第十七話 京の姫|中御門家の姫、掛川へ
婚姻の支度が始まると、掛川城は戦の最中とは別の騒がしさに包まれた。
槌の音がする。
材木が運ばれる。
大工が行き交う。
城内では新しく整える奥向きの建物に人が入り、城下では京から来る一行を泊める屋敷と寺が決められていく。
戦の時なら、兵をどこへ置くか。
兵糧をどこへ運ぶか。
馬をどこへつなぐか。
考えることは多くても、目的は分かりやすかった。
今回は違う。
「若」
彌太郎が書付を持ってきた。
「こちらをご覧ください」
「また宿か」
「今度は宿ではございません」
「では何だ」
「姫君について掛川へ残られる方々です」
泰満は書付を見る。
名が並んでいた。
女房。
侍女。
雑仕。
ほかにも泰満には役目のよく分からない者がいる。
「こんなに残るのか」
「京から来られる全員ではございません」
「まだいる?」
「当然です」
彌太郎は別の書付を出した。
「道中の供。輿を扱う者。荷を運ぶ者。中御門家の御使者。その供。それから途中まで姫君に付き従い、駿府で役目を終えて京へ戻る方もおられます」
泰満は二枚の書付を見比べた。
「姫一人を迎えるのではないのだな」
「ようやくお分かりになりましたか」
「叔父上にも言われた」
「殿もたまには分かりやすいことを仰いますな」
「聞こえたぞ」
少し離れたところにいた泰以が言った。
彌太郎は何事もなかったように頭を下げた。
「失礼いたしました」
「まったくだ」
泰以は大工たちの方を見る。
「奥の方は間に合うか」
「大工は間に合わせると申しております」
「ならばよい」
彌太郎が小さく呟いた。
「大工殿まで殿に似てまいりましたな」
「何か言ったか」
「何も」
◇
泰満自身も、支度から逃れることはできなかった。
名美の前に座らされる。
「もう一度」
「まだやるのですか」
「もう一度です」
泰満は座り直した。
戦場なら、多少足が開いていても誰も何も言わない。
だが今日は違うらしい。
「彌一郎様」
「はい」
「京からおいでになる方々を、珍しいものを見るように眺めてはなりません」
「眺めません」
「本当に?」
「……たぶん」
「それでは困ります」
どこかで聞いた言葉だった。
「彌太郎と同じことを言いますね」
「彌太郎殿が正しいのでしょう」
泰満は諦めた。
「戦より面倒だな」
「何か?」
「何も」
名美は泰満を見る。
「姫君にとっては、京を離れ、知らぬ土地へおいでになるのです」
泰満は顔を上げた。
「掛川を知らない」
「当然でしょう」
「中御門家の姫なら、駿河のことは知っているのでは」
「名を知っていることと、暮らすことは違います」
名美は静かに言った。
「御自分なら、突然京で暮らせと言われて平気ですか」
泰満は想像した。
「……困ります」
「でしょう」
それからは少し真面目に話を聞いた。
◇
やがて、姫が京を発ったとの知らせが届いた。
それからは、道中の様子を知らせる使者が次々に来た。
今日はどこまで進んだ。
誰が迎えに出た。
雨で少し遅れた。
馬が一頭替えられた。
宿に問題はない。
一行が近づくほど、掛川の空気も落ち着かなくなっていった。
「明日には遠江へ入られるそうです」
彌太郎が言った。
「ならば、掛川へ来るのもすぐだな」
「来られません」
「なぜだ」
「一度、通り過ぎられます」
泰満は眉を寄せた。
「やはり妙ではないか」
「まだ仰いますか」
姫の一行は東海道を下り、掛川を越えてさらに東へ向かう。
最初の行き先は駿府だった。
「そのまま掛川へ入れば近いのに」
泰満が言うと、泰以が答えた。
「荷物ではないと言っただろう」
「覚えております」
「氏親様がおられる」
「はい」
「御台様もおられる」
「はい」
「しかも御台様の姪御だ」
泰満は頷いた。
「駿府を素通りする方がおかしい」
「それも分かりました」
「ならば何が不満だ」
「掛川の前を通るのに、入らないのが妙なだけです」
彌太郎が言った。
「若は道を最短で考えすぎでございます」
「道は短い方がよいだろう」
「婚姻まで兵糧運びのように考えないでください」
◇
姫の一行が掛川近くを通った日、泰満は街道沿いへ出た。
迎えのためではない。
掛川側で不都合がないか確かめるためだった。
やがて先触れが来た。
道の脇にいた人々がざわめく。
「来たぞ」
「京のお姫様だ」
「中御門様の姫だとよ」
農民もいる。
商人もいる。
子供まで集まっていた。
「もう噂になっているな」
泰満が言う。
「当然でしょう」
彌太郎は人々を道から下げながら答えた。
「京の公卿の姫君が掛川へ嫁がれるのです」
まず供の者たちが来た。
泰満が想像していたより、ずっと多い。
武装した者。
旅装の公家衆。
荷を運ぶ者。
女房たち。
さらに輿の前後にも人が続いている。
長い。
「これは宿が要るはずだ」
「今さらでございますか」
「書付で見るのと違う」
「何事も実物を見るまで信じないのは、殿に似ましたな」
輿が近づく。
泰満は名美から言われたことを思い出し、じろじろ見ないよう顔を伏せた。
近くにいた子供が大声を出した。
「帝の姫様だ!」
泰満は思わず彌太郎を見た。
彌太郎もこちらを見た。
「ほら」
「本当に言ったな」
「人の噂とは、そういうものでございます」
「まだ掛川に着いてもいないぞ」
「明日には帝の妹君くらいになっているかもしれませぬ」
「増やすな」
一行は、そのまま東へ進んでいった。
姫は掛川へ嫁ぐ。
それなのに、掛川を通り越して駿府へ向かった。
それだけでも、城下ではしばらく話の種になった。
◇
数日後。
今度は泰能、泰以、泰満らが駿府へ入った。
今川館は、戦の評定で訪れた時とはまるで違っていた。
人の装いが違う。
言葉の調子が違う。
歩き方まで違って見える。
「若」
彌太郎が小声で言った。
「きょろきょろなさらぬように」
「していない」
「しております」
「名美殿にも言われた」
「では、二人から言われていることになりますな」
「おまえもしているだろう」
「私は仕事でございます」
「便利な言葉だな」
やがて泰能が呼ばれた。
泰以も同席する。
泰満は後ろへ控えた。
氏親がいる。
その隣には御台がいた。
泰満はこれまでにも遠くから姿を見たことはある。
だが、これほど近くで見ることはほとんどなかった。
その前に、京から来た姫が座っていた。
長い旅を終えたばかりである。
それでも姿に乱れはなかった。
泰満は一瞬だけ顔を上げ、すぐに目を伏せた。
名美に言われたことを覚えていた。
「長い道中でしたね」
御台が姫へ声を掛けた。
「はい」
「京とは随分違うでしょう」
姫は少し間を置いた。
「山が近うございます」
御台が笑った。
「掛川は、もっと近いですよ」
「左様でございますか」
「慣れるまで時間は掛かりましょう。ですが、困ることがあれば申しなさい」
姫は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
御台は泰能を見る。
「泰能殿」
「はっ」
泰能が頭を下げた。
「兄上からお預かりした姫です」
「はい」
「大切になさいませ」
「必ず」
いつもの泰能より、声が少し硬い。
氏親が横で笑った。
「戦より緊張しておるな」
泰能が言葉に詰まった。
泰満は俯いた。
横を見ることはできないが、泰以も笑いを堪えている気配がした。
◇
祝儀は駿府で執り行われた。
泰満には、細かな作法の意味までは分からなかった。
誰が先に座るのか。
誰が何を渡すのか。
どこで頭を下げるのか。
何度見ても難しい。
だが、一つだけは分かった。
氏親と御台がその場にいる。
中御門家から使者が来ている。
京から姫がはるばる下ってきた。
そして泰能が、その姫を掛川朝比奈家の正室として迎える。
これは単に一人の男が妻を迎える話ではなかった。
中御門家。
今川家。
掛川朝比奈家。
三つの家をつなぐ婚姻だった。
戦では誰を討ったかが語られる。
ここでは、誰と結んだかが家の力になる。
泰満は、泰以が言っていた言葉を思い出した。
婚姻を結べば、家の立つ場所が変わることがある。
ようやく、その意味が少し見えた。
◇
数日後。
泰能夫妻が駿府を発った。
今度こそ掛川へ向かう。
姫の輿を中心に、長い列が東海道を西へ進んだ。
ただし、京から来た者が全員掛川へ向かうわけではない。
役目を終え、京へ帰る者もいる。
駿府に残る者もいる。
それでも、姫付きとして掛川へ入る女房や侍女、荷を運ぶ者を加えれば、十分に長い一行だった。
「姫様道中ですな」
彌太郎が言った。
「行きには掛川を通り過ぎて、今度は戻る」
「若はまだそれを気にしておられるのですか」
「もう納得はしている」
「それなら結構」
「ただ、妙ではある」
「納得しておられませんな」
道沿いには、また人が集まった。
前回より多い。
「ほら」
彌太郎が言った。
「何がだ」
「噂が育っております」
近くから声が聞こえた。
「京の姫様だ」
「御台様の御身内だそうだ」
「帝様にも近い御方だとか」
泰満は彌太郎を見る。
「帝の姫ではなくなったぞ」
「少し正しくなりましたな」
「噂も戻るのか」
「たまには」
◇
掛川が近づく。
城下の人々が道沿いに並んでいた。
新しい掛川城も見えてくる。
泰満はその姿を見上げた。
今の場所へ城が移ってから、まだ数年。
泰満には見慣れた城だった。
だが、今日は違って見えた。
城内では新しい建物が整えられている。
姫を迎えるために広げた奥向き。
女房たちの居所。
荷や調度を収める場所。
城下には、一時滞在する随行人のための宿も用意されている。
この数か月で、掛川城はまた少し姿を変えた。
城門の前で泰能が馬を止めた。
姫の輿も止まる。
やがて姫が城内へ入った。
朝比奈一族が迎える。
時茂もいる。
家臣たちも並んでいた。
泰満は少し離れた場所から見ていた。
奥へ向かう途中、姫が一度だけ足を止めた。
新しく整えた建物を見る。
「こちらが」
泰能が答えた。
「姫のために整えました」
姫は建物を見る。
「新しいのですね」
「城そのものも、まだ新しゅうございます」
泰能は少し考えてから続けた。
「父が築き、叔父たちと守ってきた城です」
姫は城内を見回した。
「では、私もこれから覚えねばなりませぬね」
泰能が少し驚いた顔をした。
それから頭を下げる。
「私も、まだ覚えているところにございます」
姫がわずかに笑った。
二人はそのまま奥へ入っていった。
◇
「叔父上」
泰満は小さく声を掛けた。
「なんだ」
「これで泰能殿も一人前ですか」
泰以は鼻で笑った。
「嫁を取れば一人前になるなら、世の中は楽だ」
「では違うのですか」
「これからだ」
泰満は奥へ消えていった泰能を見る。
「叔父上は、まだ後見をなさるのですか」
泰以は少し考えた。
「必要ならな」
「必要でなければ?」
「楽ができる」
泰満は笑った。
「叔父上が楽をする姿など想像できませぬ」
「失礼な奴だ」
泰以も笑った。
その顔には、まだ何の翳りもなかった。
井伊を降し。
舟形山を取り返し。
曳馬を落とし。
甥の家を支え。
そして今、京の公家から迎えた姫が掛川城へ入った。
掛川朝比奈家は、泰熙が築いた頃とはまた違う家になろうとしていた。
泰以自身の家も、加増を受けて大きくなったばかりだった。
城には新しい槌の跡が残っている。
人が増えた。
土地が増えた。
縁が増えた。
何もかもが、うまく進んでいるように見えた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




