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第十九話 名代|朝比奈泰満、泰以の家を預かる

 駿河へ下がる日が決まると、泰以は人を呼び集めた。

 泰能。

 泰満。

 彌太郎。

 杉山。

 村越。

 名美も少し離れたところに座っている。

 泰以は床には伏していなかった。

 いつもの座敷に座っている。

 顔色も悪くない。

 話す声にも、以前の力が戻っていた。

 ただ、少し痩せた。

 長く座っているだけでも、ときどき姿勢を変える。

 それだけが、病に倒れる前とは違っていた。

「泰能」

「はい」

 泰能が前へ出る。

「これからは、そなたが掛川を率いろ」

 泰能がわずかに眉を動かした。

「もとより、そのつもりでございます」

「そうではない」

 泰以は泰能を見る。

「わしが出ておった分まで、だ」

 泰能は黙った。

 泰熙が亡くなって以来、掛川朝比奈家の当主は泰能だった。

 だが戦になれば、泰以が前へ出ることが多かった。

 井伊。

 舟形山。

 曳馬。

 後見として泰能を支えながら、実際には掛川朝比奈の兵を率いる一人でもあった。

 その役目を、泰以は自分から降りる。

「承知しました」

 泰能が深く頭を下げた。

 泰以は頷いた。

 それから泰満を見る。

「彌一郎」

「はい」

「わしの家は、おまえに預ける」

 泰満の背筋が伸びた。

「名代として、でございますか」

「そうだ」

「家督を――」

「譲るとは言っておらぬ」

 言葉は遅い。

 だが、そこだけは早かった。

 彌太郎がわずかに俯く。

 泰満も口を閉じた。

「わしは、生きておる」

「分かっております」

「ならよい」

 泰以は左手を膝へ置いた。

「わしの名で動け」

 泰満は顔を上げた。

「ただし」

 泰以が続ける。

「決めるのは、おまえだ」

「私が」

「名代だからな」

 泰満はしばらく泰以を見た。

「承知しました」

「家のことは、おまえが見ろ」

「はい」

「戦となれば、泰能の下へ入れ」

 泰満が泰能を見る。

「まだ、おまえだけで一手を任せるには早い」

 泰満は少し不満そうな顔をした。

「何だ」

「何でもございませぬ」

「顔に出ておる」

 泰能が笑った。

「叔父上。そこまで仰らずとも」

「甘やかすな」

「甘やかしてはおりませぬ」

 泰以は泰能を見る。

「彌一郎の兵を中心に、必要なら与力をつけて使え」

「承知しました」

「いきなり大勢を持たせるな」

「はい」

「こやつは前へ出たがる」

「叔父上ほどではございませぬ」

 泰満が言う。

 彌太郎が小さく咳払いした。

「どちらも似たようなものでございます」

「おまえは黙れ」

 泰以と泰満が、ほとんど同時に言った。

 泰能が吹き出した。

     ◇

 泰以は次に三人を見る。

「彌太郎」

「はい」

「杉山」

「はっ」

「村越」

「はい」

「三人とも、掛川に残れ」

 杉山が顔を上げた。

「殿のお供は」

「いらぬ」

「しかし、駿河までの道中もございます」

「名美がおる」

 名美が静かに頷いた。

 杉山はなお何か言おうとしたが、泰以が先に続けた。

「駿河へ……戦をしに行くのではない」

「それはそうですが」

「寝に行くだけだ」

 名美が横から言った。

「本当に寝てくださるのでしたら、私一人でも十分でございます」

 泰以が黙った。

 彌太郎が顔を伏せる。

「何だ」

「何でもございませぬ」

「笑ったな」

「とんでもございませぬ」

 泰満も口元を押さえた。

 泰以が不機嫌そうに全員を見回す。

「とにかく、残れ」

 三人が改めて頭を下げる。

「彌一郎を支えよ」

「承知しました」

 彌太郎が答える。

「ただし」

 泰以は泰満を見る。

「何でも三人に決めてもらうな」

「分かっております」

「本当に?」

「叔父上まで彌太郎のようなことを言わないでください」

「殿は若のことを、よく御存じなのです」

「おまえは黙っていろ」

     ◇

 話はまだ終わらなかった。

「もう一つある」

 泰以が言った。

 部屋の空気が少し変わる。

「戸田だ」

 泰満はすぐに答えた。

「今橋と二連木」

「そうだ」

 泰以はゆっくり頷く。

「曳馬が落ちた。次に氏親様が西を見る時、戸田をそのままにはなさらぬ」

「戦になりますか」

「なる」

 泰以は短く答えた。

「いつです」

「分からぬ」

「今年か」

「分からぬ」

「来年か」

「だから」

 泰以が少し苛立った顔をする。

「決まってから支度をするな」

 泰満は口を閉じた。

「槍を見ろ」

「はい」

「弓を見ろ」

「はい」

「馬を見ろ」

「はい」

「兵糧を見ろ」

「はい」

「兵も見ろ」

 泰満が顔を上げる。

「兵を?」

「舟形山と曳馬で傷を負った者がおる」

「はい」

「戻れる者。戻れぬ者。若い者。年を取った者」

 泰以は言葉を切った。

「人数だけ数えるな」

 泰満は曳馬城を攻めた日のことを思い出した。

 二十人。

 彌太郎に、一人ずつ顔を見ろと言われた。

 城へ連れて入り、城から連れて帰る。

 あの時は、それだけで精一杯だった。

 今度は、その前から見る。

 誰を連れていけるのか。

 誰を残すのか。

 何人いる、ではなく、誰がいるのか。

「分かりました」

 泰以がわずかに頷いた。

     ◇

 泰満は少し迷ってから尋ねた。

「叔父上」

「何だ」

「名代というのは……どこまで私が決めてよいのでしょう」

 彌太郎が横を向いた。

 泰以も少し考える。

「家臣の扶持を勝手に倍にするな」

「いたしませぬ」

「知行を勝手に人へ与えるな」

「それもいたしませぬ」

「喧嘩を売るな」

「誰にです」

「誰にもだ」

 彌太郎が真顔で頷いた。

「それは大切でございます」

「おまえは私を何だと思っている」

「若でございます」

「答えになっておらぬ」

 泰以が少し笑った。

「そのくらいだ」

 泰満が意外そうに見る。

「それだけですか」

「急ぐことは、おまえが決めろ」

「私が?」

「いちいち駿河へ使いを寄越すな」

「ですが、叔父上の家です」

「だから名代を置く」

 泰満は黙った。

「間違えたら」

「直せ」

「大きく間違えたら」

 泰以は彌太郎を見る。

「こやつが止める」

 泰満も彌太郎を見る。

「なぜ私より彌太郎を信用しておられるのです」

「年季が違う」

「そういうことでございます」

 彌太郎が得意そうに言った。

「腹が立つな」

「そのうち慣れます」

「慣れるつもりはない」

 名美が笑った。

 泰以も、わずかに笑った。

     ◇

 出立の日。

 空はよく晴れていた。

 泰以は、まだ馬には乗れない。

 輿が用意されている。

 それを見た泰以は、やはり不満そうだった。

「馬で行く」

 名美が即座に答えた。

「参りません」

「ゆっくりなら」

「参りません」

「一度くらい試せば」

「試しません」

 彌太郎が泰満の耳元へ顔を寄せた。

「殿が一番勝てぬ相手ですな」

「聞こえておりますよ」

 名美が振り返る。

 彌太郎はすぐ頭を下げた。

「失礼いたしました」

 泰満は笑った。

 時茂も見送りに来ている。

 泰能もいた。

 家臣たちが道の両側へ並んでいる。

 泰以は輿へ乗る前に、もう一度泰満を呼んだ。

「彌一郎」

「はい」

「暇になるとは、思うな」

「思っておりませぬ」

「本当か」

「戸田がございます」

「それだけではない」

 泰以は掛川城の方を見る。

「家を持つというのは、戦だけではない」

「はい」

「百姓が揉める」

「はい」

「家臣も揉める」

「はい」

「金が足りぬと言う」

「はい」

「米が足りぬと言う」

「はい」

「馬が病む」

「はい」

「寺から頼みが来る」

「はい」

「全部、わしのところへ来ていた」

 泰満は少し顔をしかめた。

「それが全部、私のところへ来るのですか」

「そうだ」

「……戦の方が楽かもしれませぬな」

 彌太郎が大きく頷いた。

「ようやく私のお気持ちがお分かりになりましたか」

「嬉しそうに言うな」

 泰以は笑った。

 そして左手を泰満の肩へ置いた。

 以前より、力は弱かった。

「頼む」

 それだけだった。

 泰満は深く頭を下げた。

「お任せください」

 泰以が輿へ乗る。

 名美も支度を整える。

 やがて一行が東へ動き始めた。

 泰満は、その姿を見送った。

 舟形山へ向かう時も。

 曳馬へ向かう時も。

 泰以はいつも先にいた。

 泰満は、その背中を追えばよかった。

 今日は違う。

 泰以の背が、東へ遠ざかっていく。

「若」

 彌太郎が声を掛けた。

「何だ」

「そろそろ戻りましょう」

「もう少し見ていてもよいだろう」

「仕事がございます」

 泰満は嫌な予感がした。

「どれくらいだ」

「それを御覧になるのが、名代の最初のお仕事でございます」

     ◇

 屋敷へ戻ると、嫌な予感は当たった。

 書付が積んである。

「これは何だ」

「加増地からでございます」

 杉山が答える。

「これは」

「曳馬へ出した兵の帰還について」

 村越が答える。

「これは」

「負傷して軍役へ戻れぬ者のことです」

 彌太郎が答える。

「これは」

「馬です」

「馬?」

「二頭、脚を悪くしております」

 泰満は黙った。

「これは」

「米です」

「……もうよい」

 泰満は座った。

 泰以がいつも座っていた場所だった。

 そこには今まで泰以がいて、泰満は向かい側から話を聞いていた。

 今日は誰もいない。

 彌太郎。

 杉山。

 村越。

 三人が泰満を見る。

「何だ」

「名代殿の御指図を待っております」

 彌太郎が言う。

「急にそう呼ぶな」

「では若で」

「それでいい」

 泰満は一番上の書付を取った。

 読む。

 もう一度読む。

「……これは、どうすればよい」

 彌太郎が答える。

「私に聞かれるのですか」

「聞いてはいけないのか」

「意見なら申し上げます」

「では意見を言え」

「まず若のお考えを」

 泰満が睨む。

「叔父上がいなくなった途端に厳しくなったな」

「殿から頼まれましたので」

 杉山が笑いを堪えている。

 村越は下を向いた。

「分かった」

 泰満はもう一度、書付を見る。

 すぐには答えが出ない。

 それでも考えた。

 そして口を開く。

「まず、負傷した者から見よう」

 彌太郎が顔を上げた。

「兵の方からですか」

「ああ」

「理由は」

「次に戦になった時、何人出せるか分からねばならぬ」

 泰満は少し考え、言い直した。

「いや」

 彌太郎が待つ。

「何人ではないな」

「はい」

「誰が出られるか、だ」

 彌太郎が小さく頷いた。

「叔父上に、人数だけを見るなと言われた」

「よろしいかと」

「杉山」

「はっ」

「怪我をした者を、一人ずつ見たい。戻れそうな者と、難しい者を分けてくれ」

「承知」

「村越」

「はい」

「馬を見てくれ。悪い二頭だけではない。全部だ」

「承知しました」

 彌太郎が尋ねる。

「私は」

 泰満は積まれた書付を見る。

「これを手伝え」

「それでは若のお仕事になりませぬ」

「全部やれとは言っていない」

「どこまで」

「まず、何が書いてあるのか教えろ」

 彌太郎が笑った。

「それならば」

     ◇

 日が傾き始めた頃。

 掛川城から使いが来た。

「泰能様がお呼びです」

 泰満は書付から顔を上げた。

「今からか」

「はい」

 彌太郎が言った。

「名代は忙しいですな」

「嬉しそうだな」

「とんでもございませぬ」

     ◇

 掛川城へ上がると、泰能は一人で絵図を見ていた。

 泰満が入る。

「お呼びでしょうか」

「ああ」

 泰能が近くへ呼ぶ。

 絵図には、遠江から三河東部までが描かれていた。

 曳馬。

 掛川。

 浜名湖。

 舟形山。

 二連木。

 今橋。

 泰満は、もうその並びを知っている。

 泰能が今橋へ指を置いた。

「叔父上から聞いたな」

「戸田のことですね」

「そうだ」

 泰能は泰満を見る。

「氏親様が動かれれば、私も出る」

「はい」

「叔父上はいない」

 泰満は黙った。

「その時は、おまえが来い」

「私が」

「朝比奈泰以の兵を連れてな」

 泰満は一瞬、言葉を失った。

 家の書付を預かるのとは違う。

 泰以が率いていた兵を、自分が連れていく。

「名代なのだろう」

「……はい」

「もちろん、私の下でな」

「分かっております」

「不満か」

「少しだけ」

 泰能が笑った。

「叔父上の言う通りだな」

「皆、私を前へ出たがる者だと思っておられるのですか」

「舟形山で彌太郎を追って城へ入った男が何を言う」

 泰満は言い返せなかった。

「兵を整えておけ」

「はい」

「いつ沙汰が来ても動けるようにな」

「承知しました」

 泰満も絵図を見る。

 今橋。

 二連木。

 そのさらに西には、まだ自分の知らない三河が広がっている。

 今度そこへ向かう時、泰以の背中はない。

 泰能の下に入り、自分が泰以の兵を連れていく。

 まだ家督を継いだわけではない。

 城主でもない。

 それでも、もう誰かの後ろを歩くだけでは済まなくなった。

 朝比奈泰以名代。

 朝比奈彌一郎泰満。

 その名で戦へ出る日が、遠くないところまで来ていた。


今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

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