第二十話 今橋へ|朝比奈泰満、二百の兵を率いる
その沙汰は、思ったより早く来た。
泰以が駿河へ下がってから、まだ幾月も経っていない。
駿府からの使者が掛川へ入った。
今川氏親、三河へ出陣。
相手は戸田。
泰満は書状を読み終えると、しばらく黙っていた。
曳馬を落とせば、次は戸田。
泰以が倒れる前から言っていた通りになった。
「叔父上の言った通りだな」
彌太郎が頷く。
「殿は、こういうことだけはよく当てられます」
「こういうことだけ、とは何だ」
「御本人がおられれば叱られますので、今のうちに申し上げておこうかと」
「駿河へ言いつけるぞ」
「それはおやめください」
泰満は少し笑った。
だが、すぐに顔を戻す。
「兵は」
杉山が答えた。
「すぐに出せる者が、百二十余り」
「少ないな」
「泰以様の家だけならば、です」
村越が続ける。
「泰能様から与力を付けられるとのこと」
「どれほど」
「百ほどと聞いております」
泰満は黙った。
二百余り。
曳馬では二十人だった。
今度は桁が一つ違う。
彌太郎が顔を見る。
「怖くなりましたか」
「少しな」
「それでよろしいかと」
「笑わないのか」
「二百人を預かる者が、何も怖くない方が困ります」
泰満は頷いた。
「では、叔父上に言われた通りにする」
「何を」
「槍。弓。馬。米」
一つずつ指を折る。
「それから、人だ」
杉山と村越が顔を見合わせた。
「出られる者だけを見よう。傷の治っていない者は残す」
「承知」
「与力の方も、百人まとめて数えるな。誰が率いているのか先に知りたい」
彌太郎がわずかに笑った。
「名代らしくなってきましたな」
「叔父上がいないからな」
口に出してから、少しだけ胸が重くなった。
◇
掛川から出る兵を率いるのは、泰能だった。
城門の前に兵が揃う。
泰満は、自分に付けられた者たちを見渡した。
泰以家の兵。
掛川朝比奈から付けられた与力。
合わせて二百余り。
知った顔も多い。
知らない顔も、それ以上にいる。
「彌太郎」
「はい」
「全部は覚えられぬな」
「二百人を一度には無理でございます」
「では、どうする」
「組頭の顔を覚えてください」
「組頭を?」
「二十人を率いた時とは違います」
彌太郎は兵の列を見る。
「二百人全員へ若が直接声を掛けていては、日が暮れます」
泰満も列を見る。
「だから組を作るのか」
「そういうことでございます」
兵が増えれば、自分の声が届かなくなる。
人が増えれば強くなる。
だが、それだけではない。
間に人を置かなければ動かせない。
「面倒だな」
泰満が言った。
彌太郎が笑う。
「ようやく殿に似てまいりました」
◇
三河へ入る頃には、軍勢はさらに膨らんでいた。
氏親の本隊。
福島助春の兵。
泰能率いる掛川朝比奈勢。
東三河の牧野勢。
西郷、熊谷らも、それぞれの場所で動いている。
舟形山へ向かった時、泰以が率いた一千五百でも大軍に見えた。
今回は違う。
道の前にも兵がいる。
後ろにも続いている。
別の道を進む旗まで見えた。
「全部でどれほどいる」
泰満が尋ねた。
彌太郎が肩をすくめる。
「私に聞かれても」
「五千はいるか」
「そのくらいはいるかもしれませぬ」
泰満は周囲を見る。
「これだけいれば、二連木も今橋も取れるだろう」
「取れることと、取ることは別でしょうな」
泰満が振り返る。
「叔父上みたいなことを言うな」
「長くお仕えしておりましたので」
◇
軍議では、絵図の上に二つの城があった。
二連木。
今橋。
泰満は泰能の後ろに控える。
氏親の前には福島助春。
牧野勢の将もいた。
氏親が二連木を指した。
「こちらは囲う」
福島助春が顔を上げる。
「攻め落とさぬので」
「落とすなとは言わぬ」
氏親は答えた。
「だが、無理に落とす必要はない」
助春は絵図を見る。
「戸田をここへ縛るのでございますな」
「そうだ」
氏親の指が今橋へ動いた。
「こちらを取る」
牧野の将が頭を下げる。
「今橋は、我らが先に取りつきます」
「任せる」
泰能が尋ねた。
「朝比奈は」
「二連木と今橋の間を切れ」
氏親は二つの城を結ぶ道を指した。
「二連木から兵が出ても、今橋へ入れさせるな」
「承知」
「福島は二連木へ圧をかけろ。ただし、城へ兵を吸われすぎるな」
助春が少し笑った。
「城を目の前にして、叩くなというのは難しいことで」
「壊すなとは言っておらぬ」
「それならば」
福島が笑った。
泰満は絵図を見た。
二連木を囲う。
今橋を取る。
二つとも取れるほどの兵がいるのに、一つは無理に攻めない。
最初は妙に思えた。
「氏親様」
泰満は声には出さなかった。
だが、その意図は少し分かる。
二連木へ兵を縛りつける。
今橋へ援軍を出させない。
欲しい場所へだけ、兵を集める。
舟形山で泰以がやったことに似ていた。
敵を全部討つ必要はない。
欲しいものを取るために、敵をどう動かすか。
「彌一郎」
泰能が呼んだ。
「はい」
「おまえは私の東へ付け」
絵図の一点を指す。
二連木と今橋を結ぶ道だった。
「二百余りを連れて、ここを押さえろ」
「城攻めには」
「行かぬ」
泰満は少し顔に出したらしい。
泰能が笑った。
「叔父上から聞いておる」
「何をです」
「おまえは前へ出たがる」
「……その話はもうよいでしょう」
「ならば覚えておけ」
泰能は絵図を指で叩いた。
「ここを通すな」
「はい」
「それがおまえの戦だ」
◇
戸田攻めが始まった。
二連木では福島勢が前へ出た。
城から見える位置へ陣を張る。
柵を作る。
道を塞ぐ。
時折、城兵が出れば追い返す。
だが、大掛かりな総攻めには出ない。
戸田は二連木へ兵を置いたまま動けない。
一方、今橋では牧野勢が攻め口へ寄せた。
氏親の本隊も圧力を加える。
その間を結ぶ道を、朝比奈勢が断つ。
泰満の場所からは、城攻めそのものはほとんど見えなかった。
聞こえるのは遠くの太鼓。
時折上がる大きな声。
それだけだった。
「つまらぬな」
泰満が言った。
「何がです」
「せっかく戦へ来たのに、道を見ているだけだ」
「道を通さぬために来たのでしょう」
「分かっている」
「ならば結構」
午前が過ぎる。
戸田勢は現れない。
昼も過ぎる。
泰満は何度も道を見た。
「本当に来るのか」
「来なければ、それはそれで役目を果たしております」
「それも分かっている」
夕方近くになった頃だった。
斥候が走ってくる。
「二連木より兵が出ました!」
泰満が立ち上がった。
「数は」
「百を越えます! こちらへ向かっております!」
泰満は彌太郎を見る。
「来たな」
「はい」
胸が鳴った。
だが曳馬の時とは違う。
自分の後ろには二十人ではない。
二百人いる。
泰満は息を吸った。
「持ち場につけ!」
声を上げる。
組頭が反応する。
その声がさらに後ろへ伝わっていく。
二百余りが動いた。
「弓を前へ!」
「はっ!」
「槍はその後ろ!」
組ごとに兵が並ぶ。
「勝手に追うな!」
泰満は声を張った。
「ここを抜かせなければ、それでよい!」
◇
戸田勢が道の向こうに現れた。
初めは百ほどに見えた。
さらにその後ろにもいる。
今橋を助けるためなのか。
今川勢の配置を探るためなのか。
泰満には分からない。
だが、どちらでもよかった。
ここを通すな。
それだけだ。
「弓!」
矢が飛ぶ。
戸田勢からも返ってくる。
前で数人が倒れた。
やがて距離が詰まる。
槍がぶつかった。
泰満は思わず前へ出ようとした。
「若」
彌太郎に肩を掴まれた。
「何だ」
「ここに」
「前が押されている」
「前には組頭がおります」
泰満は足を止めた。
二十人なら、自分が前へ行けばよかった。
二百人では違う。
自分が前へ出れば、後ろが見えなくなる。
右手が押された。
「杉山!」
「はっ!」
「右へ二組!」
「承知!」
杉山が走る。
指示が組頭へ伝わり、兵が横へ動く。
押されていた右が持ち直した。
今度は左で戸田勢が退く。
「追うな!」
泰満が声を飛ばす。
前へ出ようとした兵が止まる。
戸田勢がまた押す。
朝比奈勢が受ける。
再び退く。
泰満は槍を握ったまま、ほとんど敵を突かなかった。
右を見る。
左を見る。
後ろを見る。
どこが薄い。
どこが押している。
どこへ人を回す。
二十人を預かった時とは、見るものの数が違った。
やがて向こうで鐘が鳴った。
戸田勢が下がり始める。
「追いますか」
村越が尋ねた。
泰満は道の先を見た。
二連木まで追えば、敵をもっと討てるかもしれない。
一瞬だけ迷った。
だが答えはすぐに出た。
「追わぬ」
「はい」
「ここを守る」
村越が頭を下げる。
彌太郎は何も言わなかった。
ただ小さく頷いた。
◇
二日。
三日。
戦は続いた。
今橋では牧野勢が何度も城へ寄せた。
氏親の本隊も圧力を加える。
二連木からの援軍は、そのたび遮られた。
戸田は二つの城を持っていた。
だが、二つを一つの戦場として使えない。
互いに助けられない二つの城は、ただ別々に兵を抱えているだけだった。
そして今橋の守りが崩れた。
知らせが泰満の陣へ届いたのは、昼過ぎだった。
「今橋、落ちました!」
泰満が立ち上がる。
「本当か」
「牧野勢が城内へ入ったとのこと!」
周囲の兵から声が上がった。
泰満も思わず笑った。
「では、二連木は」
「まだございます」
彌太郎が言う。
泰満は二連木の方を見る。
「攻めるのか」
「さて」
◇
答えは、その日のうちに出た。
二連木への総攻めは命じられなかった。
戸田から、降伏の申し出が届いたのである。
泰満は少し拍子抜けした。
「終わりなのか」
「終わりでしょうな」
「二連木は落ちていないぞ」
「今橋は落ちました」
「だから、そのまま二連木も――」
泰満は途中で止めた。
自分でも分かっていた。
二連木を落とすことは、この戦の目的ではなかった。
◇
数日後。
泰満は泰能とともに氏親の陣へ呼ばれた。
戸田の処置が決まったという。
福島助春。
牧野の将。
ほかの諸将も並んでいる。
氏親は簡単に結果を告げた。
「戸田は降った」
誰も驚かなかった。
「二連木は、そのまま戸田に持たせる」
泰満が顔を上げた。
福島助春もわずかに眉を動かす。
「今橋は牧野へ渡す」
牧野の将が深く頭を下げた。
「ありがたき仕合わせ」
泰満には、どうにも腑に落ちなかった。
今橋を取った。
それなのに今川の城にはしない。
牧野へ渡す。
さらに、二連木まで戸田へ残す。
氏親がその顔に気づいた。
「何だ、彌一郎」
「いえ」
「言いたそうな顔をしておる」
泰能が横で小さく笑った。
「叔父上にも、いつもそう言われております」
「ならば直せ」
氏親も笑った。
泰満は少し迷った。
それでも頭を下げる。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「申せ」
「今橋を」
泰満は牧野の将を一度見てから、氏親へ視線を戻した。
「なぜ、今川の城になさらぬのでございます」
部屋が少し静かになった。
「これほどの兵を出して取った城です。今川の者を置けばよいのではありませぬか」
氏親は黙って聞いている。
「二連木も、取れます」
「取れるな」
氏親が答えた。
泰満は少し勢いを得た。
「ならば、取るべきではございませぬか」
「なぜだ」
「戸田の力を削げます」
「うむ」
「二度と逆らえぬほど弱くすれば、東三河も押さえやすくなります」
「それで」
氏親は泰満を見る。
「その後は」
泰満が言葉に詰まった。
「今橋も二連木も、今川の土地になります」
「それで?」
また問われる。
「土地が……増えます」
「増えるな」
氏親は否定しなかった。
泰満はますます分からなくなった。
「ならば」
氏親が静かに尋ねた。
「彌一郎」
「はい」
「なぜ東三河を、今川のものにせねばならぬ」
泰満は顔を上げた。
氏親は穏やかに泰満を見ていた。
その問いに、泰満はすぐ答えることができなかった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




