第十三話 曳馬へ|今川氏親、戸田の離反を知る
宇津山を出た朝比奈勢は、掛川へは戻らなかった。
負傷の重い者と捕虜、それを護送する兵だけを掛川へ向かわせ、まだ動ける者はそのまま曳馬を目指した。
泰満は、てっきり一度は掛川へ帰るものと思っていた。
「戻らぬのですか」
馬上から尋ねると、泰以は前を向いたまま答えた。
「何をしに戻る」
「何を、と申されましても」
「曳馬がまだ落ちておらぬ」
それで話は終わった。
横で彌太郎がため息をついた。
「若。殿に帰るという考えは、あまり期待なさらぬ方がよろしいかと」
「おまえも帰りたいのか」
「私は常に帰りとうございます」
泰満は笑った。
だが、身体は重かった。
舟形山で初めて敵と槍を交えた。
普門寺では、自分の手で人を討った。
山城を攻め、そのまま一晩、奪った城を守った。
翌日には宇津山へ寄り、今度はまた別の戦場へ向かっている。
戦とは、一度勝てば終わるものではない。
それだけは、もう嫌というほど分かり始めていた。
◇
曳馬城を囲む陣が見えてきたのは、翌日のことだった。
遠くからでも分かった。
旗が多い。
舟形山へ向かった時とは、まるで違う。
今川。
朝比奈。
福島。
そのほかにも、泰満にはまだ見分けのつかぬ旗が幾つも並んでいる。
陣屋が続き、荷駄が行き交い、人足が荷を運ぶ。
あちこちから炊煙が上がっていた。
「……多い」
思わず声が漏れた。
「舟形山とは違うでしょう」
彌太郎が言った。
「これが氏親様の戦です」
泰満は黙って陣を見た。
舟形山では、泰以の率いた一千五百だけでも大軍に思えた。
だが、ここではその一千五百さえ全体の一部にすぎない。
掛川朝比奈の戦と、今川家そのものが動く戦。
同じ戦でも、まるで大きさが違った。
やがて一騎がこちらへ向かってきた。
泰能だった。
「叔父上」
「泰能殿」
泰以が馬を下りる。
泰能は泰以の姿を確かめ、それから泰満へ目を向けた。
「彌一郎も無事か」
「はい」
「初陣であったな」
「どうにか」
泰能が少し笑った。
「どうにか、で城を一つ取り返したなら十分だ」
横で彌太郎が小さく咳をした。
泰満はそちらを見る。
一番乗りの話をしてやろうかと思ったが、彌太郎が露骨に目を逸らした。
やめておいた。
「氏親様がお待ちだ」
泰能が言った。
「舟形山のことを、直接お聞きになりたいとのことだ」
◇
今川氏親の陣は、曳馬城を望む場所に置かれていた。
泰以、泰能、泰満、彌太郎が入る。
氏親は床几に腰掛け、曳馬城の方を見ていた。
「戻ったか」
泰以が膝をつく。
「舟形山城、奪還いたしました」
「聞いておる」
氏親は泰以を見る。
「戸田は」
「南麓で一度崩しました。大半は西へ逃がし、城へ戻ろうとした者だけを押さえております」
「追撃は」
「しておりませぬ」
「そうか」
「北は多米勢に塞がせました」
「多米の損は」
「軽くはございませぬ。舟形山を落とされた折、一門も兵も失っております」
「そうであろうな」
「城は多米へ返しました。ただ、多米だけでは守り切れませぬので、中之郷から中山勢を入れております」
「ああ」
氏親は頷いた。
「舟形山が落ちたと聞いた時点で、中之郷には兵を増しておいた」
泰満はわずかに顔を上げた。
昨日、中山民部が率いてきた兵。
思っていたより数が多かった理由が、ようやくつながった。
「西を破られたのだ。近くの城まで手薄にしておくわけにはいかぬ」
「ちょうど使わせていただきました」
泰以が答えた。
氏親は少し黙った。
やがて低い声で言った。
「しかし、戸田め」
泰満は氏親を見る。
「斯波を通しただけでは飽き足らず、舟形山まで取ったか」
その顔に笑みはなかった。
「あれには、これまで随分と目をかけてきた」
泰以は黙って聞いている。
「今橋を持たせ、こちらとも付き合わせてきた。三河の境目で働いてくれれば、それでよかったのだ」
「戸田には戸田の考えがあったのでしょう」
泰以が言った。
「曳馬が落ちれば、次は己だと思ったのかもしれませぬ」
「だから斯波を通した、と」
「おそらくは」
氏親は小さく息を吐いた。
「助けを求めれば助け、こちらが三河へ出れば働かせてきた。それが、都合が悪くなれば敵へ回るか」
怒鳴りはしなかった。
だが、その声には明らかな苦みがあった。
「恩を忘れた、と申されますか」
泰以が尋ねる。
「そう言いたくもなる」
氏親は曳馬城へ目を移した。
「だが、腹を立てた順に兵を動かしていては戦にはならぬ」
「はい」
「まずはこちらだ」
曳馬城を見る。
「これを落とす」
「はっ」
「戸田は、その後だ」
泰以が頷いた。
「すでに牧野、西郷、熊谷へ使いを出しております。戸田が兵をまとめるようなら、すぐ知らせるよう申し含めました」
「よい」
「曳馬が落ちるまでは、それで足りましょう」
「うむ」
氏親はしばらく城を見ていた。
泰以も同じ方を見た。
だが、話はまだ終わらなかった。
「氏親様」
「なんだ」
「一つ、宇津山のことでございます」
泰満はわずかに顔を上げた。
昨日、初めてその名を知ったばかりの城だった。
「宇津山?」
「舟形山から戻る途中、見てまいりました」
「そうか」
「手を入れた方がよろしいかと」
氏親は少し考えた。
「舟形山があるゆえ、あそこは城番を置くほどにしておったが」
「はい」
「その舟形山を、戸田にやられてしまったからのう」
「それでございます」
泰以は少し身を乗り出した。
「舟形山が健在ならば、宇津山はその後ろでよろしかった。ですが、外の守りが破られることもあると分かりました」
「宇津山で受けるか」
「受けることもできます」
氏親が眉を上げた。
「ことも?」
「あの城の値打ちは、それだけではございませぬ」
泰以は続けた。
「今の城は、まだ地を使い切っておりませぬ。湖へ張り出した先まで使えば、斜面そのものが守りになります。陸から攻められる場所も限られる」
「城を広げるか」
「手を入れるならば、その方がよろしいかと」
氏親は頷いた。
「中之郷もあるぞ」
「ございます」
「中山に見張らせておけば足りぬか」
「中之郷とは、見るものが違います」
氏親が泰以を見る。
「どう違う」
「中之郷は、近くを見るにはよい場所です」
泰以は言った。
「湖岸を行く者。近くを通る船。道を出入りする者。何かが近づけば、早く知ることができます」
「宇津山は」
「浜名湖そのものを見る場所になります」
泰満は昨日、宇津山から見た景色を思い出した。
広い水面。
北へ延びる湖。
東の対岸。
その間をつなぐ水の道。
「西だけではございませぬ」
泰以が続ける。
「北も、東も、湖の上も見られる。どこで何が動いているかを見る目にできます」
氏親が少し考えた。
「中之郷は目の前を見る目。宇津山は浜名湖を見る目か」
「そのように考えます」
「しかも、いざとなれば城として受けられる」
「はい」
「船も使えるのだろうな」
「使えます。人も兵糧も、知らせも動かせましょう」
氏親はしばらく何も言わなかった。
やがて曳馬城から目を離し、西の方を見た。
「舟形山を外で守らせる」
「はい」
「中之郷で近くを見る」
「はい」
「その内側で、宇津山から湖全体を見る」
泰以が頭を下げる。
「そうなれば、西で何か起きても今より動きやすくなります」
「なるほどな」
氏親はもう一度考えた。
「城を広げれば、それで足りるか」
「いずれは人も要ります」
「人?」
「土地を預ける柱が」
「城主か」
「城だけでなく、周りまで見る者にございます」
「舟形山を一度取られた以上、あのままでよいとは言えぬか」
「そう思います」
「覚えておこう」
泰以が頭を下げた。
氏親は再び曳馬城へ顔を向けた。
「だが、まずは――」
城を指した。
「あれだ」
「はっ」
「曳馬を落とす」
◇
陣の外へ出ると、曳馬城の方から太鼓が聞こえた。
泰満は歩きながら泰以へ尋ねた。
「叔父上」
「なんだ」
「宇津山は、本当にそれほど大事な城になるのでしょうか」
「なるかどうかは、これからだ」
「手を入れれば?」
「地はよい」
泰以は答えた。
「だが城は、土を掘って柵を立てれば終わりではない」
「人が要る」
泰満が言った。
泰以がちらりと見る。
「分かってきたではないか」
「舟形山で教わりました」
「ならば覚えておけ」
「誰を置くのです」
「知らぬ」
「いずれ城主を置くのでしょう」
「必要になればな」
「候補は」
「知らぬ」
「叔父上」
「しつこい」
前を歩いていた彌太郎が振り返った。
「若」
「なんだ」
「昨日初めて見た城の主を、もう決めるおつもりですか」
「気になるではないか」
「それより」
彌太郎は曳馬城を見た。
「こちらがまだ残っております」
泰満も城を見る。
舟形山とは違う。
城も大きい。
囲む兵も多い。
戦場そのものが広かった。
宇津山のことは、そこでいったん頭から消えた。
今は、それでよかった。
後に自分が、その浜名湖を見る城を預かることになるなど、この時の泰満には知る由もなかった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




