第十話 普門寺|朝比奈泰満、初めて人を討つ
「彌太郎」
「はい」
「普門寺へ行け」
泰以は短く命じた。
「戸田勢が三十人ほど入り込んでおりますが」
「聞いておる」
「火まで持っているそうですが」
「それも聞いた」
彌太郎は一瞬、何か言いたげな顔をした。
「斬ればよかろう。行け」
「簡単に仰いますな」
「井伊の山よりは近い」
「距離の話ではございません」
泰以は取り合わなかった。
「早く行け」
彌太郎は肩を落とした。
「承知しました。生きて戻れましたら、文句を申します」
「戻ってからにせい」
泰以は次に泰満を見た。
「彌一郎」
「はい」
「お前も行け」
泰満は一瞬、舟形山を見上げた。
「城へは」
「まだだ」
泰以は答えた。
「まず寺を守れ」
「私も戦うのですか」
「先ほど何をしておった」
泰満は自分の槍を見た。
血がついている。
「……戦っておりました」
「ならば今さらだ」
泰以は言った。
「城を取るだけが戦ではない。行ってこい」
「承知しました」
彌太郎とともに兵を連れ、山へ入った。
山の口に入ると、風が変わった。
浜名湖から吹いていた湿った風は木々に遮られ、かわりに土と落葉の匂いが鼻をついた。
道は狭い。
馬を並べることもできない。
足軽たちは槍を立て、前の者の背を見ながら坂を進んだ。
泰満は息を整えた。
野戦が終わったばかりだった。
まだ身体の中に、あの音が残っている。
槍がぶつかる音。
人の叫び。
自分の槍に返ってきた手応え。
肩を突いた戸田兵が、その後どうなったのかは分からない。
自分が討ったのか。
別の者が討ったのか。
分からないままだった。
「若」
前を進んでいた彌太郎が振り返った。
「はい」
「先ほどの野とは違います」
「分かっております」
「本当に?」
「……たぶん」
「それでは困ります」
彌太郎は足を止めた。
「ここは道が狭い。敵が一人出てくれば、後ろの十人がいても助けられぬことがあります」
泰満は頷いた。
「まず自分を守ってくだされ」
「はい」
「次に味方です」
「はい」
「寺の者を逃がすのは、そのあとです」
「火は」
「最後です」
泰満は意外に思った。
「火を消しに行くのではないのですか」
「若が斬られれば、火を消す者が一人減ります」
彌太郎は前を向いた。
「敵を止めます。それから人を逃がす。そのあと火です」
「分かりました」
「寺を助けたいなら、まず生きてください」
山道の先に、煙が見えた。
霧ではない。
湿った山気の中で、その煙だけが黒かった。
「急ぎます」
彌太郎が言った。
普門寺は山道の途中にあった。
道から少し開けた場所に門があり、その奥に堂が見える。
堂の脇には庫裏。
さらに裏手から山道が上へ続いていた。
舟形山城へ向かうには、この寺の前を通る。
門前ではすでに人が動いていた。
戸田兵。
僧。
寺男。
誰が誰なのか、一瞬では分からない。
「朝比奈だ!」
誰かが叫んだ。
戸田兵の一人が振り向いた。
手に松明を持っている。
もう一人が槍を構えた。
「門を押さえろ!」
彌太郎が叫んだ。
「裏へ二人! 本堂前に五人! 庫裏へ入れさせるな!」
朝比奈兵が動く。
ここでは野戦のように横へ広がれない。
門を通れる人数しか前へ出られなかった。
戸田兵が門の内側から槍を突き出した。
先頭の朝比奈兵が受ける。
槍がぶつかった。
後ろから別の戸田兵が加わる。
「押し込まれるな!」
彌太郎が前へ出た。
敵の槍を横へ払う。
「若、左!」
泰満は反射的に身体を引いた。
次の瞬間、槍先が胸の前を通った。
近い。
野で見た槍より、はるかに近く感じた。
泰満は突き返す。
届かない。
敵がまた来る。
「下がりすぎです!」
彌太郎の声。
「前へ!」
泰満は一歩出た。
敵の槍が引かれる。
今だ。
槍を突いた。
穂先が敵の脇腹へ入った。
重い感触が返った。
稽古で藁束を突いた時とは違う。
柔らかい。
だが、その奥に固いものがある。
槍を抜こうとすると、何かに引かれるような抵抗があった。
敵兵が泰満を見た。
目が合った。
男の口が開く。
声にならなかった。
膝が折れた。
泰満の手が止まった。
音が遠のく。
先ほどの野戦とは違った。
今度は分かった。
自分が突いた。
自分の槍で、この男が倒れた。
「若!」
彌太郎の声が戻ってきた。
「止まらない!」
別の敵兵が迫っていた。
泰満は慌てて槍を引いた。
「謝るのは生きてからにしてください!」
野戦でも聞いた言葉だった。
だが今度は、その意味が違って聞こえた。
敵の槍を受ける。
朝比奈兵が横から入った。
戸田兵が退く。
「前へ!」
門を越えた。
境内へ入る。
そこでは、さらに混乱していた。
松明を持った兵が本堂へ走っている。
別の兵が、逃げようとする僧へ刀を振り上げていた。
「やめよ!」
泰満は走った。
自分の声とは思えなかった。
刀を振り上げた男が振り向く。
泰満は胴を狙わなかった。
槍を低く出す。
穂先が男の太腿へ入った。
「ぐあっ!」
敵が崩れる。
朝比奈の足軽が覆いかぶさった。
刀を蹴り飛ばす。
「縛れ!」
彌太郎が叫ぶ。
「動けぬ者まで殺すな! 縛れ!」
松明を持った兵が本堂の縁へ火を寄せた。
煙が上がる。
「火!」
声が飛ぶ。
だが泰満は、すぐには火へ走らなかった。
彌太郎の言葉を思い出す。
火を持つ者。
泰満は槍を振った。
穂先ではなく柄が敵の腕へ当たる。
松明が落ちた。
「押さえろ!」
朝比奈兵が敵へ組みつく。
地に落ちた火が枯葉を舐める。
「今だ! 火を消せ!」
寺の者が桶を持って走る。
兵も土を蹴りかけた。
「本堂へ移すな!」
「庫裏を見ろ!」
「裏にも敵がおるぞ!」
境内に声が飛び交う。
戸田兵は三十ほど。
数だけなら多くない。
だが狭い寺では、三十人でも十分だった。
堂の陰。
庫裏の脇。
門。
裏手の山道。
どこから敵が出てくるか分からない。
戸田兵の何人かは、なお抵抗した。
だが、先ほどの野戦で崩れた兵である。
まとまった命令はない。
味方同士で助け合う余裕もない。
一人ずつ押さえられていく。
刀を捨てた者は縛る。
抵抗する者は討つ。
裏手へ逃げようとする者は、回り込ませた兵が止めた。
その時、一人の戸田兵が弓を取った。
「弓!」
誰かが叫んだ。
矢が飛ぶ。
朝比奈兵の肩へ刺さった。
「射た者を討て!」
彌太郎の声が低くなった。
二人の兵が踏み込む。
弓兵は二本目をつがえる前に倒された。
やがて、境内の音が少しずつ減っていった。
怒号が消える。
槍のぶつかる音が止まる。
残ったのは、呻き声だった。
戸田兵の十人ほどが地に伏していた。
数人はまだ息がある。
残る者は後ろ手に縛られていた。
朝比奈方にも手負いが出た。
寺の者も一人、腕を斬られている。
だが生きていた。
本堂の縁は黒く焦げていた。
煙が細く上がっている。
燃えてはいない。
泰満は槍を握ったまま立っていた。
手が震えている。
槍には血がついていた。
今度は分かっている。
誰の血なのか。
「若」
彌太郎が来た。
泰満は倒れた戸田兵を見た。
門で自分が突いた男だった。
「私が討ちました」
声にすると、それが急に重くなった。
「はい」
彌太郎は否定しなかった。
「討たぬ方が、よかったのでしょうか」
彌太郎はすぐには答えなかった。
倒れた男を見る。
それから、腕を押さえて座り込む僧を見た。
「若が止めなければ、こちらが討たれていたかもしれませぬ」
「ですが」
「今考えるべきは、生きている者です」
彌太郎は声を落とした。
「味方。寺の者。捕らえた敵」
泰満は黙って聞いた。
「死んだ者のことは、日が暮れてから考えなされ」
泰満は頷いた。
うなずくしかなかった。
そこへ泰以が門をくぐってきた。
境内を見渡す。
倒れた者。
縛られた者。
手負い。
そして、本堂の焦げ跡。
「焼けておらぬな」
彌太郎が頭を下げた。
「どうにか」
「よし」
泰以はそれだけ言った。
褒めるでもない。
慰めるでもない。
だが、その一言で彌太郎の肩から少し力が抜けた。
泰以は泰満を見た。
血のついた槍を見る。
何も聞かなかった。
泰満も何も言わなかった。
泰以は山道の奥へ目を向けた。
普門寺の裏手から、道はさらに上へ続いている。
その先に舟形山城がある。
「杉山」
若い近習が進み出た。
「はい」
「寺より上を見よ」
「敵が残っているかを?」
「それと道だ」
泰以は言った。
「二人連れて行け。見つけても深追いするな。敵の数と、どこを通れるかだけ見て戻れ」
「承知」
杉山は二人を連れ、山道へ消えた。
しばらくして、北の尾根の向こうに煙が上がった。
先ほどの黒い煙とは違う。
まっすぐ上がる、細い煙。
彌太郎が目を細めた。
「多米勢ですな」
泰以が頷いた。
「北を押さえた」
「大将の逃げ道は消えましたな」
「うむ」
泰以は山を見上げた。
「逃げる雑兵は追うな。降る者は縛れ」
槍を取る。
「だが、城にいる者は別だ」
泰満も顔を上げた。
木々の向こうに、城はまだ見えない。
「では」
泰以が言った。
「舟形山を取り返す」
泰満は血のついた槍を握り直した。
初陣は、まだ終わっていなかった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




