第3話 青嵐の山里と、変わらぬ温もり
「ほれ見ぃ、婆ちゃんが経口補水液をそんなに飲むなんて、身体が乾いとったんだわ。今日からは俺が毎日チェックするでね」
空のペットボトルを手に取りながら言う俺に、祖母は苦笑いを浮かべた。
「大袈裟だわ。お茶も水もしっかり飲んどるで大丈夫だと言っとるのに……。でも、義春が帰ってきてくれて本当に嬉しいわ」
その穏やかな笑顔を見るだけで、阿由知のブラック企業ですり減らしてきた神経が、ゆっくりとほぐれていくのを感じる。
ひとしきり話が終わると、俺は軽四駆のバックドアを開け、引っ越しの荷物を降ろし始めた。
冷蔵庫と電子レンジは嵩張る上に消費電力が大きいため、炊飯器は薪焚きが基本の実家では不要なため、先週のうちに麓のリサイクルショップに引き取ってもらっている。
布団と服が入ったバッグが3つ。小物家電を詰めたダンボールが1箱。退職金の不足分としてもらった樹脂の溶接機と一式と、知り合いの業者からもらった樹脂の端材。軽四駆のリアシートを倒したスペースをぎっしりと占有してきた荷物は、それだけだった。
十年間の一人暮らしの荷物としては少ないのかもしれないが、これ以上生きる上で必要なものなどなかったのだ。
全ての荷物を居間に運び入れ、ふっと息をつくと、ばあちゃんが湯呑みを差し出してきた。
「お疲れさま。まぁ、お茶でも飲みやぁ」
ありがたく座卓の前に座り、喉を潤す。ひんやりとしてお茶は祖母のお手製で香りが心地よい。
雑談をしながら、ひと心地ついていると、ばあちゃんがふと思い出したように言った。
「あれ、もうそろそろお昼の時間かねぇ。それじゃぁ、冷やし素麺でも茹でようかねぇ。菜園で採れたキュウリとミョウガもあるでね」
骨ばった膝に手を当て、よいしょ、と立ち上がろうとする祖母の背中を、俺は慌ててやさしく支えた。
「俺が作るで、ばあちゃんは座っとりゃあ」
「何言っとるの。自分ひとりのご飯を作るのと、孫のご飯作るのとじゃ訳が違うんだで。孫に飯を食わせるのは、年寄りの一番の楽しみなんだでね」
困り顔で微笑む祖母の細い手首を見て、俺は小さく苦笑した。
「……じゃあ、一緒に作ろう。俺が湯を沸かして出汁の準備をするで、ばあちゃんは薬味の準備をしてくれん?」
「はいはい、そうしようかねぇ。昔、義春がちっちゃい頃も、椅子の上に立ってお手伝いしてくれたっけねぇ」
古びた台所に並んで立つと、包丁がトントンと心地よいリズムでまな板を叩く音が響き渡る。
夏の盛りの青い風が、空気取りに開けた窓の、網戸越しに裏山の濃い木々の匂いを運んできた。
「……会社、辞めてきたんだわ」
手際よく出汁をとった鍋を見つめながら、俺はボソボソと呟くように切り出した。
そして新社長のこと、真相に気付いた先輩社員たちの顛末のこと。俺が静かに話し終わるまで、ばあちゃんは包丁を止めて、ただ黙って頷いていた。
「そうかね。……先代さんのお話を聞いた時は、ええ会社に入れたと安心しとったんだがねぇ。二代目は難しいでね。本当の意味での苦労を知らんで、『人は宝』っちゅう言葉の重みが分からんのが、不憫だて」
祖母は誰かを激しく責めるわけでもなく、刻んだミョウガを皿に移しながら、ただ深くため息をついた。
「最近、忙しくてあんまり顔を出せんくてごめんね」
「何を言っとるの。病院にも付き添ってもらったし、忙しくない時は月に二回も帰ってきて草刈りやら薪割りやら手伝ってくれて。こんな孝行孫に文句言ったらバチが当たるわ」
「これからはずっとこの山におるでね。麓の町で作業の手伝いの仕事でも探しつつ、うちの畑も、もうちょっと広げようと思っとるんだわ」
「そうかねぇ……。まぁ無理せんでもええでね。わしは義春がいてくれるだけで、十分だで」
社会の荒波に揉まれ、理不尽な暴言に晒され続けていた心が、祖母の温かい一言で、まるで春の雪解けのようにじんわりと溶けていくのを感じた。
◇◆
準備が整い、二人で囲炉裏の前に座って昼食をとる。
夏の盛りのこの時期は、さすがに囲炉裏に炭は入っていないが、ここで向かい合って食事をとるのが我が家の昔からの決まり事だった。
「今年のキュウリは初物が上手いことできたでね。暑さは厳しいけれど、この辺りの標高だとかえってキュウリには都合がええのかもしれんね」
「ナスのほうは、葉っぱを虫に食われて少し苦労したんだわ」
「ズッキーニも試してみたけど、ありゃあ天ぷら以外にも味噌汁に入れても美味いねぇ」
「冬に備えて、玉ねぎとジャガイモの準備もそろそろしとかんと、いかんわ」
他愛もない祖母の野菜の話を聞きながら、よく冷えた素麺を啜る。
休日を利用して年に何度も帰省していたとはいえ、この変わり映えのしない穏やかな時間こそが、俺にとっての何よりの宝物だった。
(この時間が、ずっと続けばいいのに――)
そう強く願う一方で、胸の奥にはずっしりと重い塊が居座り続けていた。
医療が崩壊したこの世界で、祖母に忍び寄る「老衰」という抗えない現実の足音が、確実に近くまで聞こえてきていたからだ。
◇◆
昼食後、祖母が食器の片付けをしている間に、俺は外に出て薪割りに取りかかった。
薪の材料となる間伐材は、年に数回、軽トラで近所の製材所から分けてもらったり、祖母の持ち山に入って俺自身が倒した樹木を適当な大きさに切って乾燥させてある。
積み上げられた丸太の山を眺めながら、(これからは俺も定住するんだから、冬が来る前にもう少し量を増やしておかないとな)と思考を巡らせた。
ちなみに我が家では、ネット番組で見かけるような『斧で豪快に薪割り』なんて時代錯誤な力仕事は一切やらない。
文明の残滓――電気の力を借りた『100V電動薪割り機』で手際よく割り進めるのが我が家の流儀だ。
100Vのポータブル機であっても、直径30センチほどの丸太なら油圧の力で難なく真っ二つにできる。俺が社会人になってすぐに貯金を叩いて買ったものだが、昔の苦労が嘘のように作業が捗る優れものだった。
風呂も調理も薪で賄うこの家では、薪割りは文字通り命を繋ぐ生命線だ。
だが、そこにもう一つ大きな問題があった。『風呂の湯沸かし』だ。
うちには薪と灯油の兼用の風呂釜がある。灯油を使えばボタン一つで自動で沸かせるし、灯油ならポリタンクで俺が町から買って持ち込んでいるのだから遠慮なく使ってほしいと言っているのだが、祖母は頑なに灯油を使いたがらないのだ。
『灯油で風呂を沸かすなんて贅沢だがね。うちに薪がいっぱいあるんだから、薪で沸かすのが一番だわ。それに、薪のお湯のほうが体の芯まで温まる気がするでねぇ』
灯油で湯を沸かしたところで一回百円程度のものだ。高齢の祖母の身体の負担や安全性を考えれば安いものなのだが、ヘタに灯油を使えと言うと『そんな贅沢するなら、もう風呂には入らん』と言い出しかねない頑固さが祖母にはある。
数年前、思い切って自家発電全自動の電気温水器をプレゼントしようとした時なんて、人生で一番怒られたほどだ。
『そんな贅沢品を孫に買ってもらうなんて出来んわ! どうしても必要になったら自分で頼むで、そのお金は自分のために貯金しておきゃあ!』
それ以来、風呂の改修話は綺麗に封印している。まあ、俺がこうして実家に戻って同居するのだから、当分の間は俺が汗を流して薪で風呂を沸かせば済む話だった。
◇◆
我が家は山奥のポツンと一軒家だが、ガスや水道がない反面、電気と通信ラインだけは完璧に整備されている。
二十年ほど前、祖母の所有する山林の一部に国策のエネルギー確保の為、新世代超効率ソーラーパネルと、円柱回転式垂直軸型風力発電機のハイブリッド施設が建設された。その借地料と、高圧電線用の鉄塔設置料として、我が家にはまとまった現金が入るようになった。
当時の最上田家にとってその収入は大変な大助かりだったが、それ以上に山の生活を劇変させたのは、麓の変電所から送られる電気と電話線が山奥まで引き込まれたことだった。
もっとも、機械仕事に疎かった母親や祖母は、その恩恵を十分に活用し切れていなかったのだが。
(本当にもったいないよな。昔から電気をフル活用できていれば、俺の学生生活もだいぶ変わってただろうに……。まあ、そのおかげで無駄な都会の誘惑もなく、ばあちゃんとの良好な関係が続いたとも言えるか)
今では電柱を伝って高速回線まで引かれている。この国では大都市圏以外はアフリカや南米の奥地でも利用されている通信方式を採用している。
先ずは衛星通信基地局を作り、そこから各家庭まで有線や無線でデータ通信を行うのが基本だが、二人が住むようなポツンと一軒家に有線を引くのは本来設備費用がかさむため、通信速度が遅く、費用が嵩むとしても低軌道衛星を使った通信がメインだったが、地権者優遇で電柱を介して阿由知市内の通信と遜色ない高軌道衛星の複数同時通信が使えるようになり。山での生活は一変した。
義春が社会人になり、アパートを出て最初に行ったのは、その高軌道衛星の複数同時通信を使って、この山奥の実家を『スマートハウス化』することだった。
ネットのセールを毎日チェックし、必要なガジェットが安くなった順番に買い揃えていったのだ。
超高速回線を契約して、N10G対応のWi-Fiを飛ばし、屋内の要所には見守りカメラを設置した。祖母に嫌がられるかと思ったが、「あんたしか見んのなら、私は別に構わんよ」とすんなり承諾してくれた。
屋外にもソーラーパネル充電式の防犯カメラを複数台設置。配線不要でWi-Fi接続され、スマホからリアルタイムで監視できる。人や動物が近づくと自動で人感センサーライトが点灯する仕組みだ。
昨今は消滅集落の影響もありクマの出没はニュースにもならないほど日常化した。そのため祖母が住む敷地周りに異常がないか確認する目的だったが、一番最初に役立ったのは『猛暑の中で黙々と農作業をし続ける祖母の監視』だった。
スマホを「邪魔くさい」と言って畑に持っていかない祖母に対し、防犯カメラの双方向通話機能を使って「ばあちゃん! 暑いでお茶飲んで休んで!!」とスピーカーから大音量で声をかけたのだ。最初は腰を抜かすほど驚いていた祖母だが、おかげで軽い脱水症状を未然に防ぐことができた。
その後、スマホと連動させた自動散水機を導入し、水やりも自動化。さらに害獣対策として、センサーと連動してハクビシンや鹿に自動で水を噴射する散水装置やストロボライトも設置した。その効果は覿面だった。
(本当は高圧電気柵を設置したいところだが、ばあちゃんがうっかり触ったら大変だからな……。春先にセンサー散水機にばあちゃんが引っかかって水浸しになった時は笑い話で済んだが、電気柵じゃ笑えんがね)
その他にも、使用状況が俺のスマホに通知される『見守り機能付き電気ポット』や、スマホからリモート操作できる『スマートエアコン』、そして二台の『ロボット掃除機』も導入した。
体力が落ちて毎日の掃除が辛くなっていた祖母は、このロボット掃除機を大いに気に入り、「そうじ」と「ルン」と名前をつけてペットのように可愛がっている。充電ドックには祖母の手編みの毛糸の名札が飾られているほどだ。
こうして順次スマートハウス化が進むにつれ、課題となったのが『停電対策』だった。
設備が近代化したとはいえ、衰退の一途をたどっているこの国ではインフラのメンテナンスは後回しになりがちだ。
台風や大雪による断線で電気が途絶すると我が実家は一気に機能不全に陥るため、俺は敷地の湧き水を利用した『マイクロ水力発電機』、山風を利用した『小型スパイラル型風力発電機』、そして『超効率シート型ソーラーパネル』と圧縮式全固体電池を使った蓄電装置を設置してある。
……ただ、帰省毎に山のように俺が持って帰ってくるデジタル家電の段ボール箱の量に危機感を覚えた祖母から、ある日『ばあちゃん監査』が入った。それにより俺の貯金額がほぼ底をついていることを知った祖母からは、こっぴどく叱られたものだ。
『今後は家電を買う時は、絶対にばあちゃんに相談すること!』
『買う家電の半額はばあちゃんが出すでね!』
これには参った。自分のガジェット趣味で変電所の賃料があるとはいえ、定期収入の少ない婆ちゃんの生活を圧迫するわけにはいかない。スマート家電の管理用に実家に置いてあったパソコンには、祖母もいつでも閲覧できる共有アカウントを設定させられ、俺の自由気ままなネットショッピング生活は終わりを告げた。
……まあ、そのおかげで祖母自身がタブレット操作を覚え、新しい農業技術や欲しい農具や種を自分で検索・注文できるようになったのは、怪我の功名と言うべきだろうか。
ちなみに郵便物を各家庭までは届かない。その地域にある郵便局もしくは宅配 基地局まで個人で取りに行くのが基本だ。
それからは扇風機の廃棄品から羽根やモーターを調達、洗濯機の廃棄品からドラムを調達するなどして自給発電量の増加に励んだ。そのおかげで俺の電気設備の知識は格段に向上したのだから、これも怪我の功名と言えるかもしれない。
◇◆
薪割りを終えて母屋に戻ると、祖母は居間の長座布団の上で静かに昼寝をしていた。
祖母はここ数年、急激に体力が落ち、昼寝の回数と時間が飛躍的に増えていた。
冬の早朝など、身体が冷え切って起き上がれないこともあった。何時になっても部屋から出てこない祖母を心配して仕事をそっちのけでスマホに見入って、「彼女でも出来たか?」と梶谷さんに異性相手なら一発アウトの質問をされた事もある。
暖かくなってからも、昔のように朝早くから農作業に出ることはできなくなり、就寝時間は一層早くなっている。
「義春の設置してくれた散水機のおかげで、すっかり楽するのを覚えてまったでいかんわ」
祖母は昔のように起きられなくなった理由をそう言って笑うが、自身の身体の変調には誰よりも気づいているはずだ。
筋力の低下、食欲の減退、顔色の青白さ、そして手足のむくみ――。
麓の小さな診療所の主治医の勧めで、阿由知市内の病院で精密検査を受けたが、特異な病名がついたわけではなかった。ただ、老いた医師の淡々とした説明だけが耳に残っている。
『特定疾患ではありません。加齢に伴う臓器機能の低下と、全体的な体力の減少……その段階に入っていますね』
『老衰』。事務的に見えた医師が飲み込んだその二文字を思い浮かべるだけで、胸が締め付けられるように痛む。
とにかく、祖母に残された時間を出来るだけ近くに寄り添っていたい。そう思い詰めていたタイミングで、あの無能な二代目社長の暴走が会社を辞めるきっかけとなったのだから、俺にとっては不幸中の幸いだった。
すやすやと寝息を立てる祖母を起こさないよう、足音を忍ばせてそっと外へ出る。
日が沈む前に、山奥の水道(裏山の湧き水を自作のろ過装置に通している)の取水口に枯れ葉や枝が詰まっていないか確認しに行くためだ。これを怠ると、我が家の生命線である水が突然止まってしまう。
ついでに沢の近くで夕食用のアザミやヨモギの野草を摘み、敷地周りの森に入って間伐が必要な立ち木や危険な倒木がないかを点検する。クマの爪痕や真新しい糞がないかも慎重に見て回る。
手には、ネットで購入した金属製の『金剛杖』をしっかりと握りしめている。
昔存在したというお遍路さんが使う木製の六角杖と同じ形をしているが、中身が詰まった金属製でズッシリと重く、極めて頑丈で実は護身用の『鍛錬棒』だと後で知った。
森を歩く時に地面を突いて乾いた音を響かせ、熊除けと護身用を兼ねて愛用している。ゴツン、ゴツンと杖の音を響かせながら、俺はこれからの生活に思いを馳せる。
(日銭を稼ぐ手段としては、麓の高齢化した集落で農作業の手伝いや便利屋まがいの仕事を請け負えば、当面の生活費は何とかなるはずだ。冬場になって外仕事が減ったら、家にこもって樹脂加工をやろう)
前職の仕事で知り合った樹脂業者から、「廃棄するのにも金がかかるから」と譲り受けた樹脂の端材を今回持って帰ってきた。ネットで購入した中古の樹脂溶接機もある。これまでも練習がてら作った樹脂製の棚や小物入れやコレクションケースをネットオークションに出品し、いくつか売れた実績があった。これらをコツコツ作って販売すれば、十分な副収入になるはずだ。
◇◆
夕方、家に戻ると、すでに起きていた祖母が縁側で夕方の洗濯物を取り込んでいた。
「水場の確認かね?」
「うん。ついでに森も見てきたよ。すぐ近くに二本ほど間引かないかん木があるね。あんな感じの生え方なら台風の後でも大丈夫そうだから、秋口に切るわ」
「ご苦労さん。そうかねぇ。わしはもう何年も森に入っとらんでねぇ……。それにしても義春、こんな季節に森に入ってダニに喰われんかったかね?」
「大丈夫。このメッシュパンツ、優れものだでね。涼しいし動きやすい。ばあちゃんにも一着買ったろうか?」
「ほんとうかね? いっぺん義春のを借りて調子が良かったら、自分で買うがね。それもインターネットで買ったんかね?」
「そうだよ」
「そうかね。本当にインターネットは便利だねぇ。アマノさんは何でも売らっせるなぁ」
「ははは! ばあちゃん、そのサイトは『アマノ』じゃないでね、『ア◯ゾン』だでね」
そう言うと俺は、山で摘んできた野草をばあちゃんに手渡した。
夕闇が静かに山を包み込んでいく中、最上田家の穏やかな一日は、こうしてゆっくりと暮れていった。




