第二十五話 見性寺|紀伊守、土地を裁く
春が過ぎる頃には、見性寺の普請も目に見えて進んでいた。
最初に楠谷へ来た時には、山裾に荒れた土地があるだけだった。
古い寺の跡。
崩れた石。
草に埋もれた道。
そこへ人が入り。
木を切り。
土をならし。
柱を立てた。
少しずつ、寺の形が戻り始めていた。
泰満も何度か小瀬戸から足を運んだ。
最初は、何を見ればよいのかさえ分からなかった。
今は少し違う。
「この道では狭くないか」
泰満が尋ねる。
普請を預かる者が答えた。
「荷車一台なら通れます」
「すれ違えぬ」
「普段から何台も通る道ではございませぬ」
「寺ができれば、人は増えるだろう」
「参詣の者まで荷車では参りますまい」
「そうだが」
泰満は道を見る。
以前なら、狭いか広いかだけを見ていた。
今は、その道を誰が使うかを考える。
木を運ぶ。
米を運ぶ。
僧が歩く。
村人が通る。
病人を運ぶこともある。
死者を運ぶこともある。
寺が建てば、今までなかった人の流れも生まれる。
「広げすぎれば畑を削ります」
村越が言った。
泰満は道の脇を見る。
確かに畑が近い。
「それも困るな」
「ならば、このままでよろしいのでは」
「……そうするか」
泰満は少し不満だった。
広げれば便利になる。
だが、そのために誰かの畑を削る。
一つを良くしようとすれば、別の何かを動かさなければならない。
小瀬戸へ来てから、そういうことばかりだった。
城の中だけ見ていれば済んだ頃には、考えもしなかったことだった。
◇
問題が起きたのは、それから間もなくだった。
小瀬戸へ戻った泰満の前に、楠谷から三人の男が来た。
村役人が一人。
年のいった百姓が二人。
三人とも普請の礼を述べた。
だが、その後が続かない。
何度か互いの顔を見るだけで、本題に入ろうとしない。
「何かあるのであろう」
泰満が言った。
三人がまた顔を見合わせる。
「申してよい」
「では」
村役人が頭を下げた。
「見性寺の山についてにございます」
「山?」
「寺領として定められました山で」
泰満は村越を見る。
村越が書付を探した。
見性寺へ付けられた土地。
田。
畑。
山林。
境も書かれている。
「これか」
「はい」
「何が問題なのだ」
村役人は困ったように答えた。
「山へ入るなと申されまして」
「誰に」
「寺の普請を預かる方から」
泰満が眉を寄せる。
「寺の山なのだから、勝手に木を切られては困るだろう」
「木は切っておりませぬ」
年寄りの一人が言った。
「では何を取る」
「薪にございます」
「薪なら木ではないか」
「枯れた枝にございます」
泰満が黙る。
もう一人の男が続けた。
「落ちた枝を拾い、枯木を持ち帰ります」
「生きた木は」
「勝手には切りませぬ」
「本当か」
三人が揃って頷いた。
「ほかには」
「落葉を」
「落葉?」
「田へ入れます」
泰満は彌太郎を見る。
彌太郎は何も言わない。
「それから草も刈ります」
「まだあるのか」
「少し」
「全部言え」
男たちはまた顔を見合わせた。
「木の実を拾う者もおります」
「何の木だ」
「栗などを」
「それは食うのか」
「はい」
泰満はしばらく黙った。
薪。
落葉。
草。
木の実。
山の中には、泰満が思っていた以上に暮らしが入り込んでいるらしい。
「つまり、おまえたちは寺の山へ入りたい」
「これまで入ってまいりました」
「寺が廃れてからか」
「私どもが生まれる前からにございます」
年寄りが答えた。
「寺があった頃も?」
「そこまでは分かりませぬ」
「では、いつからだ」
「分かりませぬ」
泰満は天井を見た。
またこれだった。
水の話もそうだった。
昔からこうしている。
いつからかは分からない。
誰が許したかも分からない。
だが、皆それを当然のこととして暮らしている。
誰が悪いとも言えない。
しかし、放っておけば揉める。
「寺側は、何と言っておる」
「寺領になった山へ勝手に入られては困る、と」
「それも間違ってはいないな」
三人が黙った。
泰満は書付を見る。
そこには確かに寺領と書かれている。
紙だけ見れば簡単だった。
寺の土地。
ならば寺のものだ。
だが、目の前の三人の暮らしまで紙の上には書かれていない。
「分かった」
村役人が顔を上げる。
「では」
「まだ何も決めておらぬ」
「はい」
「寺の者にも聞く」
三人は深く頭を下げた。
◇
その日の夕刻。
泰満は書付を前に置いたまま、腕を組んでいた。
「寺領だ」
「左様にございます」
村越が答える。
「なら寺のものだ」
「はい」
「だが、村の者は前から使っていた」
「そのようです」
「どちらが正しい」
村越が困った顔をする。
彌太郎が横から言った。
「どちらも、ではございませぬか」
「それでは決められぬ」
「だから紀伊守様のところへ来たのでしょう」
「分かっている」
泰満は書付を軽く叩いた。
「書付だけなら簡単だ。寺領なのだから、寺の好きにさせればよい」
「はい」
「だが村の者は薪が要る」
「要りますな」
「落葉も田へ入れると言っていた」
「肥やしになります」
「草も使う」
「馬にも食わせましょう」
「栗まで拾う」
「食べるのでしょうな」
泰満はため息をついた。
「山一つでも、こんなに使い道があるのか」
彌太郎が答える。
「山で暮らす者には、山も田畑の一つなのでございましょう」
その言葉に泰満は少し考えた。
「田畑の一つ、か」
「はい」
「では、寺へ渡したために山へ入れなくなれば、村の田まで困るのか」
「全部入れぬとなれば」
「寺を建てたためにか」
彌太郎が何も言わず泰満を見る。
「叔父上は、寺があれば土地がまとまると言っていた」
「申しておられましたな」
「まとまるどころか揉めておるではないか」
「寺ができるから揉めるのでしょう」
「どういう意味だ」
「今まで曖昧だったのでございます」
「何が」
「誰がどこまで使ってよいのか。誰の山なのか。何を取ってよいのか」
泰満は書付を見る。
「寺が廃れていた間は、決める者もいなかった」
「おそらく」
「寺が戻る」
「はい」
「だから、今まで曖昧だったものが表へ出た」
「そのように思います」
泰満はしばらく黙った。
寺を再興する。
建物を建てれば終わると思っていた。
違った。
寺が戻れば、土地の扱いも戻る。
だが、寺がなかった間にも、人は暮らしていた。
その間にできた使い方まで、何もなかったことにはできない。
「ならば」
泰満は書付を閉じた。
「決めるしかないな」
◇
数日後。
泰満は再び楠谷へ出た。
今度は普請を見るためだけではない。
寺側の者。
村役人。
山を使っていた村人。
村越。
彌太郎。
皆を連れ、寺領の山へ入った。
「ここからでございます」
寺側の者が言う。
境を示す古い石があった。
そこから尾根へ向けて山が続いている。
泰満は歩いた。
木を見る。
足元を見る。
道を見る。
以前、泰以に言われた言葉を思い出す。
土地を見ろ。
人を見ろ。
道を見ろ。
書付だけでは分からない。
ここへ来れば分かることがある。
ところどころに、人が入った跡が残っていた。
「これは」
「薪を拾いに入る道にございます」
村人が答えた。
「寺が廃れてから作ったのか」
「いつからあるかは存じませぬ」
また分からない。
だが、道が残っている。
長く人が使ってきたことだけは分かった。
少し先には、木を切った跡があった。
泰満が足を止める。
「生木は切らぬと言っていたな」
村人たちの顔が曇る。
「これは」
「誰が切った」
返事がない。
彌太郎が切り株へ近づいた。
「新しいですな」
「いつだ」
「今年か、昨年か」
泰満は村役人を見る。
「知らぬのか」
「申し訳ございませぬ」
「こういうことがあるから、寺側も入るなと言うのだろう」
村人たちは頭を下げた。
寺側の者が言った。
「一度許せば、次々切られます」
「それも分かる」
泰満は切り株を見る。
村の者は、勝手に生木は切らないと言った。
だが実際には切られている。
誰が切ったかは分からない。
これもまた、書付だけでは分からなかったことだった。
泰満は山を見上げた。
寺を直すにも木は要る。
今後、本堂や庫裏を直すにも要る。
寺領の山をすべて村人の好きにさせるわけにはいかない。
だが。
泰満は足元の落葉を拾った。
「これは寺で使うのか」
「いえ」
「枯れ枝は」
「特には」
「草は」
「寺の周りを刈る分は要りますが、山全部までは」
泰満は手の中の落葉を見る。
村の者にとっては肥やし。
寺にとっては、そこまで必要ではない。
同じ山でも、使うものが違う。
「なら」
泰満は立ち上がった。
「分ければよい」
皆が泰満を見る。
「生きた木は、寺の許しなく切るな」
村人たちが黙って聞く。
「寺の普請、修繕に要る木は寺が優先する」
「はい」
「ただし、落ちた枝は拾ってよい」
村人の顔が少し上がる。
「枯木も、寺が使わぬものなら持っていってよい」
寺側の者が尋ねた。
「誰が決めます」
「勝手に持っていけば同じことになるな」
泰満は少し考えた。
「寺の者か、村役人に一言言え。それでよい」
「落葉は」
村人が尋ねた。
「持っていけ」
「草は」
「寺の周りは寺が先に刈る。それより外は今までどおりでよい」
「木の実は」
泰満が男を見る。
「そこまで聞くか」
「念のため」
「拾え」
少し笑いが起きた。
泰満も口元を緩める。
「ただし」
声を戻した。
「今日決めたことを、勝手に変えるな」
皆の顔が引き締まる。
「村の者が生木を切れば止める。寺の者が明日になって山へ入るなと言い始めても止める」
寺側の者も頭を下げた。
「承知しました」
「境も曖昧なところがある」
村越を見る。
「はい」
「改めて見ろ。分かるところには印を置け」
「石でよろしいでしょうか」
「簡単に動かせぬものなら何でもよい」
彌太郎が言った。
「後で石が動いた、動かしていないという話になりそうでございますな」
泰満が嫌な顔をする。
「言うな」
「先に考えておいた方が」
「分かっている」
少し笑いが起きた。
だが泰満自身、彌太郎の言うことが冗談だけではないと分かっていた。
境を定めれば、今度はその境が問題になる。
一つ決めれば、それですべてが終わるわけではない。
それでも、決めなければ始まらない。
泰満は周囲を見渡した。
「寺を立てるために村を困らせては意味がない」
寺側の者が聞いている。
「だが、寺領を寺領でなくしても意味がない」
今度は村人たちを見る。
「どちらか一方だけが好きにすれば、また揉める」
誰も口を挟まない。
「だから双方、決めたことを守れ」
村役人が深く頭を下げた。
「ありがたく」
寺側の者も続いた。
泰満はようやく息を吐いた。
刀も抜いていない。
槍も使っていない。
誰かを捕らえたわけでもない。
それでも、妙に疲れた。
「彌太郎」
「はい」
「戦の方が簡単ではないか」
「敵味方が分かれておりますからな」
「ここには敵がいない」
「それが難しいのでしょう」
泰満は山を見た。
敵がいなければ、斬って終わる相手もいない。
どちらかを潰せば済む話でもない。
両方を残したまま、揉めぬ形を作る。
それが土地を預かるということなのかもしれなかった。
◇
夏を迎える頃。
見性寺は、ようやく寺らしい姿を見せていた。
真新しい柱。
新しく葺かれた屋根。
整えられた境内。
最初に見た荒れた土地は、もうなかった。
寺の前には人が集まっている。
僧。
村の者。
普請に関わった者。
小瀬戸からも、杉山や村越が来ていた。
山の薪をめぐって揉めた者たちもいる。
今は同じ境内に並んでいた。
泰満は少し落ち着かなかった。
「若」
横にいた彌太郎が小声で呼ぶ。
「何だ」
「顔が固うございます」
「分かっている」
「戦へ出るわけではございませぬぞ」
「それも分かっている」
「では」
「こういう席に慣れておらぬ」
彌太郎が笑った。
「紀伊守様ともあろう御方が」
「その呼び方をするな」
「今日は皆そう呼びます」
それが嫌なのだった。
やがて僧が泰満の前へ進み出た。
深く頭を下げる。
「このたびは、見性寺再興の御力添え、まことにありがたく」
「いや」
泰満は少し言葉に詰まる。
「わし一人でやったわけではない」
「もちろんにございます」
僧は穏やかに答えた。
「土地を整えた者がおり、木を運んだ者がおり、普請に携わった者がおります」
「そうだ」
「ですが、その皆を動かし、この寺を再び立ててくだされたのは」
一度言葉を切る。
「開基、朝比奈紀伊守彌一郎様にございます」
泰満は黙った。
紀伊守。
彌一郎。
どちらも自分の名だった。
だが、こうして大勢の前で呼ばれると、妙に重かった。
以前、泰以に言われたことを思い出す。
城を預かり。
紀伊守を名乗り。
寺を再興した者となれば違う。
家を立てておる。
おまえのな。
あの時は、泰以が勝手に話を進めているように思えた。
今は少しだけ意味が分かる。
自分が木を切ったわけではない。
柱を立てたわけでもない。
屋根を葺いたわけでもない。
それでも。
最後には、自分の名が残る。
うまくいかなければ、自分の名で責められる。
うまくいけば、自分の名で記される。
名前を残すというのは、褒められることだけではないらしい。
その土地で起きたことを、自分の名で引き受けることでもある。
「紀伊守様」
僧が呼ぶ。
泰満は顔を上げた。
「何だ」
「一言、皆へ」
「聞いていないぞ」
後ろで彌太郎が顔を伏せた。
「おまえ、知っていたな」
「何のことでございましょう」
泰満は諦めた。
集まった者たちを見る。
寺の者。
村の者。
山の薪をめぐって揉めた顔もある。
道を直した者。
木を運んだ者。
小瀬戸から来た家臣。
誰に何を言えばよいのか分からない。
しばらく考えた。
「見性寺は」
声を出す。
皆が静かになる。
「わしが建てた寺ではない」
僧が少し顔を上げた。
「土地を用意した者がおる。普請をした者がおる。木を運んだ者も、飯を炊いた者もおる」
泰満は境内を見る。
「寺を守る僧もいる。そして、この周りには村がある」
一度、山を見る。
あの山も見えた。
薪を拾い、落葉を集め、木の実を拾う山。
寺の木でもあり、村の暮らしを支える山でもある。
「寺も村も、この先ずっとここにある」
言葉を探した。
「ならば、互いに邪魔をせず使えばよい」
村役人が少し笑った。
泰満も気づいた。
「……言い方が悪いな」
今度は周囲から小さな笑いが起きた。
「ともかく」
泰満も笑う。
「寺が戻ったことで、この土地が以前よりよくなれば、それでよい」
少し考え、付け足した。
「寺だけよくなっても駄目だ。村だけよくなっても駄目だ」
山を見た。
「ここにあるものが、一緒に残ればよい」
僧が深く頭を下げた。
村人たちも続く。
泰満は少し照れくさくなり、視線を逸らした。
そこで彌太郎が小さく言った。
「立派な御挨拶で」
「うるさい」
◇
見性寺から小瀬戸へ戻った日の夕刻。
駿府から使いが来た。
戦の急報ではない。
小瀬戸や泰以の家へ回される、いつもの知らせだった。
泰満は書付を読みながら、ふと手を止めた。
「福島殿、まだ河内にいるのか」
「そのようですな」
彌太郎が答える。
「二月に出たのであろう」
「もう随分になります」
「戦は」
「大きなものは聞いておりませぬ」
泰満は書付へ目を戻した。
二千ほど。
福島を大将に、駿河の諸家から集めた兵。
それが何月も甲斐にいる。
以前なら、ただ大軍だと思っただろう。
今は少し違った。
「二千人が、何月もか」
「はい」
「米だけでも、どれほど要る」
彌太郎が泰満を見る。
「気になりますか」
「寺だけでも、あれだけ人と物を動かした」
泰満は見性寺を思い出す。
木を運ぶ。
人を集める。
道を使う。
飯を食わせる。
山一つの使い方を決めるだけでも、村と寺の話を聞かなければならなかった。
わずかな普請でも、考えることはいくらでもあった。
「二千となれば」
「寺とは比べものになりませぬな」
「ああ」
泰満は北の方角を見た。
山の向こう。
さらにその先。
河内では今も、福島助春が兵を置いている。
敵を攻めるためではなく。
武田を南へ出さないために。
「何も起きぬ方がよい戦、か」
泰満が呟いた。
彌太郎が頷く。
「御屋形様は、そのおつもりなのでしょう」
「何も起きなければ、福島殿は何もしておらぬように見える」
「そうかもしれませぬ」
「だが、何も起きぬように二千を置いている」
「はい」
泰満はもう一度書付を見た。
今のところ、河内は静かだった。
ならば福島の二千は、役目を果たしている。
見性寺もそうだった。
寺が立った。
山の使い方を決めた。
村と寺が揉めずに済めば、その後は何も起きない。
何も起きないこと自体が、うまくいっている証なのかもしれない。
寺も。
城も。
軍も。
そこにあるだけで役に立つことがある。
泰満は書付を畳んだ。
以前なら分からなかったことが、少しずつ分かるようになっていた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




