第十八話 病|朝比奈泰以、掛川を退く
掛川城に京の姫を迎えてから、しばらくの間、城下には祝言の余韻が残っていた。
姫を乗せた輿を見たという話。
京から来た供の装束がどうだったという話。
掛川朝比奈家が、いよいよ大きな家になったという話。
人の口に上るたび、話は少しずつ大きくなっていった。
「言ったでしょう」
彌太郎が言った。
「何をだ」
「人の噂というものは、勝手に育つと」
「帝の姫になったか」
「まだそこまでは参りませぬが」
「まだ、なのか」
「あと半月もすれば分かりませぬ」
泰満は笑った。
婚姻の支度に追われていた頃と比べれば、掛川城もようやく落ち着きを取り戻している。
新しく整えた奥向きには、姫と京から残った女房たちが入り、城内にも少しずつ新しい暮らしが馴染み始めていた。
泰能も、以前より城主らしく見える。
家臣たちも、何かあればまず泰能の判断を仰ぐようになっている。
誰もが、ようやく一段落したと思っていた。
ただ一人、泰以を除いて。
◇
曳馬から書状が来る。
飯尾乗連からだった。
壊れた城の修復。
周辺の村々の取りまとめ。
兵の配置。
大河内に従っていた者たちの処遇。
それを読み終えると、今度は駿河から書状が届く。
加増された知行地へ誰を置くか。
年貢をどう納めさせるか。
境をどこまで確かめるか。
さらに掛川朝比奈家の用まで回ってくる。
「叔父上」
「何だ」
「泰能殿は、もう妻も迎えられました」
「知っておる」
「後見の仕事も、少し減らされては」
「減らしておる」
泰満は机の上を見た。
書付が積んである。
「これで?」
「前より少ない」
「前はどれほどあったのです」
「もっとだ」
横で彌太郎が大きく息を吐いた。
「殿」
「何だ」
「若の申すことを、たまには聞かれてはいかがです」
「珍しいな。そなたが彌一郎の味方をするとは」
「私の仕事まで増えるからでございます」
「やはりそれか」
「それ以外に何がございます」
泰以は笑った。
そのまま次の書状へ手を伸ばす。
泰満は、それ以上言わなかった。
泰以は昔からこういう男だった。
戦場でも。
城でも。
道でも。
必要なことが見えれば、自分で動く。
人に任せるより、自分で見た方が早いと思えば、本当に自分で見に行く。
それが当たり前だった。
泰満も、そういうものだと思っていた。
◇
最初に気づいたのは名美だった。
「殿」
「何だ」
「顔色がよろしくございません」
「そうか」
「そうか、ではございませぬ」
泰以は膳へ箸を伸ばした。
だが、ほとんど手をつけていない。
「召し上がらないのですか」
「腹が減っておらぬ」
「昨日もそう仰いました」
「昨日も減っておらなかった」
「一昨日もです」
泰以の手が止まった。
「よく覚えておるな」
「誰の妻だと思っておられるのです」
名美が泰以の額へ手を当てる。
泰以が嫌そうに顔を引いた。
「何をする」
「熱がございます」
「ない」
「ございます」
「少し暑いだけだ」
「では、なぜ先ほど寒いと仰って羽織を出させたのです」
泰以が黙った。
「今日はお休みください」
「書状がある」
「明日でも逃げません」
「急ぎだ」
「殿が倒れる方が困ります」
「倒れぬ」
泰以はそう言った。
その日は確かに倒れなかった。
翌日も仕事をした。
三日目には掛川城へも出た。
そして四日目の朝。
床から起き上がれなくなった。
◇
熱が上がった。
汗が止まらない。
水を飲んでも、すぐに吐いた。
ほとんど何も食べられなくなった。
医師が呼ばれた。
脈を診る。
舌を見る。
腹へ手を当てる。
何度も様子を確かめた。
泰満たちは部屋の外へ出された。
時茂も来た。
泰能も駆けつけた。
誰も口を利かなかった。
夜になっても熱は下がらなかった。
次の日も。
その次の日も。
泰満は何度、閉じた戸を見たか分からない。
「父上」
時茂が顔を向ける。
「叔父上は……」
その先が言えなかった。
時茂も答えない。
泰満は彌太郎を見る。
「死ぬのか」
いつもなら何かしら余計なことを言う男だった。
だが彌太郎は、しばらく黙っていた。
「分かりませぬ」
それだけだった。
◇
五日目になって、ようやく熱が少し下がった。
医師が部屋から出てくる。
時茂が立ち上がった。
「兄上は」
「峠は越えたものと思われます」
泰満は息を吐いた。
泰能も目を閉じる。
「では、助かるのですね」
泰満が聞いた。
「今のところは」
「今のところ?」
「長く熱が続きました。随分と身体が弱っております」
「どれほどで戻ります」
「戻るとは?」
「元通りに」
医師はすぐには答えなかった。
「熱が下がれば終わり、というものではございませぬ」
泰満は医師を見る。
「身体に力が戻るまで、しばらく掛かりましょう」
「一月か」
「それは分かりませぬ」
「半年か」
「それも分かりませぬ」
時茂が尋ねる。
「何をすればよい」
「まず休ませることです」
泰満は思わず苦い顔をした。
「それが一番難しいかもしれません」
医師も少しだけ笑った。
「ならば、周りの方が止めるしかございませぬ」
◇
数日すると、泰以は起き上がれるようになった。
床の上で身体を起こし、背を壁へ預ける。
「もうよい」
名美が即座に答えた。
「何がでございます」
「寝ているのは飽きた」
「では座っていてください」
「城へ行く」
「行きません」
「歩ける」
「まだ歩いてもおりませぬ」
「だから歩く」
「歩きません」
泰満は枕元で笑いを堪えた。
「彌一郎」
「はい」
「笑うな」
「笑っておりませぬ」
「顔が笑っておる」
「それだけお分かりになるなら、大丈夫そうですね」
名美が泰満を見る。
「余計なことを申し上げないでくださいませ」
「はい」
泰満は口を閉じた。
泰以が睨む。
以前と同じ目だった。
それだけで、泰満は少し救われた。
◇
だが、以前と同じではないことも、すぐに分かった。
数日後。
泰以は庭へ出た。
名美が止めるのを押し切った。
廊下を歩く。
庭へ下りる。
そこまではよかった。
「ほら」
泰以が言った。
「歩ける」
「戻りましょう」
「まだだ」
「殿」
「少しくらい」
庭を半ばまで行ったところで、泰以の足が止まった。
泰満は最初、何をしているのか分からなかった。
「叔父上?」
返事がない。
泰以が膝へ手を置いた。
肩が大きく上下している。
「殿」
名美が近づく。
「よい」
泰以が手を上げる。
「少し休めば」
声にも力がなかった。
泰満は黙ってその姿を見た。
戦場で何里も馬を進めた男だった。
山へ登り。
城を攻め。
夜を徹して軍議をした。
その泰以が、屋敷の庭を歩いただけで息を切らしている。
「戻りましょう」
今度は泰満が言った。
泰以は何も言わなかった。
◇
その夜。
また熱が出た。
以前ほど高くはなかった。
だが三日、床を離れられなかった。
熱が下がったあと、泰以は何も言わなかった。
書状も求めなかった。
城へ行くとも言わなかった。
ただ、天井を見ている時間が増えた。
泰満には、その方が不安だった。
「叔父上」
「何だ」
「暇ですか」
「暇だ」
「書付を持ってきましょうか」
泰以が泰満を見る。
「名美に殺されたいのか」
「嫌です」
「ならやめておけ」
泰満は少し笑った。
しばらく沈黙が続く。
やがて泰以が言った。
「彌一郎」
「はい」
「泰能は、どうしておる」
「城におります」
「そうではない」
泰満は考えた。
「掛川のことですか」
「困っておるか」
「何がでしょう」
「わしがおらずに」
泰満は答えに迷った。
「正直に言え」
「……特には」
泰以が目を閉じた。
「そうか」
「不満なのですか」
「馬鹿を言え」
泰以は天井を見る。
「それでよい」
少し間があった。
「そうでなければ困る」
泰満は黙っている。
「兄上が死んだ時、泰能は若かった」
「はい」
「だから、わしが残った」
泰満も知っている。
泰熙が亡くなったあと。
泰能が掛川城を継ぎ。
泰以が後見となった。
戦になれば前へ出た。
井伊。
舟形山。
曳馬。
「いつまでも同じでは困る」
「はい」
「泰能はもう子供ではない」
「はい」
「妻も迎えた」
「はい」
「家臣どもも、泰能を見るようになった」
泰満は、このところの掛川城を思い返した。
確かにそうだった。
以前なら何かあるたび泰以へ話が来た。
今は違う。
泰能が決める。
分からないことだけ泰以へ聞く。
いつの間にか、そうなっていた。
「叔父上」
「何だ」
「病だから、そのようなことを考えているのですか」
泰以はしばらく黙っていた。
「病になったから、分かっただけだ」
「何が」
「わしがおらずとも、掛川は動く」
泰満は何も言えなかった。
泰以が笑う。
「そんな顔をするな」
「どんな顔です」
「わしが死ぬような顔だ」
「そのようなことは」
「死なぬ」
泰以は言った。
「まだな」
◇
それから半月ほどして。
泰以は屋敷の中なら歩けるまでに戻った。
食も戻った。
顔色もよくなった。
話しているだけなら、以前と変わらない。
泰満も、もう大丈夫なのではないかと思い始めた。
ある朝。
泰以が言った。
「馬を出せ」
名美が顔を上げる。
「何になさるのです」
「乗る」
「なりません」
「乗れるか確かめるだけだ」
「確かめる必要がございませぬ」
「ある」
泰以は譲らなかった。
結局、屋敷の前へ馬が出された。
泰満もいた。
彌太郎もいる。
泰以が鐙へ足を掛ける。
身体を上げる。
少しよろめいた。
それでも馬上へ収まった。
「ほら」
泰以が得意そうに言う。
「乗れる」
泰満も少し安心した。
「本当ですね」
「当たり前だ」
泰以が手綱を取る。
馬をゆっくり歩かせる。
屋敷の周りを一回りする。
最初は何事もなかった。
二回り目。
泰満は泰以の背中を見ていた。
姿勢が少し崩れている。
「叔父上」
「何だ」
「もうよいのでは」
「まだだ」
三回り目へ入ろうとした。
そこで泰以が馬を止めた。
動かない。
「殿?」
彌太郎が近づく。
「……降りる」
短い言葉だった。
泰満と彌太郎が馬の両側へ回る。
「一人で降りられる」
泰以はそう言った。
だが、鐙から足を外した時、身体が大きく揺れた。
「叔父上!」
泰満が支える。
「よい」
泰以は地面へ降りた。
だが、その場からすぐには動かなかった。
息を整えている。
額に汗が浮かんでいた。
ほんのわずかな騎乗だった。
戦場なら、これから一日が始まるところだった。
泰以はしばらく馬を見ていた。
「叔父上」
「分かっておる」
泰満は何も言えなかった。
「これでは戦にならぬ」
泰以が自分で言った。
◇
その日の午後。
泰能が屋敷へ来た。
時茂も一緒だった。
泰以は床ではなく、座敷に座っていた。
「叔父上」
泰能が頭を下げる。
「御加減はいかがです」
「悪くない」
名美が横から言う。
「よくもございませぬ」
「どちらなのです」
「わしに聞け」
泰能が笑った。
泰以も笑う。
それから真面目な顔になった。
「泰能」
「はい」
「話がある」
部屋の空気が変わった。
「わしは、掛川を退こうと思う」
泰満が顔を上げた。
泰能もすぐには答えなかった。
「叔父上」
「聞け」
泰以は続ける。
「兄上が死んでから、もう長い」
時茂が黙っている。
「その間、わしがそなたを支えた」
「はい」
「だが、もうよい」
泰能が泰以を見る。
「病が治らぬと決まったわけではございません」
「治っておる」
泰以は答えた。
泰満は少し驚いた。
「叔父上」
「死にかけてはおらぬ」
「それはそうですが」
「飯も食える。歩ける。馬にも乗れる」
泰以は一度言葉を切った。
「だが、戦には出られぬ」
誰も何も言わなかった。
「半日馬を走らせることもできぬ。具足を着て山へ登ることもできぬ。夜を徹して陣にいることもできぬ」
泰以は自分の手を見る。
「この身体で前へ出れば、わし一人の問題では済まぬ」
泰能が黙って聞いている。
「兵がわしに合わせることになる」
泰満は今日の馬上の泰以を思い出した。
ほんのわずかな時間だった。
それであれほど疲れていた。
戦ならば。
雨が降る。
道が悪い。
食べられぬこともある。
眠れぬこともある。
敵がいつ来るかも分からない。
屋敷の周りを馬で回るのとは違う。
「それに」
泰以が泰能を見る。
「そなたは、もうわしがおらずとも掛川を動かしておる」
泰能がわずかに目を伏せた。
「そうでなければ、この十年、わしは何をしていたのだ」
「叔父上には、まだ教えていただくことがございます」
「駿河におる」
「駿河へ?」
泰満が聞いた。
泰以がこちらを見る。
「府中の近くへ下がる」
「なぜです」
「わしの知行もある」
「それは分かりますが」
「掛川におれば仕事をする」
名美が大きく頷いた。
「まことに、その通りでございます」
「まだ話しておる」
「最も大切なところでございますので」
泰以が嫌そうな顔をした。
「しばらく駿河で暮らす」
「しばらく?」
泰満が聞く。
泰以は少し考えた。
「必要なら戻る」
「必要でなければ?」
「楽ができる」
泰満は思わず笑った。
「叔父上が楽をする姿など想像できませぬ」
「失礼な奴だ」
時茂も笑った。
泰能だけは、まだ泰以を見ていた。
「氏親様には」
「暇を願う」
泰能の目が少し動く。
「もう、お決めになったのですね」
「決めた」
短い言葉だった。
泰能はしばらく黙っていた。
やがて深く頭を下げる。
「承知しました」
泰以も頷いた。
「掛川を頼む」
「はい」
それだけだった。
泰満には、あまりに簡単に聞こえた。
十年近く。
泰以が支えてきた城だった。
それを二言、三言で渡してしまう。
だが泰以にとっては、それで十分なのかもしれなかった。
◇
ほどなく、氏親から許しが届いた。
泰以が暇を願い、駿河へ下ることを認めるという。
知らせを聞いた泰以は、一度だけ頷いた。
「そうか」
泰満の方が落ち着かなかった。
「それだけですか」
「何がだ」
「もっと何か」
「何を言えばよい」
「分かりませぬが」
「なら黙っておれ」
彌太郎が横から言う。
「若は、殿が本当に掛川からいなくなるとは思っていなかったのでございましょう」
泰満が睨む。
「余計なことを言うな」
「違いますか」
泰満は答えなかった。
違わなかった。
泰以は生きている。
歩ける。
話せる。
馬にも乗れる。
それなのに掛川を去る。
戦で討たれたわけではない。
追われたわけでもない。
家を失ったわけでもない。
ただ、以前と同じようには戦えなくなった。
それだけで、武将としての立つ場所は変わる。
泰満は初めて、そのことを知った。
◇
その夜。
泰満は彌太郎と屋敷の外へ出た。
遠くに掛川城の灯が見える。
「彌太郎」
「はい」
「叔父上は、本当に戻らぬのかな」
「戻られることもございましょう」
「曖昧だな」
「私に決められることではございませぬので」
泰満は城を見る。
「病は治った」
「はい」
「なら、いつかまた」
「若」
彌太郎が言った。
「病が治ることと、戦へ出られることは同じではございませぬ」
泰満は黙った。
今日の泰以を思い出す。
馬から降りた時の顔。
肩で息をしていた。
あの姿で何十里も軍を進めることはできない。
「それに」
彌太郎が続ける。
「殿が戻らねばならぬ家では、殿も安心して駿河へ行けませぬ」
泰満が顔を向ける。
「加増された土地がございます」
「ああ」
「家臣も増えました」
「ああ」
「駿河の知行もございます」
「分かっておる」
「では、誰が見ます」
「泰能殿ではないのか」
「掛川朝比奈家は泰能様が見られます」
「なら」
「殿御自身の家でございます」
泰満は言葉を止めた。
泰以が持つ土地。
泰以に従う家臣。
杉山。
村越。
そして彌太郎。
今まで、それらは泰以が考えることだった。
泰以が決めることだった。
自分は、その横で覚えていればよかった。
「誰がやる」
泰満が尋ねた。
彌太郎は答えなかった。
ただ、泰満を見る。
「……俺か」
「殿がお決めになることです」
「俺はまだ――」
「若」
彌太郎が遮った。
「土地は、殿の身体が元に戻るまで待ってはくれませぬ」
泰満は何も言えなかった。
舟形山では、自分一人の命を守ることで精一杯だった。
曳馬では、二十人を預けられた。
今度は、その二十人どころではない。
土地がある。
家臣がいる。
そこで暮らす者たちがいる。
泰以は生きている。
家督を譲ったわけでもない。
病人として寝たきりになったわけでもない。
それでも、これまでと同じではいられない。
掛川の夜は静かだった。
その静けさの中で泰満は初めて、自分の前に泰以の背中がない道を意識していた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




