第二十一話 国の境|今川氏親、三河を取らず
「なぜ東三河を、今川のものにせねばならぬ」
氏親の問いに、泰満は答えられなかった。
今橋城は落ちた。
二連木城には、なお戸田の兵がいる。
だが今川の軍勢は健在だった。
福島助春もいる。
朝比奈泰能もいる。
牧野も、西郷も、熊谷も今川方についている。
戦を続けようと思えば、続けられる。
二連木を落とすこともできるだろう。
さらに南西へ進めば、田原も戸田の地である。
今橋を今川の城とし。
二連木を奪い。
戸田を田原へ押し込める。
そうすれば、三河東部のかなりの土地を今川のものにできる。
泰満には、その方が自然に思えた。
「申し上げてもよろしいでしょうか」
「そのために聞いた」
氏親が答えた。
泰満は絵図へ目を落とす。
「今橋には、今川の御家中を置くことができます」
「できるな」
「二連木も、今の兵なら落とせましょう」
「落とせるだろう」
「ならば戸田の所領を削り、田原へ押し込めればよいのではございませぬか」
氏親は黙って聞いている。
「今橋と二連木を今川の城とすれば、この辺りは今川の土地になります」
「なるな」
「戸田も、残った所領だけなら大兵を出しにくくなります」
「そうだろうな」
泰満は少し戸惑った。
氏親は何一つ否定しない。
「では、なぜ」
「彌一郎」
「はい」
氏親は絵図から顔を上げた。
「わしは何の守護だ」
思いもしなかった問いだった。
「駿河と遠江にございます」
「そうだ」
氏親は駿河を指した。
そこから西へ指を動かし、遠江へ入る。
「わしがまず守らねばならぬのは、ここだ」
「はい」
「駿河と遠江だ」
氏親の指は浜名湖のあたりで止まった。
三河へは入らない。
「ですが、氏親様は三河へ何度も兵を」
「入れた」
「はい」
「甲斐にも入れたぞ」
氏親の指が今度は北へ動く。
「大井を助け、武田を叩いた」
「はい」
甲斐へ今川勢が入ったことは、泰満も知っていた。
「その時、甲斐を今川の国にしたか」
「……いいえ」
「城を奪って、今川の家臣を置いたか」
「いいえ」
「ならば分かるだろう」
氏親は泰満を見る。
「兵を入れることと、国を取ることは同じではない」
泰満は黙った。
氏親の指が今橋へ戻る。
「わしは、ここが欲しくて兵を出したのではない」
「では何のために」
「戸田が遠江へ手を出したからだ」
舟形山。
泰満の脳裏に、あの山が浮かんだ。
山道。
普門寺。
初めて自分の槍で人を討った時の感触。
「戸田は斯波を通した」
氏親は言った。
「そのうえ、舟形山まで奪った」
「はい」
「放っておけば、また遠江へ手を出す」
「だから戸田を叩いた」
「そうだ」
「しかし」
泰満はなお食い下がった。
「ここまで来たのであれば、取ってしまった方が後々安全になるのではございませぬか」
氏親が少し笑った。
「本当にそうか」
泰満は答えられない。
「今橋へ今川の兵を置く」
「はい」
「二連木にも置く」
「はい」
「その城を守るのは誰だ」
「今川の兵でございます」
「飯は」
「運びます」
「誰が」
泰満は一瞬詰まった。
「……こちらから」
「城が一つ増えれば、兵も要る。米も要る。武具も要る。城を直す者も要る」
「はい」
「周りの村で揉め事が起これば」
「裁かねばなりませぬ」
「年貢が入らねば」
「調べます」
「その先に戸田がおれば」
「見張ります」
氏親が頷いた。
「では、その戸田が田原からまた動けばどうする」
「田原を」
泰満は言いかけて止まった。
氏親が待っている。
「田原を取るか」
「……必要ならば」
「その先は」
泰満は絵図を見る。
三河は田原で終わるわけではない。
さらに西へ土地が続いている。
城がある。
領主がいる。
道がある。
「彌一郎」
「はい」
「城を取れば、その先にまた城がある」
氏親は静かに言った。
「その城も取れるかもしれぬ」
「はい」
「その先も取れるかもしれぬ」
泰満は何も言わない。
「それを、どこまで続ける」
答えは出なかった。
◇
部屋は静かだった。
福島助春も。
朝比奈泰能も。
牧野の将も。
誰も口を挟まない。
氏親は、泰満が答えるのを待っている。
やがて泰満は言った。
「国を広げるため、ではないのですか」
氏親がわずかに眉を上げた。
「何をだ」
「戦をするのは」
泰満は言葉を選ぶ。
「強くなるために、土地を増やすものだと」
「誰に教わった」
「誰に、というわけでは」
「泰以か」
「叔父上は、そのようには」
「だろうな」
氏親が笑った。
福島助春も少し笑っている。
泰満は居心地が悪くなった。
「土地は多い方がよいのではございませぬか」
「必要ならばな」
氏親が答えた。
「兵も米も増えます」
「揉め事も増える」
「はい」
「守る城も増える」
「はい」
「道も増える。川も増える。従わせねばならぬ者も増える」
「はい」
「それでも必要なら取る」
氏親は言った。
「だが、取れるから取る、では国は持たぬ」
泰満は顔を上げた。
「今川が三河をすべて直接治めねばならぬ理由が、今はない」
「今は」
「そうだ」
氏親は今橋を指した。
「牧野は三河の者だ」
「はい」
「牧野が今橋を持ち、こちらに従う。それでよい」
次に二連木。
「戸田も、本来はそうでよかった」
泰満は氏親を見る。
「戸田も」
「今橋を持たせ、こちらと付き合わせてきたのは、そのためだ」
以前、曳馬の陣で氏親が言っていた言葉を思い出す。
三河の境目で働いてくれれば、それでよかった。
「ですが、戸田は背きました」
「だから叩いた」
「二連木は残す」
「残す」
「田原も」
「取り上げぬ」
「また背けば」
「また叩く」
あまりにあっさり言うので、泰満は思わず氏親を見た。
「また、でございますか」
「一度降れば、子々孫々まで絶対に背かぬと思っておるのか」
「……いいえ」
「ならば同じことだ」
氏親は絵図へ目を落とした。
「敵をすべて滅ぼさねば安心できぬ、という考えで戦を始めれば、最後には周りすべてが敵になる」
泰満は黙った。
「従うなら使う」
「はい」
「背けば叩く」
「はい」
「こちらを脅かさぬなら、その者の土地までわざわざ取り上げる必要はない」
氏親は駿河と遠江を指でなぞる。
「わしがまず静かにせねばならぬのは、ここだ」
「駿河と遠江」
「そうだ」
「三河は」
「三河まで、すべてわしが直接治める必要はない」
氏親は言った。
「こちらへ弓を引かぬ者が境目におれば、それで役に立つ」
泰満は今橋を見る。
「牧野殿のように」
「そうだ」
「戸田も、そうなればよい」
「そういうことだ」
◇
軍議が終わった後。
泰満は泰能と並んで陣へ戻った。
しばらく二人とも何も言わなかった。
「泰能殿」
「何だ」
「分かっておられましたか」
「何を」
「氏親様のお考えです」
「おまえよりはな」
泰満は少し不満だった。
「ならば最初から教えてくださればよかったでしょう」
「私が答えることではない」
「なぜ」
「氏親様に聞いたからだ」
泰能は笑った。
少し歩いてから、泰満が言った。
「私は間違っていたのでしょうか」
「何が」
「今橋を今川の城にして、二連木も取ればよいと考えたことです」
泰能はすぐには答えなかった。
「戦だけを見れば、間違いとは言えぬだろう」
「では」
「今なら取れる。兵もいる。戸田も弱っている」
「はい」
「だが、おまえが考えていたのは、どう取るかまでだ」
泰満が泰能を見る。
「氏親様は、その後を見ている」
「取った後を」
「そうだ」
泰能は言った。
「誰を置く。誰に守らせる。誰に食わせる。周りの者をどう従わせる」
泰満は黙る。
「叔父上も、似たことを言っていたでしょう」
「城を取ることと、城を持つことは違う」
「そういうことだ」
泰満は舟形山を思い出した。
あの時は、一つの城の話だった。
今度は国だった。
◇
翌日。
今橋城には牧野の兵が入った。
城門の上には牧野の旗が立った。
今川の旗ではない。
泰満は少し離れたところから、それを見ていた。
「本当に渡してしまうのだな」
隣で彌太郎が聞いた。
「惜しいですか」
「少しな」
「若が取った城ではございませぬ」
「分かっている」
「牧野殿も働かれました」
「それも分かっている」
泰満は城を見る。
あれほどの兵を動かした。
人も死んだ。
米も使った。
それでも氏親は、自分の城にはしない。
「彌太郎」
「はい」
「叔父上なら、どうすると思う」
「何をです」
「今橋を取ったら」
彌太郎は少し考えた。
「氏親様の御命令通り、牧野殿へ渡すでしょう」
「そういう意味ではない」
「分かっております」
彌太郎が笑う。
「おそらく、若と同じことを一度は考えるのではございませぬか」
「叔父上も?」
「取れる城を取らぬというのは、武者にはなかなか難しいことでございます」
泰満は少し嬉しくなった。
「では、俺だけが馬鹿なのではないな」
「そこまでは申し上げておりませぬ」
「おい」
◇
戸田から使者が来た。
氏親の陣へ入り、改めて服従を誓う。
二連木は戸田に残った。
田原も残った。
失ったのは今橋。
氏親は、それ以上を求めなかった。
福島助春は少し物足りなそうだった。
「二連木くらい、叩いておきたかったですな」
氏親が笑う。
「そなたに任せれば田原まで行く」
「行けと言われれば」
「言わぬ」
「残念」
泰満はそのやり取りを聞いていた。
氏親が顔を向ける。
「まだ惜しいか」
「今橋でございますか」
「そうだ」
泰満は少し考えた。
「惜しくないと言えば、嘘になります」
「そうか」
「ですが」
牧野の旗が立つ城を見る。
「今川の旗が立っていなくとも、遠江へ敵が来なくなるのであれば、それでよいのですね」
氏親が頷いた。
「そういうことだ」
「では、勝つというのは」
泰満は言葉を探す。
「土地を取ることではないのですな」
「土地を取ることもある」
「はい」
「敵を討つこともある」
「はい」
「城を落とすこともある」
「はい」
「だが、それが目的とは限らぬ」
氏親は馬へ乗った。
「何のために戦を始めたのかを忘れるな」
泰満は深く頭を下げた。
「はい」
◇
今川軍は三河から引き上げ始めた。
二連木城は残った。
田原も戸田のままだった。
今橋には牧野が入った。
三河そのものが、今川の国になったわけではない。
それでも、舟形山を奪い、遠江へ手を伸ばした戸田は屈した。
今橋を失い。
再び今川へ従った。
氏親がこの戦で求めたものは、それで満たされていた。
帰り道。
浜名湖の西へ近づいたところで、泰満は振り返った。
三河の山々が見える。
その向こうに今橋がある。
二連木がある。
さらに田原がある。
どれも今川の城ではない。
だが今は、遠江へ兵を向ける城でもなかった。
泰満は東を見る。
浜名湖が広がっている。
三河をすべて取らなくてもよい。
だが、遠江へ入らせてはならない。
ならば大事なのは、どこまで土地を広げるかだけではない。
どこで見つけるか。
どこで止めるか。
どこで受けるか。
泰満の頭に、いくつかの場所が浮かんだ。
舟形山。
三河から入る道を押さえる、外の城。
中之郷。
湖岸と道の近くを見張る場所。
そして。
宇津山。
浜名湖へ張り出した地から、西だけでなく、北も東も、水の上も見る城。
いざとなれば、急な斜面を使って敵を受けることもできる。
これまで別々に見ていた場所が、初めて一つにつながった。
境目。
遠江を守るために、三河をすべて取る必要はない。
その代わり、越えさせてはならない場所を見張り、守らなければならない。
泰満は浜名湖を見た。
以前、泰以と立ち寄った宇津山が、今は少し違って見えた。
ただそこにある城ではない。
浜名湖を見渡し、国の境目を支える城。
宇津山。
その名が、泰満の中に強く残った。
まだ、自分がその城を預かることになるとは知らずに。
### 史料・創作メモ
本作では、史料で確認できる今川氏親の行動から、作者なりの「氏親像」を組み立てています。
**史料から**
今川氏親は遠江だけでなく、たびたび三河へ軍勢を送りました。
しかし三河へ進出したからといって、常にその土地を今川氏の直轄領にしようとしていたわけではありません。
永正三年(一五〇六)の三河出兵では、氏親が戸田氏への「合力」を目的としていたことを示す書状も残っています。その後、戸田氏との関係は悪化しますが、今川氏と三河の国人たちとの関係は、単純な「征服する側」と「征服される側」だけでは捉えられません。
**本作での考察**
本作では氏親を、領土を広げること自体を目的とする武将ではなく、
**「まず駿河と遠江を安定させ、そのために必要なら周辺国へ軍事介入する」**
人物として描いています。
三河の国人が今川方に従い、遠江への脅威とならないのであれば、その土地を取り上げて今川氏が直接支配する必要はない。
逆に、遠江へ兵を入れたり敵対勢力を通したりすれば、三河まで出兵して叩く。
作中の、
「従うなら使う。背けば叩く」
「兵を入れることと、国を取ることは同じではない」
「何のために戦を始めたのかを忘れるな」
という氏親の言葉は、こうした作者の人物解釈を表したものです。
**創作部分**
氏親と泰満が「なぜ東三河を今川のものにしないのか」を議論する場面そのものは創作です。
氏親自身が、駿河・遠江と三河をこのように明確に区別して領国経営を説明した史料が残っているわけでもありません。
また、泰満がこの会話を通じて、
舟形山
中之郷
宇津山
を一つの「境目の防衛線」として理解していく過程も、本作の構成です。
本作では、氏親の実際の軍事行動や三河国人との関係を手がかりに、**「領土をどこまで広げるか」ではなく「自国を守るため、周辺勢力をどう配置するか」を考える氏親像**を描いています。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




