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第二十四話 河内へ|今川氏親、福島助春を甲斐へ送る

 大永元年二月。

 駿府の今川館には、甲斐から届いた書状が幾つも並べられていた。

 今川氏親は、そのうちの一通を読み終えると、甲斐の絵図の上へ置いた。

「大井も、信虎に屈したか」

 向かいに座る朝比奈時茂が頷いた。

「昨年のうちに、おおよそ決したようにございます」

 氏親の隣では、葛山氏広が甲斐の絵図を見ていた。

 北に甲府。

 西に大井。

 そこから南へ山地が続き、河内を経て駿河へつながる。

「五年前とは随分違うな」

 氏親が言った。

 永正十三年。

 今川は甲斐へ兵を入れ、武田信虎と戦った。

 翌年には宗長を甲府へ送り、和睦をまとめている。

 その頃、遠江では斯波との戦が続いていた。

 甲斐で戦いながら、遠江でも戦う。

 氏親はそれを続けなかった。

 北を閉じ。

 西へ兵を向けた。

 舟形山を取り返し。

 曳馬を落とし。

 戸田を叩いた。

 遠江の西は、ようやく静かになった。

 だが、その間にも信虎は甲斐で勝ち続けていた。

「御屋形様」

 時茂が尋ねた。

「あの時、信虎と和睦したことを悔いておられますか」

「まさか」

 氏親は即座に答えた。

「甲斐を続けておれば、曳馬へあれだけの兵は出せなかった」

「はい」

「あの時は、あれでよかった」

 氏親は絵図へ目を戻した。

「問題は今だ」

 指が大井の地を押さえた。

「大井が消えたわけではない」

 氏広が言う。

「ですが、以前のように武田へ逆らえる家ではなくなりました」

「そうだな」

「信虎にとっては、西が片づいたことになります」

 氏広の指が、ゆっくり南へ動いた。

 河内。

 甲斐南部の山間に広がる土地。

 そこを押さえるのが穴山だった。

 河内を南へ抜ければ、やがて駿河へ下る。

 甲斐と駿河の間にある、ただの山地ではない。

 誰がそこを押さえるかで、駿河北辺の意味まで変わる。

 氏親が言った。

「次はここか」

「順に考えれば」

 時茂が答える。

「穴山まで信虎へ従えば」

 氏親の指がさらに南へ下がった。

 山を越える。

 その先は駿河だった。

「武田が国境まで来る」

 氏広が静かに言った。

「今すぐ駿河へ攻め込むとは限りませぬ」

「分かっておる」

「では」

「攻め込んでくるかどうかではない」

 氏親は絵図から顔を上げた。

「攻め込めるようになることが問題だ」

 時茂が氏親を見る。

「信虎が甲斐を一つにするだけなら、勝手にすればよい」

「はい」

「甲斐はわしの国ではない」

 氏親はもう一度、河内へ目を落とした。

「だが、一国を自由に動かせる武田が、駿河の隣まで来れば話は別だ」

 氏広が頷く。

「穴山を残しますか」

「残したい」

「援兵を送るので」

「それでは遅いかもしれぬ」

 氏親は河内を指した。

「先に入る」

 時茂がわずかに身を乗り出した。

「武田が動く前に」

「ああ」

「河内へ今川の兵を置く」

「そうだ」

 氏親の指は、その場所から動かなかった。

「信虎が南へ出るなら、駿河へ来る前にここで止める」

「兵は」

「二千ほど」

 時茂が少し考える。

「福島一手では出せませぬな」

「出させぬ」

「では」

「福島を大将にする。富士の者も出す。他の駿河勢も付けろ」

 氏広が顔を上げた。

「二千を河内へ置き続けるとなれば、穴山との話も要ります」

「そなたに頼む」

「私に?」

「兵を置く場所。使う道。兵糧。人足。揉める前に決めておけ」

 氏広が小さく笑った。

「福島殿には戦をしていただき、私はその前後を片づけるので」

「向いておろう」

「否定はいたしませぬ」

 そこへ廊下から声がした。

「御屋形様。河内より使者にございます」

 三人の視線が戸口へ向いた。

「穴山か」

「左様にございます」

 氏親と氏広が顔を見合わせた。

「ちょうどよい」

     ◇

 入ってきた男は、まだ旅装を解いていなかった。

 衣の裾には土が残っている。

 河内から山道を急いできたことが、その姿だけでも分かった。

 男は氏親の前へ進み、深く頭を下げた。

「穴山殿より、御屋形様へ御挨拶申し上げます」

「河内からか」

「昨日発ちましてございます」

「向こうは」

「今は静かにございます」

 氏親の眉がわずかに動いた。

「今は、か」

「武田勢が河内へ入ったということはございませぬ」

 使者はそこで言葉を切った。

 氏広が尋ねる。

「では、何かあるのだな」

「甲府から使いが来ております」

「穴山へ?」

「それだけではございませぬ」

 男は答えた。

「河内の国衆や、寺にも」

 時茂が顔を上げる。

「何を申しておる」

「武田殿に従えば、本領は安堵する。甲斐の者が駿河を頼る必要はない、と」

 室内が静かになった。

 氏親は絵図へ目を落とした。

「なるほど」

 信虎は、まだ兵を出していない。

 だが、何もしていないわけではなかった。

 兵より先に使者を入れ。

 戦より先に言葉を入れる。

 本領を安堵する。

 従えば今までどおりでよい。

 そう言われれば、揺れる者はいる。

 氏親は河内の絵図を見たまま言った。

「兵を出さずに取るつもりか」

 氏広が頷いた。

「取れるならば、その方が安く済みます」

「わしでもそうする」

 信虎はまだ河内へ来ていない。

 だが、すでに河内の内側へ手を伸ばしている。

「穴山殿は何と」

 氏広が聞いた。

「今のところ、武田へ従うお考えはございませぬ」

「今のところ」

 男が黙った。

 それで十分だった。

 氏広が小さく息を吐く。

「河内の者も同じでしょうな」

「はっ」

「今川が遠く、武田が近くなれば、考える者は出る」

「……否定はできませぬ」

 氏親が言った。

「なら、今川を近くする」

 使者が顔を上げた。

「二千入れる」

「二千……」

「福島助春に率いさせる」

 男の顔が変わった。

 驚きと安堵が混じっている。

「そこまでの御人数を」

「武田と戦うためだけではない」

 氏親は言った。

「穴山へ伝えろ。今川は河内を捨てぬ」

 男が深く頭を下げる。

「ありがたき御言葉」

「ただし」

 氏親は続けた。

「二千も入れば、河内には迷惑を掛ける」

「いえ、そのような」

「掛ける」

 氏親は言い切った。

「兵は米を食う。馬も食う。道も使う。村から人を出してもらうこともある」

 使者が黙る。

「二千の兵が入るというのは、旗が二千本並ぶだけではない」

 氏親は絵図の上を指でなぞった。

「食わせる米が要る。馬の飼葉が要る。荷を運ぶ人間が要る。病人も出る。道も傷む」

「はっ」

「武田から守るための兵が河内を荒らし、それで武田へ走らせたのでは、何をしているか分からぬ」

 氏親は氏広を見る。

「その辺りは氏広と詰めよ」

「承知しました」

 氏広が使者へ向き直る。

「どこまで兵糧を駿河から運べるか。現地で何を用意してもらうか。兵を置く場所も、穴山殿の意向を聞きたい」

「お願いいたします」

「村ごとの負担も先に決めておきましょう。後で勝手に取り立てる者が出ると面倒です」

「はっ」

 氏親は二人の話を聞きながら、再び絵図を見ていた。

 兵を出す。

 それだけで戦になるわけではない。

 兵を出さずとも、武田はすでに河内へ手を伸ばしている。

 ならば、こちらも兵を動かすだけでは足りない。

 河内の者に、今川がここにいると見せる。

 それが先だった。

「使者」

「はっ」

「もう一つ伝えろ」

「何でございましょう」

「信虎が動かぬなら、こちらも動かぬ」

 男が少し戸惑う。

 氏広が補った。

「今川は、甲府を取りに行くのではないということでございます」

「では」

「河内に福島殿の旗があれば、まずはそれでよい」

 氏親が頷いた。

「何も起きぬなら、それが一番よい」

 使者は今度こそ意味を理解したらしい。

「しかと、お伝えいたします」

     ◇

 福島助春が呼ばれたのは、その日の午後だった。

 部屋へ入り、絵図を見る。

「甲斐ですか」

「そうだ」

「どこを攻めます」

 氏親が助春を見る。

 氏広がわずかに目を伏せた。

「まだ攻めぬ」

 助春が一瞬黙る。

「では、何を」

「河内へ行け」

 氏親は絵図を指した。

「二千ほど付ける」

「二千」

「福島だけではない。富士、そのほか駿河の諸勢も一緒だ」

 助春の表情が少し引き締まった。

「私がまとめるので」

「そうだ」

「河内へ入り」

「ああ」

「武田を待つ」

「そうだ」

 助春は絵図を見る。

「来なければ」

「待て」

「いつまで」

「来るまでとは言わぬ」

 氏親が答えた。

「だが、春のうちに帰れるとは思うな」

「長陣ですか」

「そのつもりで行け」

 助春はしばらく黙っていた。

「御屋形様」

「何だ」

「私でよろしいので?」

「何がだ」

「待つ役でございます」

 時茂が顔を伏せた。

 氏広が笑いを堪えている。

 氏親だけが平然としていた。

「待てぬか」

「待てと言われれば待ちます」

「ならよい」

「ただ」

「まだあるか」

「武田が目の前で退いた場合も、追ってはならぬので」

「河内から出せれば、それでよい」

「甲府まで追えば、しばらく来られなくなるかもしれませぬ」

「そのために甲府まで行けば、今度はこちらが甲斐の奥で兵を食わせることになる」

 助春は黙った。

 氏親が続ける。

「そなたに任せるのは、武田を倒すためではない」

「はい」

「河内を武田に渡さぬためだ」

 助春が絵図へ目を落とす。

 氏親の指が三つの場所を順に押さえた。

「穴山を残す」

「はい」

「河内の道を押さえる」

「はい」

「信虎を駿河へ近づけぬ」

「はい」

「それができている間は勝っておる」

 助春が顔を上げた。

 先ほどまでの軽さは消えていた。

「敵を討たずとも」

「討たずに済むなら、その方が安い」

 氏親はそこで少し間を置いた。

「戦えば兵が死ぬ。米を使う。馬も潰れる。村も荒れる」

 助春は黙って聞いている。

「旗を立てているだけで信虎が来ぬなら、それに越したことはない」

「なるほど」

「だが」

 氏親が助春を見る。

「来れば止めろ」

 助春の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。

「それなら分かりやすうございます」

「そなたには、その方がよいだろう」

 時茂が小さく息を吐く。

 氏広は今度こそ笑った。

 助春が頭を下げた。

「承知しました」

     ◇

 数日後。

 駿府から北へ向かう街道を、兵の列が進んだ。

 先頭に福島の旗。

 その後ろに富士勢。

 さらに駿河の諸家が続く。

 およそ二千。

 兵だけではない。

 荷駄の列が長かった。

 米。

 味噌。

 塩。

 馬の飼葉。

 陣を作るための道具。

 傷病人が出れば必要になる薬や布。

 二千の兵を動かすということは、二千人を歩かせれば済む話ではない。

 食わせ。

 寝かせ。

 馬を養い。

 道を使い。

 何日も同じ土地に置く。

 戦わなくとも、軍勢は国を食う。

 だからこそ、氏親は河内を荒らすなと言った。

 助春は馬上から後ろを振り返った。

 戦へ向かう軍勢に違いはない。

 だが、曳馬へ向かった時とも。

 三河へ向かった時とも違った。

 落とす城が決まっていない。

 討つべき敵も、まだ目の前にはいない。

 あるのは一つ。

 河内という場所だけだった。

「福島様」

 近習が声を掛ける。

「何だ」

「河内へ着きましたら」

「まず穴山に会う」

「その後は」

「陣を決める」

「武田が来なければ」

 助春は北の山を見た。

 その向こうに甲府がある。

「待つ」

 近習が少し意外そうな顔をした。

 助春自身も、数日前までなら同じ顔をしていただろう。

 敵が来ない。

 城も攻めない。

 ただ軍勢を置く。

 それでも、相手を動かさず、土地を失わなければよい。

 助春はしばらく山を見た。

「今度は、それが戦らしい」

 軍勢は河内へ向かい、山道を進んでいった。


今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

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