↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/47

第九話 舟形山へ|朝比奈泰満、戸田勢と初陣

 泰満の初陣は、山へ向かう戦となった。

 掛川を発った朝比奈勢は、およそ一千五百。

 曳馬の囲みに残す兵がいる。掛川を守る兵も要る。すでに泰能に従って西へ出ている者もいる。

 その中から、すぐに動かせる者をかき集めた。

 少なければ、舟形山を奪い返せない。

 多すぎれば、集めるだけで時を失う。

 泰以は一千五百を選んだ。

 軍勢は西へ進んだ。

 天竜川を渡る。

 一人ならば、川を越えてそのまま進めばよい。

 だが一千五百の軍勢となれば違う。

 槍を持つ兵がいる。馬がいる。兵糧を積んだ荷駄が続く。先頭が対岸を進み始めても、最後尾はまだ川を渡っている。

 泰満は何度も後ろを振り返った。

 軍勢というものが、これほど長く伸びるとは思っていなかった。

「若」

 横を進む彌太郎が言った。

「前も見てくだされ」

「見ております」

「先ほどから三度、後ろを向いております」

「軍がどこまで続いているのかと思って」

「長いのでございます」

 彌太郎は平然と答えた。

「だから面倒なのです」

「また面倒ですか」

「一千五百人が、それぞれ勝手に目的地へ行ってくれれば楽なのですが」

「それでは軍にならぬでしょう」

「若も分かってこられましたな」

 川を越えると、道は台地へ上がった。

 畑の間を抜け、林を抜ける。

 西へ進むにつれ、風の匂いが変わった。

 やがて左手に、水の光が見えた。

 浜名湖だった。

 泰満は思わず顔を向けた。

 湖と聞いていた。

 だが、目の前に広がるものは、掛川で思い描いていた湖とは違った。

 広い。

 水は山の間へ深く入り込み、まるで海がそのまま陸の中へ入り込んでいるように見える。

 その水の向こうにも山々が続いていた。

 さらに西は三河である。

「見すぎるな」

 前を行く泰以が言った。

「はい」

「湖は逃げぬ」

 横で彌太郎が呟いた。

「逃げるのは人でございます」

 泰以は振り返らなかった。

 だが、少しだけ肩が動いた。

 一行は刑部城で足を止めた。

 長い休みではない。

 兵たちは水を飲み、荷駄を下ろす。

 縄を締め直す者。

 草鞋を確かめる者。

 馬の腹帯を直す者。

 泰以は腰を下ろさず、西を見ていた。

 その先に舟形山がある。

「多米家は」

 泰以が尋ねた。

 彌太郎が答える。

「舟形山を落とされた折、一門の者を何人も失っております。手負いも多いとのこと。すぐ大勢を出せる状態ではないかと」

「元興殿は小田原だしな」

「はい」

 泰満が顔を上げた。

「小田原におられるのですか」

 泰以が泰満を見る。

「多米元興殿か」

「はい」

「そうだ」

「では、多米家の当主は、この近くにはおられぬのですね」

「今はな」

 泰以は西へ目を戻した。

「多米家は今川に従っているが、伊勢宗瑞殿にも仕えておる」

「今川にも、伊勢殿にも?」

「境目の家とは、そういうものだ」

 泰満は少し考えた。

 掛川にいれば、今川という大きな家があり、その下に朝比奈がいる。

 話は分かりやすかった。

 だが、西へ来るほどそうではなくなる。

「二人の主人を持つのですか」

「そのように簡単な話でもない」

 泰以は答えた。

「今川に従い、伊勢殿にも縁を持ち、三河にもつながりを持つ。そうして家を残す者もおる」

「では、どちらの味方なのです」

「その問い方をしておるうちは、境目は分からぬ」

 泰満は黙った。

「戦になれば、どちらにつくか決めねばならぬ時は来る。だが、平時から一つの縁だけで生きる家ばかりではない」

 泰以は舟形山の方を見た。

「多米は今回、こちらについた。それで十分だ」

 掛川では見えなかったものが、このあたりにはあるらしい。

「多米へ使いを出せ」

 泰以が言った。

 彌太郎が顔を上げる。

「何と」

「朝比奈が南から戸田勢へ攻めかかったら、舟形山の北を押さえよ」

「初めから塞ぐのではなく?」

「まだ動くなと伝えろ」

 彌太郎が頷いた。

「敵に悟らせぬためでございますな」

「それもある」

 泰以は続けた。

「大将の逃げ道は塞げ。だが雑兵まで囲む必要はない」

 泰満が尋ねた。

「なぜです」

「逃げ道を失った兵は戦う」

「逃げ道があれば」

「逃げる」

 泰以はあっさり答えた。

「百人逃げれば、こちらが百人討たずに済む」

「ですが、多米の者たちは一門を討たれております」

「だから、初めから前へ出さぬ」

 泰以の声が低くなった。

「仇を取ろうとして追い回せば、こちらの戦まで崩れる」

「納得するでしょうか」

「せぬだろうな」

 泰満は泰以を見る。

「それでも命じるのですか」

「納得してもらうために戦をするのではない」

 泰以は言った。

「勝つためだ」

 彌太郎が伝令を呼んだ。

 言葉を何度も確かめさせる。

「朝比奈の攻めが始まるまで待て。北の道を押さえる。ただし、逃げる雑兵を追い回すな。大将と旗を見よ」

「承知」

 伝令が馬に乗り、北へ向かった。

 朝比奈勢も再び動き出した。

 浜名湖を左に見ながら西へ進む。

 次第に山が近くなった。

 道が細くなる。

 普門寺へ通じる道筋に入った頃、物見が戻ってきた。

「申し上げます!」

 泰以が馬を止めた。

「戸田勢、舟形山の南麓に布陣しております」

「数は」

「およそ一千五百」

 泰満の腹の底が重くなった。

 同じ数。

 こちらも一千五百。

 向こうも一千五百。

 しかも戸田は先にこの地へ入り、舟形山城を押さえている。

「布陣は」

「南からの道を塞ぐように兵を並べております。普門寺の方にも兵を入れております」

「城へ上がる道は」

「守りを置いております」

 泰以は少し黙った。

「三つか」

「何がでございます」

 泰満が尋ねる。

「守らねばならぬ場所だ」

 泰以は指を折った。

「こちらを止める正面。普門寺。それに舟形山へ上がる道」

 彌太郎が言った。

「一千五百でも、三つに分ければ薄くなりますな」

「そういうことだ」

 泰以は物見へ尋ねた。

「西は」

「開いております」

「よし」

 泰満には意味が分からなかった。

「西を塞がなくてよいのですか」

「塞ぐな」

 泰以は即答した。

「崩れたら、西へ逃がす」

「城へは」

「なるべく戻すな」

 泰満は舟形山を見た。

「負ければ城へ逃げ込むのでは」

「だから、それをさせぬ」

 泰以は山裾を見渡した。

「一千五百を城へ入れれば、今度は一千五百を山から引きずり下ろさねばならぬ」

 彌太郎が露骨に嫌な顔をした。

「それは御免こうむりたいところにございます」

「わしもだ」

「珍しく意見が合いましたな」

「いつも合っておる」

「初耳にございます」

 泰以は諸将を呼んだ。

 軍勢が止まる。

 林の切れ目から、戸田の旗が見え始めた。

 一本や二本ではない。

 いくつもの旗。

 槍の穂先。

 人の声。

 泰満は無意識に槍を強く握った。

 書状の中にいた「戸田勢」が、初めて人の姿を持った。

「若」

 彌太郎が言う。

「力を抜いてくだされ」

「抜いております」

「指が白くなっております」

 泰満は手を見る。

 本当に白くなっていた。

 慌てて力を緩める。

 泰以は正面に兵を厚く置いた。

 普門寺側にも一隊を出す。

 城道へ近い側にも兵を寄せる。

 だが、まだ全軍を動かさない。

「叔父上」

 泰満が尋ねた。

「城へ上がる道を取るのですか」

「取れればな」

「では、そこへ攻める?」

「まだだ」

 泰以は敵陣を見たまま答えた。

「戸田に動いてもらう」

 やがて戸田勢から鬨の声が上がった。

 朝比奈勢も声を返す。

 泰満の腹の底まで震えた。

 千人を超える人間が一度に声を上げると、それは音ではなかった。

 大きなものが身体へぶつかってくるようだった。

「前へ」

 泰以の命令が出た。

 朝比奈勢が動く。

 泰満も進んだ。

 一歩。

 また一歩。

 前の兵の背を見る。

 槍が揺れる。

 土を踏む音が重なる。

 まだ敵は遠い。

 そう思った時、矢が飛んだ。

「伏せろ!」

 誰かが叫んだ。

 泰満のすぐ前で男が倒れた。

 肩に矢が刺さっている。

 後ろから別の兵が引きずる。

 列は止まらない。

 さらに矢が来る。

 今度は、どこに落ちたのか分からなかった。

 声。

 馬のいななき。

 足音。

 やがて、槍と槍のぶつかる音が重なった。

 前列が戸田勢とぶつかった。

「押せ!」

 声が飛ぶ。

 朝比奈勢が前へ出る。

 だが、戸田勢も退かなかった。

 先に陣を整え、待ち構えていた。

 槍が絡む。

 前へ出た朝比奈兵が押し返される。

 一人が転ぶ。

 後ろの兵がそれにつまずく。

 列が乱れた。

「下がるな!」

 別の声が飛ぶ。

 泰満の目の前を、血のついた槍が横切った。

 思わず身体が止まった。

 敵兵が見えた。

 顔がある。

 怒鳴っている。

 自分と同じ人だった。

 敵兵が槍を突き出す。

 泰満の前にいた兵が受けた。

 槍同士が絡む。

 押し合う。

「若!」

 誰かが叫んだ。

 泰満は槍を出そうとした。

 稽古では何度もやった。

 踏み込む。

 突く。

 ただ、それだけだ。

 だが動かなかった。

 目の前にいるのが、人だったからだ。

 その瞬間、前の兵が肩を斬られた。

「ぐっ!」

 男が崩れる。

 敵兵が一歩入った。

 泰満の身体が勝手に動いた。

 槍を突き出す。

 手応えがあった。

 穂先は胴ではなく、敵の肩口へ当たった。

 男がよろめく。

 横から朝比奈兵の槍が入った。

 敵兵が倒れた。

 泰満は自分の槍を見る。

 血がついていた。

 自分が討ったのか。

 横の兵が討ったのか。

 分からなかった。

「若!」

 今度は、はっきり聞こえた。

 彌太郎だった。

「右へ寄りすぎです!」

 泰満は顔を上げた。

 いつの間にか列から外れかけている。

 彌太郎が馬を寄せた。

「戻ってくだされ!」

「すまぬ」

「謝るのは生きてからにしてください!」

 泰満は列へ戻った。

 息が苦しい。

 口の中が乾いている。

 まだ戦は終わらない。

 正面では、むしろ朝比奈勢が押されていた。

 泰満は初めて思った。

 負けるかもしれない。

 一千五百いる。

 泰以がいる。

 だから勝つ。

 どこかで、そう思っていた。

 だが敵にも一千五百いる。

 敵にも大将がいる。

 敵も勝つつもりで、ここに立っている。

 泰以は後方から戦場を見ていた。

 正面が押されている。

 それでも兵を足さなかった。

「まだですか」

 近くの武者が尋ねる。

「まだだ」

 戸田の正面がさらに前へ出た。

 朝比奈を押し返している。

 勝てると思ったのだろう。

 後方からも兵が正面へ寄り始める。

 泰以が見ていたのは、それだった。

 普門寺側の兵が動く。

 城道を守っていた者も前へ出る。

 三つに分かれていた戸田勢が、勝ちを急いで動き始めた。

「今だ」

 泰以が言った。

 伝令が走る。

 普門寺側へ向けていた朝比奈勢が、突然向きを変えた。

 寺へは行かない。

 戸田の正面と城道を守る兵の間へ向かう。

 同時に別の一隊が城道の下へ走った。

 泰満には、最初何が起きたのか分からなかった。

 ただ、戸田勢の声が変わった。

「右!」

「戻れ!」

「城道を押さえろ!」

 命令が重なる。

 旗が動く。

 それまで一つに見えていた敵陣が、二つに割れた。

「押せ!」

 今度は朝比奈方から声が上がった。

 正面の兵が前へ出る。

 泰満も押した。

 先ほどまで重かった敵の列が、少しずつ後ろへ動く。

 一歩。

 二歩。

 戸田勢の一部が舟形山へ退こうとした。

 だが城道の下には朝比奈勢が食い込んでいる。

 全員は戻れない。

 その一方、西は開いていた。

 最初に一人が走った。

 続いて二人。

 五人。

 十人。

 戸田勢の西側が崩れた。

「西へ!」

「退け!」

 声が広がった。

 朝比奈兵が追おうとする。

「追うな!」

 泰以の命令が飛んだ。

「西は空けろ! 城へ戻すな!」

 朝比奈勢は、逃げる兵を深追いしなかった。

 代わりに山へ寄ろうとする者を押す。

 西へ。

 城から離す。

 戸田の旗の一部は、それでも城道へ向かった。

 大将に近い兵なのだろう。

 旗を守りながら、強引に山へ入ろうとする。

 そこだけは激しい戦いが続いた。

 だが、すでに戸田勢の多くは西へ崩れ始めていた。

 泰満には、どれほど戦ったのか分からなかった。

 一刻にも思えた。

 ほんのわずかな間だったようにも思えた。

 気づいた時には、南麓を埋めていた戸田の列は消えていた。

 西へ逃げる者。

 山へ散る者。

 城道へ逃げ込んだ者。

 地面に倒れている者。

 泰満は荒い息をついた。

 槍を持つ手が震えている。

「終わったのですか」

 誰にともなく言った。

 彌太郎が近づいてきた。

「野の戦は、でございます」

「勝った?」

「そのようですな」

 泰満は戦場を見た。

 勝った。

 だが、思っていた勝利とは違う。

 誰かが呻いている。

 味方の負傷者が運ばれている。

 敵も倒れている。

 血のついた槍を持ったまま、立ち尽くしている者もいた。

 泰以のもとへ伝令が集まる。

「敵勢、西へ崩れております!」

「追うな。物見だけ出せ」

「城へ入った兵もおります」

「数は」

「まだ分かりませぬ。旗が二、三本」

「よい」

 泰以は舟形山を見上げた。

「一千五百を城へ入れずに済んだ。それで十分だ」

 泰満が近づいた。

「西へ逃がした意味が分かりました」

「そうか」

「城へ入られれば、また同じ数と山で戦わねばならない」

「そういうことだ」

「ですが、大将は城へ入ったかもしれません」

「かもしれぬ」

 泰以は北の山筋を見た。

「だから多米がいる」

「狼煙を上げよ」

 白い煙が上がった。

 北で待っている多米勢への合図だった。

 朝比奈が戸田勢を破った。

 今こそ北の道を押さえよ。

 その時だった。

 別の兵が駆け込んできた。

「申し上げます!」

「何だ」

「普門寺に戸田勢が入り込んでおります!」

 泰以の顔が変わった。

「数は」

「三十ほど!」

「寺の者は」

「逃げ切れておりませぬ!」

 兵は息を整えた。

「火を持った者もおります!」

 泰以は山を見た。

 その目が鋭くなる。

「寺を焼かせるな」





### 史料・創作メモ


本作では、史料で確認できる事実、後世の記録・地域伝承、作者の考察、物語上の創作を組み合わせて描いています。


**史料・伝承から**


永正十四年(一五一七)、三河との国境に近い舟形山城が戸田方によって攻め落とされたとされています。


舟形山城は、今川氏の遠江西端に位置する国境の山城でした。この城を失うことは、単に一つの城を奪われるだけでなく、三河方面から遠江へ入る道や、今川方の西部防衛にも関わる問題だったと考えられます。


そして宗長関係の史料からは、**朝比奈泰以が舟形山城を奪還したこと**が確認できます。


同じ時期、今川氏は曳馬城をめぐって大河内氏・斯波氏とも戦っており、西遠江では複数の軍事行動が続いていました。


**本作での考察**


本作では、今川方の兵力が曳馬城攻略へ向けられている状況を、戸田氏が利用して舟形山城を攻撃したものとして描いています。


また、斯波勢が曳馬まで進出したことと舟形山城への攻撃を別々の出来事とはせず、戸田氏が今川方から離れて積極的に動き始める一連の流れとして構成しています。


泰以が曳馬攻めの途中から戸田の動きを警戒しているのも、この状況から組み立てたものです。


**創作部分**


戸田勢を約千五百、舟形山城奪還に向かう掛川朝比奈勢を約千五百とした兵数は、小説上の設定です。


泰以が曳馬から一時掛川へ戻っていたこと、舟形山落城の伝令が掛川へ届く場面、氏親から奪還命令が届くまでの経過、泰能が曳馬方面を担当し、泰以が掛川勢を率いて舟形山へ向かうという具体的な軍勢配置も創作しています。


また、**泰満が舟形山城奪還戦を初陣とする設定**も、本作独自のものです。


朝比奈泰以が舟形山城を奪還したことは史料から確認できますが、戦いに参加した兵数や詳細な作戦、城をどのように攻めたのかまでは分かりません。


次話以降で描く舟形山城奪還戦の具体的な戦闘は、史料に残る「泰以による奪還」という結果をもとに構成した物語上の創作です。


今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。