第十五話 曳馬落城|斯波義達、遠江を去る
夜が明ける前から、陣は動いていた。
声を張る者はいない。
槍を運ぶ音。
楯を引きずる音。
鎧の紐を締める音。
炊いた飯を腹へ押し込む者もいる。
泰満は、自分の前に並んだ二十人を見た。
昨日までなら、皆ただの味方だった。
今日は違う。
自分についてくる者たちである。
「若」
彌太郎が横へ来た。
「数えましたか」
「二十人だ」
「顔は」
泰満は黙った。
「覚えておられますか」
「……全員は」
「では、今見ておいてください」
彌太郎は二十人を指した。
「城へ入れば、数だけでは分からなくなります」
泰満は一人ずつ見た。
年のいった者。
自分とそれほど変わらぬ若者。
槍を持つ者。
楯を持つ者。
舟形山にも従った者が何人かいる。
「二十人を連れて帰れ」
昨夜、泰以に言われた言葉を思い出した。
「若」
「なんだ」
「一番に城へ入ろうなどと考えてはなりませぬぞ」
「考えていない」
「本当に?」
「一番乗りは、おまえに任せる」
「それはもっと困ります」
泰満は少し笑った。
遠くで太鼓が鳴った。
一度。
間を置いて、もう一度。
陣の空気が変わった。
「来ますな」
彌太郎の顔から笑いが消えた。
◇
最初に動いたのは福島勢だった。
朝靄の中を、まとまった兵が前へ出る。
何日もかけて金山衆が掘り進めた場所を使い、城際まで寄っていく。
「楯を上げろ!」
大声が響いた。
福島助春である。
「止まるな! 前へ詰めろ!」
城から矢が飛んだ。
石も落ちてくる。
だが、最初に包囲した頃より明らかに少なかった。
福島勢は止まらない。
「すごい……」
泰満が呟いた。
隣にいた泰以が言った。
「見るな。おまえの持ち場を見ろ」
「はい」
泰満たち朝比奈勢は福島勢とは別の場所から進む。
正面を福島が叩く。
守兵がそちらへ寄れば、他が薄くなる。
「前へ」
泰以が命じた。
朝比奈勢も動いた。
泰満は二十人を率いて、その中を進んだ。
矢が来る。
「楯!」
声を出す。
前の二人が楯を上げた。
矢が当たる。
ひとつ。
二つ。
「止まるな!」
自分の声が聞こえた。
舟形山では、彌太郎の声についていった。
今日は自分が声を出している。
城際には、何日もかけて掘られた土が積まれていた。
その陰へ兵が入る。
城からは見えにくい。
「若」
兵の一人が言った。
「右が空いております」
泰満は見た。
確かに、人が少ない。
だが動かなかった。
「待て」
兵が意外そうな顔をした。
「行かぬので」
「まだだ」
舟形山で覚えた。
空いている場所には、理由がある。
少しして、右手の柵の陰から城兵が姿を現した。
槍が並ぶ。
「……おりましたな」
「ああ」
泰満は息を吐いた。
もし走っていれば、あそこへ飛び込んでいた。
「弓を呼べ!」
後ろへ声を送った。
弓兵が前へ来る。
矢を浴びせる。
城兵が頭を下げた。
「今だ。前へ!」
泰満の二十人が動いた。
◇
別の場所では、さらに激しい戦いになっていた。
福島勢が柵へ取りついている。
「引け!」
「押せ!」
「斧を入れろ!」
木が軋む。
内側から槍が突き出される。
一人が倒れた。
その後ろから別の者が入る。
福島助春自身も前にいた。
「そこだ!」
太い声が響く。
「崩せ!」
柵の一角が傾いた。
歓声が上がる。
だが、城兵も必死だった。
狭いところへ兵を集める。
槍が何本も突き出された。
福島勢が一度止まった。
そのときだった。
少し離れた場所で別の旗が動いた。
「飯尾勢、前へ!」
飯尾豊前守乗連だった。
福島勢が叩いている場所へは行かない。
その横へ兵を入れた。
守兵が福島へ寄ったことで薄くなったところだった。
「柵を破るな!」
乗連が叫んだ。
「脇を回れ! 門へ寄れ!」
泰満は離れたところからその動きを見た。
飯尾勢は無理に木を壊そうとしない。
柵沿いに兵を進め、守る者の少ない場所へ次々に取りついていく。
「飯尾殿は」
泰満が言った。
「福島殿とは違いますな」
泰以が答えた。
「同じことを二か所でやる必要はない」
福島が敵を集める。
飯尾が薄くなった場所へ入る。
朝比奈はさらに別の場所を圧迫する。
一つの城を、何か所からも押している。
舟形山とは、まるで違った。
◇
「門が開くぞ!」
声が上がった。
泰満が顔を上げた。
飯尾勢が取りついていた辺りだった。
完全に開いたわけではない。
半ば壊れ、押し込まれている。
内側では城兵が支えている。
「飯尾殿が入る!」
飯尾乗連は先頭ではなかった。
だが、兵を次々に送り込んでいる。
「中へ入った者は止まるな! 道を開けろ!」
城内へ入った兵がそこで固まれば、後ろが詰まる。
乗連はそれをさせなかった。
「左へ寄れ! 後ろを通せ!」
次の兵。
さらに次。
門の内側が少しずつ広がっていく。
「泰満!」
泰以の声が飛んだ。
「はい!」
「飯尾のところへ寄れ!」
「承知!」
泰満は二十人を見る。
「行くぞ!」
走った。
だが、先頭には立たなかった。
楯を持つ者を前へ。
槍をその後ろへ。
自分は中央へ入る。
昨日までなら、自分が先へ行くことが勇気だと思ったかもしれない。
今日は違った。
後ろを見る。
二十人いる。
「詰めろ!」
飯尾勢が開いた道へ入った。
◇
城の中は狭かった。
外から見るより、さらに狭い。
人。
槍。
倒れた者。
踏まれた道具。
声があちこちから飛ぶ。
どこが前なのか、一瞬分からなくなる。
「若!」
一人が叫んだ。
「左!」
城兵が来る。
「楯!」
受ける。
「槍!」
後ろから突かせる。
一人が下がった。
「追うな!」
泰満は叫んだ。
別の方向を見る。
二十人。
まだいる。
一人が腕を押さえている。
「下がれるか!」
「まだ行けます!」
「無理なら言え!」
「はい!」
泰満は前を見た。
戦っている。
だが、自分が斬る暇はほとんどなかった。
右を見る。
左を見る。
後ろを見る。
兵が離れすぎていないか。
前が詰まっていないか。
負傷者が倒れていないか。
泰以が言った意味が、ようやく分かった。
二十人を預かるというのは、自分が二十人分強くなることではない。
二十人分、見るものが増えるということだった。
◇
城の別の場所で大きな声が上がった。
「福島勢が入ったぞ!」
柵の一角が完全に崩れた。
福島勢が雪崩れ込む。
城内の守兵がそちらへ向く。
「今だ!」
飯尾乗連が叫んだ。
「押せ!」
飯尾勢も一気に前へ出る。
泰満たちも続いた。
守備側の形が崩れた。
一つの場所へ兵を寄せれば、別の場所が破られる。
そこへ戻れば、今度は先ほどの場所から敵が入る。
何日もの包囲で疲れていた城兵には、それを立て直す力が残っていなかった。
「退け!」
城内から声が上がった。
「奥へ!」
「持たぬ!」
旗が動く。
泰満は追おうとした兵を止めた。
「待て!」
「若!」
「崩れるな!」
自分たちの隊をまとめる。
目の前の敵を追えば、一人ずつになる。
舟形山で何度も見た。
「まとまって進む!」
「はっ!」
二十人が再び集まった。
一人、腕を負傷している。
もう一人、額から血を流していた。
だが歩ける。
泰満は数えた。
二十。
まだ二十いた。
◇
昼を待たずして、曳馬城の戦いは傾いた。
城兵の一部は武器を捨てた。
なお抵抗する者もいる。
だが、もはや城全体として戦ってはいなかった。
やがて、氏親から命が下った。
「降る者は討つな!」
声が各所へ伝えられる。
「武器を捨てさせよ!」
戦いの音が、一つずつ消えていった。
泰満は槍を地面についた。
身体が重い。
喉が乾いている。
「若」
振り返ると彌太郎だった。
「生きておりますな」
「見れば分かるだろう」
「では、後ろを」
泰満は二十人を見た。
「一人、腕をやられた」
「はい」
「一人、頭だ」
「はい」
「だが二十いる」
彌太郎がうなずいた。
「それでよろしいのです」
「城へ入ったぞ」
「はい」
「俺も」
「はい」
「一人も失わなかった」
「それが一番です」
泰満はしばらく黙った。
不思議だった。
舟形山で初めて敵を討った時ほどの高ぶりがない。
城を落とした。
自分の隊も城内へ入った。
だが、一番嬉しいのは二十人がまだいることだった。
◇
戦が終わった後、城内の一角に主だった将が集められた。
血と土の匂いが、まだ残っている。
今川氏親。
朝比奈泰以。
朝比奈泰能。
福島助春。
飯尾豊前守乗連。
そのほか、曳馬攻めに加わった諸将が並ぶ。
泰満は泰以の後ろに控えていた。
誰も勝ち鬨を上げなかった。
城は落ちた。
だが、その後の始末が残っている。
使番が一人、入ってきた。
「申し上げます」
氏親が顔を上げる。
「大河内備中守、ならびに巨海新左衛門――自害いたしました」
部屋が静かになった。
氏親はすぐには答えなかった。
やがて、短く息を吐いた。
「そうか」
それだけだった。
泰満は氏親の顔を見た。
喜んでいるようには見えない。
怒っているようにも見えなかった。
しばらくして、氏親がぽつりと言った。
「……こたびは、吉良も文句は言えまい」
泰以がわずかに顔を上げた。
泰満には意味が分からなかった。
氏親は続ける。
「前には、吉良に免じて命を助けた」
誰に説明するともなく言った。
「それでも、またこちらへ弓を引いた」
泰以が静かに答えた。
「今度は、自ら腹を切りました」
「そういうことだ」
氏親はそれ以上、大河内のことを口にしなかった。
泰満は少し驚いていた。
敵の大将が死んだ。
もっと大きな言葉があると思っていた。
だが氏親にとっては、それで一つの問題が終わっただけなのかもしれなかった。
「斯波治部大輔は」
泰能が尋ねた。
「生きております」
別の使番が答える。
「降伏を申し出ております」
氏親の目が細くなった。
「殺す必要はない」
福島助春が少し意外そうに見た。
「お許しになるので」
「許すとは言っておらぬ」
氏親は淡々と言った。
「普済寺へ入れよ」
何人かが顔を上げた。
「髪を落とさせる」
泰満は息を呑んだ。
「出家させるのですか」
思わず声が出た。
泰以が横目で見る。
氏親は泰満を見たが、咎めなかった。
「そうだ」
「ご本人が望まなくとも」
「望むかどうかは聞かぬ」
氏親は言った。
「二度と遠江へ兵を入れぬと誓わせる。その後、尾張へ返す」
泰満は黙った。
殺さない。
だが、元の立場では帰さない。
「守護殿を斬れば、後が面倒だ」
氏親は言った。
「生きて尾張へ帰っていただく。ただし、二度と遠江の守護として戻ってこられぬ姿でな」
泰以が小さく頷いた。
福島助春も何も言わなかった。
それで、斯波義達の処分は決まった。
◇
氏親は次に、城内を見回した。
「福島」
「はっ」
「よく破った」
助春が頭を下げる。
「兵が働きました」
「飯尾」
「はっ」
「そなたもよくやった」
飯尾乗連が頭を下げた。
「福島殿が正面を引き受けてくださったゆえにございます」
助春が笑った。
「飯尾殿が抜いてくれねば、まだ木を叩いておったかもしれぬ」
「珍しく仲がよいな」
氏親が言うと、場に少しだけ笑いが起きた。
だが氏親はすぐに顔を戻した。
「飯尾」
「はっ」
「この城を預ける」
乗連の顔が変わった。
泰満も思わず見た。
「曳馬を、でございますか」
「そうだ」
氏親は城内を見た。
「大河内の城であった。今後は今川の城になる」
乗連は深く頭を下げた。
「謹んでお受けいたします」
「壊れたところを直せ」
「はっ」
「兵を置け。周りの者もまとめよ」
「承知」
「城だけを見るな」
氏親は言った。
「このあたり一帯を預けるつもりでおれ」
乗連はもう一度、深く頭を下げた。
「心得ました」
泰満はその言葉を聞きながら、昨日の宇津山を思い出していた。
城を預ける。
その土地を預ける。
それは同じではない。
だが、別々でもない。
掛川には朝比奈。
高天神には福島。
これから曳馬には飯尾。
氏親が土地を押さえる時、そこには必ず人を立てる。
泰以が宇津山で言っていた「柱」とは、こういうことなのだろう。
◇
評定が終わる頃、氏親は西を見た。
「これで曳馬は片付いた」
誰も答えない。
皆、次が分かっていた。
「泰以」
「はっ」
「戸田は」
「舟形山で一度崩しております。牧野、西郷、熊谷にも目を配らせております」
「今橋と二連木か」
「はい」
氏親は少し考えた。
「すぐに動く必要はあるまい」
「私もそう思います」
泰以が答えた。
「こちらも兵を休ませる必要がございます」
「うむ」
氏親は頷いた。
「だが放ってはおかぬ」
「はい」
「曳馬が落ちれば、次は自分と思って先に動いたのかもしれぬが」
氏親は少し苦笑した。
「そのせいで、本当に次になってしまったな」
泰以もわずかに笑った。
「因果なものですな」
「まったくだ」
氏親は立ち上がった。
「まず兵を休ませる」
そして西を見た。
「その後、戸田を押さえる」
泰満も同じ方を見た。
舟形山。
二連木。
今橋。
まだ行ったことのない土地が、その向こうにある。
だが今は、少しだけ分かる。
戦は、勝ったから終わるのではない。
勝った後に、誰を残し、誰を退け、どこへ次の柱を立てるか。
そこまで決まって、ようやく土地が動く。
曳馬城は落ちた。
そして今川の西への道は、また一つ開いた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




