第二十三話 見性寺|紀伊守、寺を再興する
小瀬戸へ移って、ひと月ほどが過ぎた。
城を一つ預かる。
掛川を出るまでは、それだけで随分と大きなことのように思えた。
実際、大きなことではあった。
だが、泰満が小瀬戸へ来て最初に知ったのは、城を預かるという仕事の大半が、城の中では終わらないということだった。
「水が足りぬ?」
「足りぬわけではございませぬ」
目の前に座った村役人が、困ったように答えた。
「では何だ」
「上の村が多く取りますゆえ、下まで回ってくるのが遅うございます」
「毎年か」
「雨が少ない年には」
「今年は」
「今のところは足りております」
泰満は眉を寄せた。
「では、まだ困っておらぬのか」
「困る前に申し上げておこうかと」
横に座る彌太郎も黙っている。
少し離れたところでは、村越が書付に何かを書き込んでいた。
「つまり、今は水がある。だが、この先雨が降らなければ足りなくなり、上と下で揉める」
「おそらく」
「まだ揉めてはいない」
「はい」
泰満は天井を見た。
「どうしろというのだ」
村役人が少し困った顔をする。
「それを紀伊守様に」
その呼び方にも、まだ慣れなかった。
「分かった。上の村にも話を聞く」
「ありがたき幸せ」
「ただし、まだ喧嘩はするな」
「心得ました」
役人が下がる。
部屋が静かになった。
泰満は彌太郎を見る。
「城主というのは、こういう仕事なのか」
「こういう仕事も、でございましょうな」
「昨日は年貢。その前は崩れた道。一昨日は馬が畑へ入った話だ」
「あれは城主まで持ってくる話ではなかったと思いますが」
「持ってきたではないか」
「紀伊守様が若いので、話を聞いてくださると思っているのでしょう」
「よいことなのか、それは」
「今のうちは」
妙な言い方だった。
「その先は」
「何でも持ってくるようになります」
「困るではないか」
「ですから、どこまで御自身で見るかを決めておくことでございます」
掛川にいた頃には分からなかった。
城には泰能がいた。
泰以がいた。
時茂がいた。
何か起きれば、その誰かが考えていた。
自分は後ろから見ていればよかった。
今は違う。
水。
田。
道。
年貢。
寺。
神社。
村と村との境。
小瀬戸で起きたことは、最後には自分のところへ来る。
刀を抜けば終わるような話など、一つもなかった。
「叔父上は、よくこんなことをしておったな」
泰満が呟く。
「殿が?」
「ああ」
「殿は、面倒なものを人へ渡すのがお上手でしたから」
「おまえにか」
「主に私に」
そこへ杉山が入ってきた。
「紀伊守様。駿河より使いにございます」
「叔父上か」
「泰以様より」
泰満は嫌な予感がした。
泰以から使いが来る時は、たいてい仕事が増える。
◇
書状は短かった。
小瀬戸の様子を聞く言葉。
身体に気をつけろという言葉。
そして、その後に本題があった。
「見性寺?」
泰満が読み上げる。
彌太郎が横から覗き込んだ。
「寺にございますな」
「それは分かる」
楠谷の地に寺を再興する。
古くから寺があった場所だが、いつしか廃れ、今は寺としての形を失っている。
そこを整え、改めて寺を建てる。
問題は、その次だった。
「……わしに任せる?」
「そのように書いてございますな」
「なぜだ」
「私に聞かれましても」
泰満は書状を見直した。
「叔父上が始めた話ではないのか。土地の話も寺の話も、もう進めてある」
「そう見えます」
「なら最後までやればよい」
「紀伊守様」
「何だ」
「殿は今、療養中でございます」
「口は動く」
「随分戻りましたな」
「書状も書ける」
「左手で」
「人にも会える」
「短い時間ならば」
「ならできる」
「それを御本人の前で仰ってみますか」
泰満は少し考えた。
「やめておく」
「賢明にございます」
もう一枚、寺領についての書付が添えられていた。
そこに見慣れぬ名がある。
「正親町三条家?」
泰満も名は知っていた。
今川家とは縁の深い公家である。氏親の姉も正親町三条家へ嫁いでいる。
その家は京だけにあるのではない。
駿府にも居を構えていた。
「叔父上が、正親町三条家から寺領を買ったということか」
「そのように読めますな」
「いつの間に」
「寝ているだけではなかったようで」
一度は高い熱を出し、何日も床を離れられなかった。
今では歩ける。
人にも会える。
書状も書ける。
ただ、以前のように長く馬へ乗り、具足を着けて戦場へ出られる身体には戻っていない。
それで大人しくなったと思っていた。
甘かったらしい。
「駿府へ来い、ともある」
「行かれますか」
「行かねば分からぬ」
泰満は杉山を見る。
「二、三日頼む」
「承知しました」
「彌太郎。行くぞ」
「私もでございますか」
「なぜ来ぬつもりなのだ」
「小瀬戸の仕事が山ほどございますので」
「戻ってからやれ」
「誰が」
「おまえが」
彌太郎が目を細めた。
「殿に似てこられましたな」
「何がだ」
「何でもございませぬ」
◇
駿河の泰以の屋敷へ着いたのは、その翌日の昼だった。
泰以は縁側にいた。
杖はまだ手放せない。
右手も以前ほどには動かない。
だが顔色は、小瀬戸へ発つ前に会った時より良くなっていた。
「来たか」
「呼んだのは叔父上でしょう」
「そうだったな」
名美が湯を運んでくる。
「小瀬戸はいかがです」
「戦より面倒です」
名美が笑う。
泰以は頷いた。
「そうだろう」
「知っていたのですか」
「知っておる」
「なら先に教えてください」
「教えた。土地を見ろ。人を見ろ。道を見ろ、と」
氏親からも似たことを言われている。
泰満は黙った。
「覚えておけ」
「それで」
泰満は懐から書状を出した。
「見性寺です」
「書いてあっただろう」
「寺を再興することは分かります。なぜ私なのです」
泰以が不思議そうに見る。
「なぜ、と言われてもな」
「土地は叔父上が話を進めた。正親町三条家とも寺側とも、もう話は済んでいるのでしょう」
「おおむねな」
「なら、叔父上がやればよいではありませんか」
「わしが?」
「叔父上が始めたのでしょう」
「ああ」
「ならば」
「寺を建てるのは、おまえだ」
泰満は黙った。
彌太郎も黙る。
名美だけは、最初から分かっていたような顔をしている。
「なぜです」
「紀伊守だからだ」
「答えになっておりませぬ」
「城を一つ預かっておる。知行もある」
「叔父上の家のものです」
「いずれおまえのものになる」
「まだ叔父上は生きております」
「知っておる」
泰以は少し身体を動かした。
「城を預かる者が、城だけ見ておればよいと思うな。土地には寺がある。社がある。村がある。そこに昔から住む者がおる」
泰満は小瀬戸で聞いたばかりの水の話を思い出した。
「平時なら道を直す。水を分ける。寺が荒れておれば直すこともある」
「小瀬戸で、ちょうど水の話を聞いてきたところです」
「もう来たか」
「叔父上、笑っておりますね」
「笑っておらぬ」
名美が口を挟んだ。
「殿も昔、随分苦労なさいましたから」
「余計なことを言うな」
「では御自分でお教えになればよろしいでしょう」
泰以が黙る。
泰満は書付へ目を戻した。
「しかし、見性寺は小瀬戸ではありません」
「だからよい」
「何がです」
「おまえの名を、小瀬戸だけに置く必要はない」
泰満が顔を上げた。
泰以の表情から笑いが消えていた。
「掛川朝比奈の時茂の次男。それだけなら、掛川を出れば知らぬ者も多い」
「はい」
「わしの養子。それも同じだ」
泰満は黙って聞く。
「だが、城を預かり、紀伊守を名乗り、寺を再興した者となれば違う」
泰満はようやく気づいた。
「叔父上」
「何だ」
「最初から、私の名で寺を再興するつもりだったのですか」
泰以は答えなかった。
代わりに名美が言う。
「殿が御自分の名を残したいのでしたら、御自分を開基になさればよいのです」
「余計なことを」
泰以が露骨に嫌そうな顔をする。
泰満は叔父を見る。
「私の箔付けですか」
「言い方が悪い」
「では何です」
「家を立てておる」
泰以は短く言った。
「おまえのな」
部屋が静かになった。
思えば、同じことは以前から続いていた。
養子にした。
家臣を残した。
知行を任せた。
名代にした。
小瀬戸へも送り出した。
そして今。
寺を一つ、自分の名で再興させようとしている。
「そこまでしてもらわずとも」
「勘違いするな。おまえのためだけではない」
「では」
「寺があれば土地がまとまる。荒れた場所が使えるようになり、人も集まる。今川家にとっても悪くない」
「そのうえ、私の名も立つ」
「ついでだ」
名美が首を振った。
「殿。逆でございましょう」
「黙っておれ」
彌太郎が顔を伏せる。
「おまえ、笑っているだろう」
「いえ」
「絶対に笑っている」
「親というものは大変だと思っておりました」
「誰の話だ」
「こちらの話にございます」
泰以が咳払いした。
「ともかく、寺は来年までには形にする」
「来年?」
「ああ」
「随分急では」
「だから今から始める」
泰満は嫌な顔をした。
「叔父上の『間に合わせる』ですか」
彌太郎が、ぴくりと反応する。
「何だ、それは」
「掛川で皆が恐れていた言葉です」
「知らぬ」
「本人だけが知らぬのです」
名美が静かに頷いた。
泰以は不満そうだった。
「何も今日から本堂を建てるわけではない」
「では何から」
「現地を見ろ」
泰満は一瞬黙り、それから笑った。
「やはりそれですか」
「何だ」
「土地を見ろ。人を見ろ。道を見ろ」
「それができれば、大抵のことは何とかなる」
泰満は書付を畳んだ。
「分かりました」
「いつ行く」
「小瀬戸へ戻って、二、三日中には」
「遅い。明日行け」
「私は小瀬戸の城を預かっているのですが」
「一日くらい空けても落ちぬ」
彌太郎が小さくため息をついた。
「始まりましたな」
「何がだ」
「殿と紀伊守様が二人で仕事を始めると、周りの仕事が増えるのでございます」
「おまえも来い」
「ほら」
◇
翌朝。
泰満は楠谷へ向かう道にいた。
隣には彌太郎。
後ろには数人の供。
泰以は来ない。
来られない。
以前なら泰以が先に馬を進め、自分はその後ろについていった。
今は、自分が先にいる。
「この辺りですかな」
山裾に、荒れた土地が見えてきた。
かつて寺があったという。
今は、昔の形をわずかに残すだけだった。
泰満は馬を止める。
「ここに寺を建てるのか」
「正しくは、再び寺にするのでしょう」
泰満は辺りを見た。
山。
道。
水。
人家までの距離。
どこから木を運ぶ。
僧はどこに住む。
寺領はどこまでか。
村の者はどう見る。
考えることはいくらでもあった。
少し前までなら、寺など僧が建てるものだと思っていた。
今は違う。
土地を動かす者がいる。
金を出す者がいる。
土地を譲る家がいる。
話をまとめる者がいる。
そして最後に、その寺へ名を残す者がいる。
「紀伊守様」
「何だ」
「何から見ます」
泰満はしばらく辺りを眺めた。
やがて馬を降りる。
「道からだ」
「道?」
「木も人も、ここを通ってくる」
彌太郎が少し笑った。
「殿に似ましたな」
「それはやめろ」
泰満は歩き始めた。
朝比奈紀伊守泰満。
その名で預かった最初の城は、小瀬戸だった。
今度は、その名で寺を一つ再び立てようとしている。
戦ではない。
敵もいない。
だが、これもまた土地を預かる者の仕事だった。
山裾を吹く風の中で、泰満はまだ姿のない寺を見上げた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




