それも送れ」

「では、順次河内へ」

「ああ」

 氏親は河内から北へ指を動かした。

「ただ助春を助けるだけでは終わらせぬ」

 時茂が顔を上げる。

「反攻しますか」

「信虎を河内から押し出す」

「その先は」

「武田の出方を見る」

「甲府まで?」

「必要なら入る」

 氏親はそこで言葉を切った。

「だが、甲斐を取るためではない」

「はい」

「河内を取り戻すだけでも足りぬ」

 時茂が黙って聞く。

「信虎が、退けばまた来ればよいと思っているうちは同じことになる」

「では武田を叩き」

「ああ」

「すぐには南へ出られぬところまで押す」

「そうだ」

 氏親は絵図の甲府を見た。

「そのうえで話をする」

 数年前。

 宗長を甲府へ送り、武田との戦を閉じた。

 あの時より、今の信虎は強い。

 大井を屈服させ。

 甲斐の国衆をまとめ。

 以前より大きな兵を動かせるようになっている。

 ならば、同じ条件では戻らない。

 武田に、南へ出れば今川が出てくると思わせる必要がある。

 武田に従えばよいと考えている甲斐の国衆にも、それを見せなければならない。

「時茂」

「はっ」

「急げ」

 時茂は深く頭を下げた。

     ◇

 その夜。

 今川館から、何人もの使者が走った。

 東へ。

 西へ。

 北へ。

 河内へ急ぐ者。

 葛山へ向かう者。

 由比。

 蒲原。

 岡部。

 そして小瀬戸。

 さらに東海道を掛川へ走る者もいた。

 一枚の命令で、一万の兵が現れるわけではない。

 一つの城から百。

 別の家から二百。

 五百。

 千。

 それぞれの土地で兵が集められる。

 誰を出す。

 誰を残す。

 槍を何本持たせる。

 弓はいくつある。

 米は何日分積む。

 馬を何頭出せる。

 そうした小さな支度が、いくつも重なって初めて軍勢になる。

 時茂は次々と書付を作っていた。

 一枚を書き終える。

 次を取る。

 また書く。

 その中の一枚に、見慣れた名を書く。

 朝比奈紀伊守泰満。

 小瀬戸より百。

 筆が止まった。

 ほんの一瞬だけ、その名を見る。

 掛川で、自分の後ろをついて歩いていた子ではない。

 今は城を預かる。

 知行を持つ。

 紀伊守を名乗る。

 そして、自分の兵を率いて戦場へ出る立場になった。

 時茂は静かに息を吐いた。

 すぐに次の書付を取る。

 今は父ではない。

 今川氏親の奉行として、兵を集めていた。



今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

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