第十四話 囲む戦|朝比奈泰満、戦わずに城を攻める
曳馬城を囲む陣に戻って、三日が過ぎた。
泰満は、まだ一度も城へ槍を向けていなかった。
朝になれば兵が起きる。
飯を炊く。
見張りを替える。
城へ続く道を見張る。
荷駄を受け入れる。
夜になれば火を減らし、物音に耳を澄ませる。
それだけで一日が終わった。
舟形山では違った。
敵がいた。
槍が来た。
矢が飛んだ。
進めと言われれば進み、止まれと言われれば止まった。
ここには舟形山とは比べものにならぬほど多くの兵がいる。
なのに、戦わない。
「彌太郎」
「はい」
「いつ攻めるのだ」
彌太郎は干した飯を口へ運びながら、曳馬城を見た。
「攻めております」
「どこがだ」
「若も毎日、見張りへ出ておられるでしょう」
「それを攻めると言うのか」
「城へ入るものを止めておりますからな」
彌太郎は指を折った。
「米。人。使者。薪」
「だが、誰も斬っていない」
「斬らずに弱るなら、その方がよろしいでしょう」
泰満は納得しかねる顔をした。
「若は舟形山で戦を覚えたばかりですからな」
「何が言いたい」
「戦とは、毎日誰かを斬るものだと思っておられる」
「違うのか」
「違う」
横から声がした。
泰満が振り返る。
「叔父上」
泰以は二人の前を通り、そのまま曳馬城を見た。
「彌一郎。城の中に何人いる」
「分かりませぬ」
「わしも分からぬ」
泰満は眉を寄せた。
「叔父上にも?」
「中へ入って数えた者がおらぬからな」
「では、どれほど弱っているかも分からぬのでは」
「全部は分からぬ」
泰以は答えた。
「だから、外から見えるものを見る」
「何を」
「人は飯を食う」
「はい」
「馬も食う」
「はい」
「食えば減る」
泰満は少し考えた。
「蔵の中が」
「そうだ」
泰以は城を指した。
「こちらには毎日、荷が来る。向こうには入れさせぬ」
泰満は周囲を見た。
確かに今川方の陣には、朝から荷駄が絶えない。
米。
味噌。
塩。
矢。
縄。
薪。
傷を負った者は後ろへ送られ、代わりの兵が入ってくる。
城の中には、それがない。
「囲むというのは」
泰満が言った。
「待つことなのですね」
「ただ待つのとは違う」
泰以は答えた。
「逃がさぬ。入れぬ。休ませぬ。そのうえで待つ」
◇
その日の夕刻だった。
「出たぞ!」
声が陣を走った。
曳馬城の門から、数十人の兵が飛び出してきた。
泰満はすぐ槍を取った。
城兵は固まって、一か所へ押してくる。
囲みを破って逃げるほどの数ではない。
泰満には、何をしようとしているのか分からなかった。
「前へ!」
朝比奈勢が動く。
槍がぶつかった。
泰満も列へ入った。
だが、舟形山のような戦にはならなかった。
城兵は少し押し合うと、すぐに退き始めた。
泰満の前を、一人の敵兵が走る。
追えば届きそうだった。
一歩出かける。
「追うな!」
泰以の声が飛んだ。
泰満は止まった。
以前なら、なぜ、と聞いていたかもしれない。
今は城門へ戻っていく兵を見送った。
門が閉じる。
「今のは何だったのです」
泰満が尋ねた。
「薪かもしれぬ」
泰以が答える。
「食い物かもしれぬ。外に置いてある何かを取りに来たのかもしれぬ」
「分からない?」
「分からぬ」
泰満は少し驚いた。
「ですが、何でもよい」
泰以は城門を見る。
「外へ出なければならなくなった。それが分かればよい」
「城の中だけでは足りなくなった」
「かもしれぬ」
「弱っているのですね」
「まだ決めるな」
泰以はすぐに言った。
「一度出ただけだ」
泰満は黙った。
見えるものを見る。
だが、一つ見えただけで全部分かったつもりになるな。
それも泰以の戦らしかった。
◇
数日後。
今川の陣へ、見慣れぬ一団が入ってきた。
兵には見えない。
槍を持つ者もいるが、多くは鍬、鶴嘴、斧を担いでいた。
背丈の低い者も多い。
だが肩と腕は太かった。
「誰です」
泰満が尋ねる。
「金山の者だ」
泰以が答えた。
「金山?」
「穴を掘る」
「ここには金などないでしょう」
「だから城を掘る」
泰満は一団を見直した。
「城を?」
「氏親様が呼ばれた」
金山衆はすぐに働き始めた。
城へ近づくため、地面を掘る。
掘った土を積み、城から見えにくい場所を作る。
堀の形を見る。
土の固さを確かめる。
湿った場所では足を止め、地面を掘り返した。
泰満には、やはり戦とは思えなかった。
一日中、土を掘っている。
だが城から矢が飛べば、楯の陰へ入る。
矢が止めば、また出てきて掘る。
少しずつ。
少しずつ。
城との距離を縮めていった。
ある日、氏親が様子を見に来た。
泰以と泰能も一緒だった。
泰満は少し離れて控えた。
「水はどうだ」
氏親が金山衆の頭へ尋ねた。
男は地面を見た。
「城の中の井戸までは分かりませぬ」
泰満は意外に思った。
金山の者なら、地の下のことは何でも分かるのかと思っていた。
「分からぬか」
「穴の中なら、岩も水も見られます」
男は城を見上げた。
「ですが、城の中を見ずに井戸の場所まで当てろと言われましても」
氏親が笑った。
「もっともだ」
「ただ、この辺りには水が集まります」
男は足元を指した。
「雨が降れば、こちらへ流れる。浅い水もございます。溝を変えれば、流れを別へ向けることはできます」
「できることをやれ」
「承知」
氏親はそれだけ命じた。
泰満は泰以へ顔を寄せた。
「井戸を断つのではないのですか」
「断てればよい」
「ですが、場所が分かりませぬ」
「だから、できるところから困らせる」
泰以は掘られている溝を見る。
「城攻めは、何か一つをやれば落ちるものではない」
金山衆は溝を変えた。
雨水の流れを変える。
湿った地を掘る。
城際へ近づくための掘り込みも、少しずつ伸ばしていった。
夜になれば矢が飛ぶ。
朝になればまた掘る。
翌日も。
その翌日も。
曳馬城は、まだ落ちなかった。
◇
泰満は、その間にもいろいろな場所へ回された。
朝比奈勢の持ち場。
泰能の陣。
福島勢の陣。
荷駄の集まる場所。
負傷者を置く小屋。
夜の見張り。
舟形山では、自分の前にいる敵しか見えなかった。
曳馬では違う。
敵より、味方の方が多く見えた。
そしてその味方を戦わせるために、さらに多くの人間が働いている。
福島勢の陣を訪れた時だった。
泰満は一人の武者を見た。
大柄な男だった。
声も大きい。
歩いているだけで、周囲の兵が自然に道を空ける。
「あれが福島助春殿です」
彌太郎が言った。
泰満は目を見張った。
「父上から聞いている」
「何と」
「泰以叔父上と並ぶ戦上手だと」
「ほう」
「叔父上は地を見て勝つ」
「はい」
「福島殿は――」
泰満は少し言いにくそうにした。
「敵の腹を裂いて勝つ、と」
彌太郎は福島助春を見た。
「時茂様らしい言い方ですな」
ちょうど福島が兵へ命じていた。
「柵を増やせ!」
声が陣を渡る。
「夜にまた出てくる! 出たところを両側から挟め!」
「はっ!」
「弓を置け! 松明もだ! 暗いから見えぬなどと申すな!」
兵たちが一斉に動いた。
泰満はしばらく見ていた。
泰以とは違う。
泰以は声を張り上げるより先に、地を見て、人をどこへ置くかを考える。
福島は、人を動かすことそのものに勢いがあった。
「力攻めになれば」
彌太郎が言った。
「あの御方の出番でしょうな」
「力攻めになるのか」
「いつまでも囲んではおれませぬ」
「なぜだ」
彌太郎が泰満を見る。
「こちらも飯を食うからです」
泰満は何も言えなかった。
その答えは、もう分かる。
◇
さらに日が経った。
泰満にも、少しずつ違いが見えるようになった。
夜になると、城から数人ずつ出てくることが増えた。
ある時は明け方に十人ほど。
ある時は門を開き、一気に数十人が押し出してきた。
どれも囲みを破れるほどの勢いはない。
だが、最初にはなかったことだった。
城から飛んでくる矢も減った。
以前なら矢が続けて飛んできたところで、間が空くようになった。
城壁の上を歩く兵も、交代が遅くなった。
同じ者が長く立っていることもある。
「若」
彌太郎が城を見ながら言った。
「どう思われます」
泰満も城を見る。
「弱っている」
「なぜ」
「外へ出てくる兵が増えた」
「はい」
「矢が減った」
「はい」
「見張りも、前より鈍い」
彌太郎が頷いた。
「ようやく、見るようになりましたな」
泰満は少し嬉しくなった。
城そのものは、何も変わっていない。
門もある。
柵もある。
旗も立っている。
だが中身は、少しずつ変わっている。
それが外からでも見えるようになってきた。
◇
その夜。
主だった将が氏親の陣へ集められた。
泰満は泰以の後ろに控えた。
泰能。
福島助春。
ほかの諸将もいる。
氏親は広げられた絵図を見ていた。
「そろそろよいか」
誰にというより、全員へ尋ねた。
泰以が答える。
「よろしいかと」
「城兵は」
「減っております。少なくとも、初めの頃ほど元気ではありませぬ」
「福島」
氏親が顔を向けた。
「どうだ」
福島助春は待っていたように答えた。
「押しましょう」
声が太い。
「いつまでも眺めていても城は開きませぬ」
氏親が笑った。
「そなたは最初から、それしか言わぬな」
「攻めぬ城攻めは性に合いませぬ」
「泰以は、最初は止めた」
「はい」
泰以は平然としている。
「最初に行けば、こちらも大勢死にました」
「今なら」
「少なくできます」
福島が横から言った。
「ならば、なおさら今ですな」
泰以がちらりと見る。
「急かさずとも攻めます」
「待ちすぎると、わしが先に老います」
「それは困りますな」
氏親が笑った。
陣の中に小さな笑いが起こった。
だが、すぐに静かになる。
氏親は絵図へ目を落とした。
しばらく考える。
そして顔を上げた。
「では、明日だ」
陣の空気が変わった。
「夜明けとともに動く」
福島助春が笑った。
泰能が静かに頭を下げる。
泰以も続いた。
「承知」
泰満の胸が強く鳴った。
何日も見ていた城。
何日も囲んでいた城。
ようやく攻める。
◇
陣を出たところで、泰以が泰満を呼んだ。
「彌一郎」
「はい」
「明日は、おまえにも兵をつける」
泰満は足を止めた。
「私に?」
「二十だ」
「二十人を、私が」
「そうだ」
泰満は一瞬、言葉を失った。
舟形山では、自分が彌太郎の後ろについていった。
普門寺でもそうだった。
今度は違う。
「多いと思うか」
「……分かりませぬ」
「その答えでよい」
泰以は言った。
「二十人を動かすのは初めてだからな」
「はい」
「前へ出すことだけ考えるな」
泰満が顔を上げる。
「では、何を」
「どう連れて帰るかまで考えろ」
泰満は黙った。
「城へ一番に入ることなど考えなくてよい」
「はい」
「二十人預けるなら、二十人連れて帰るつもりで動け」
「……承知しました」
「おまえが死ぬなというだけの話ではない」
泰以は続けた。
「後ろにいる者が、どこにいるかを忘れるな」
泰満は深く頭を下げた。
舟形山では、自分が生きて帰ることで精一杯だった。
明日は違う。
自分の後ろに二十人いる。
その二十人にも、それぞれ帰る場所がある。
曳馬城の上に月が出ていた。
城は静かだった。
その静けさを破る時が、ようやく来ようとしていた。
### 史料・創作メモ
本作では、史料で確認できる記述、作者の考察、物語上の創作を組み合わせて描いています。
**史料から**
曳馬城をめぐる戦いについて、連歌師・宗長の記録には、今川氏親が**安倍山の金掘(金山衆)を動員し、城内の水を断った**という記述があります。
金山で働く者たちは、岩盤を掘り、坑道を作り、地下水を扱う技術を持っていました。今川方がそうした技術者を城攻めに利用したという点は、この戦いの特徴の一つです。
宗長はさらに、氏親が天竜川に三百余艘の船を並べて舟橋を架けたとも記しています。
**本作での考察**
金山衆を曳馬城攻めに投入したこと自体は史料に基づいています。
ただし、どこをどのように掘り、どのような方法で城内の水を断ったのかという具体的な工程までは分かりません。
そのため本作では、金山衆が地質や水の流れを調べながら、溝や掘り込みを作り、少しずつ城を圧迫していく形に再構成しました。
一方、宗長が記す「三百余艘の舟橋」については本作では採用していません。
この戦い以前から今川方は天竜川以西で軍事行動を行っており、朝比奈泰以もさらに西にある舟形山城の奪還に動いています。そのため、舟橋がなければ今川軍が天竜川を渡れなかった、と単純に理解することはできません。
大軍や荷駄を安定して渡河させるための施設だった可能性や、後世の記録上の誇張なども考えられますが、実態を確定できないため、小説本文には取り入れませんでした。
**創作部分**
金山衆が曳馬城周辺の地面を調べ、溝を掘り、雨水や地下水の流れを変えながら城へ近づいていく具体的な作業は創作です。
また、氏親が金山衆の頭と直接会話する場面、城兵が食料や薪を求めて城外へ出る場面、包囲の中で矢や見張りが減っていく様子なども、長期包囲による城内の疲弊を表現するために構成しています。
本作では、曳馬城攻略を単純な力攻めではなく、
**包囲による兵糧の消耗
+金山衆による土木・水への攻撃
+城兵の疲弊
+最後の総攻撃**
という段階を踏んだ戦いとして描いています。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




