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第2話 ポツンと一軒家と細い手首

 地域の自治組織――自治会と周辺の住民たちが人海戦術でメンテナンスを続けている旧アスファルトのリサイクル材を使用した旧国道も、市街地を抜けて1時間も走れば無惨な姿を晒し出す。ひび割れた隙間から力強く根を張る雑草、崩れ落ちた路肩。片側一車線だった道幅はすっかり狭まり、両脇から迫る茂みがPHEVの軽四駆の車体をキリキリと掠めていた。 


 200年以上前の近代国家創生期、当時と今を比べれば人口はほぼ一緒、GDPの国際ランクもほぼ一緒、にも関わらず社会を取り巻く雰囲気は全く別のものだ。

過酷な状況にあっても未来への覇気に満ちていたという地方の姿は、今や遠いおとぎ話の世界だ。現在の地方に漂うのは、古き良き豊かな時代を知るがゆえの深い諦念だけだった。


 50年前。大企業による利益の搾取や収入格差の拡大により、この国の基幹産業であった自動車を保有する人間は減少の一途をたどった。

 そして今現在。国民だけではなく国家が衰退し、社会インフラが破却される中、地方での車の需要は格段に伸びるという皮肉な結果が生まれていた。

俺の住むこの『阿由知』の境界領域では、足となる車がなければ文字通り命に関わる。

 

 主要な送電網すら2大都市圏を残して閉鎖され、地方都市の中心部や工業都市のみに電気が供給される世界だ。公共交通機関など疾うの昔に消滅している。

 山深い実家へ頻繁に向かう俺にとって、旧時代世界トップクラスの悪路走破性を誇った、四十年落ちの古びたPHEVの軽四駆は、命の次に大切な相棒だった。

 リアシートを倒した狭い車内には、引っ越しの荷物がぎっしりと詰め込まれている。十年間一人暮らしをした男の荷物としては異例の少なさだが、そもそも今の時代、地方の人間が持てる物品など物資不足や人手不足で限られている。


 会社から退職金の不足分として樹脂の溶接工具一式をもらい受けた。どうせもう使う人間がおらずゴミ同然となるその道具で少しでも退職金を浮かせられるならと、社長(あいつ)はあっさりそれを了承したのだった。


◇◆


 実家への帰途は毎度の悪路には閉口するものの、おおむね順調だった。

ただ助手席のシートの上で、スマートフォンが今朝から途切れなく明滅している事に気分が萎えた。

 地方では自家発電のバッテリーを削ってスマホを充電しなければならないというのに、この無駄な明滅はバッテリーの貴重な残量をジワジワと削っていく。マナーモードにしてあってもバイブ音が無機質にシートを叩くのが鬱陶しかった。電源を切りたいところだが、会社の同僚からの連絡や祖母からの連絡、GA(国営農作物買取機関)からの重要通知が入るかもしれないと思うと切るに切られない。指定の番号だけを通知音が鳴る設定にするのが精々だった。


「……しつこいなぁ、本当に」


 平日の早朝から切れ目なく電話をかけてくる非常識な人間など、俺には一人しか思い当たる節がなかった。見切りをつけて辞めてきた会社の社長だ。

着信拒否にしたところで同僚の端末や見知らぬ番号でかけてくるのは目に見えているので放置しているが、辞めた人間の退職届をゴミのように扱い、下劣な暴言を吐いた男が今更何の用なのか。


 ベテランの梶谷さんが去り、樹脂加工を一手に見続けていた俺まで抜けたことで、ラインの納期管理と製品精度が完全に破綻したのだろう。そんなことは分かりきっていたことだ。自業自得としか言いようがない。


「このスマホもバッテリーがだいぶ弱っているし……GAの購買所で中古の通信端末を探すついでに、電話番号も切り替えるか」


ハンドルを握り直し、ひとりごちる。

 人付き合いが極端に希薄な俺にとって、番号変更を知らせる相手など数人の知人と関係者くらいだ。几帳面な性格のおかげで、各種手続きやネットの登録情報は手帳と手元ファイルにすべて整理してある。


『綺麗で丁寧な仕事をしろ。それが一番手っ取り早くて、楽なんだよ。……まあ、儲かるかどうかは俺にもわからんがな! ガハハハ!』


不意に、尊敬してやまなかった先代社長の豪快な笑顔と声が脳裏をよぎり、胸の奥がチリッと痛んだ。


 国道から県道に入りしばらく進み、脇道へ逸れると、路面はいよいよ舗装すら途切れ、荒い砂利道へと変わった。30年ほど前から、地方住民が勝手に架け直すことが合法化され、架け直されたという小さな手作りの木製橋を慎重に渡る。車体が大きく揺れ、サスペンションが悲鳴を上げた。

 ここからは、俺の父や祖父、曽祖父が人海戦術で切り開いてきた私道だ。かつては徒歩で二時間かけて登った通い慣れた通学路でもある。


「……ホント、自分の運転で車で行けるようになって便利になったもんだな」


 衰退国家とはいえ世間一般の文明的な感覚から言えばどれほど時代遅れか分かっているが、幼い頃に舗装もされていないぬかるみを歩いた記憶がある俺には、心からそう思えた。頭上を覆う鬱蒼とした木々が日差しを遮り、苔むした路面で時折タイヤが空転する。

 薄暗い緑のトンネルのような山道をさらに登ると、前方が突然パッと開けた。砕石が敷き詰められた敷地へ車を進めると、見慣れた一台の軽トラックが停まっているのが目に入った。

その奥に、大きな屋根が特徴的な古い日本家屋が佇んでいる。

かつての茅葺き屋根にガルバリウム鋼板をかぶせた「カバー工法」の被せ屋根だ。

断熱性に優れ、インフラが死んでいるこの地方でも寒暖差に耐えられる貴重な住居スタイルだった。窓はすべて2重サッシにしてある。夏は標高300mあるこの辺りでさえ最高気温は40度を超えるため、強烈な暑さ対策として外窓にアルミ、内窓に樹脂を用いた2重サッシが不可欠なのだ。冬はいくら寒いとはいえ薪と炭による暖房でなんとか乗り越えられている。


 軽トラの停まっている位置を見て、俺はホッと胸を撫で下ろした。玄関前の駐車スペースを空けるため、あえて少し離れた場所に停めてくれたのだろう。

建物の目の前に車を停めてエンジンを切ると、静寂が辺りを包み込んだ。

 愛車からオートロックの音とアンサーバック音を聞くのと同時に、アルミ製の真新しい引き戸を開けて家の中へ入っていく。  

 文明から見捨てられたこのエリアに、インターホンなんて気の利いた代物はない。

そして、婆ちゃんは鍵をかけない。困ったものだ。 


「婆ちゃん! ただいまぁ! どこにおるのぉ!?」


 大声をあげながら、土間でスニーカーを脱ぎ、式台に足をかける。夏の盛りだというのに、ひんやりとした土間の空気は長時間の運転で蒸れた足に心地よかった。

式台から家に上がり、広縁の板の間を横切って襖に手をかける。


「婆ちゃん! ただいま! どこにおるの?」


 襖を開けた先の囲炉裏部屋には、人の気配がなかった。首をかしげ、もう一度声を張ろうとした瞬間、奥の部屋からかすかな声が届いた。


「……義春か。こっちじゃ、こっち」


 声の聞こえた奥の和室へ向かい、襖をすっと滑らせる。薄暗かった室内へ、眩しい夏の太陽光が差し込んできた。

南向きの縁側に面したその部屋で、高座椅子にちょこんと腰掛けた小さな背中が見えた。

俺の祖母――最上田(もがみだ)くにだ。


 この時代、大都市圏以外の地方住民にはろくな医療機関も公的サービスもない。「国家基盤維持法」によって見捨てられた俺たち地方の人間は、怪我や病気になってもまともな病院にかかることすら難しく、多くの老人が自家発電の電気設備と井戸水に頼りながら静かに寿命を迎えていく。

 この頃になると政府も、深刻化する社会保障費の削減策として「安楽死」の適用に柔軟な対応を取るようになっており、伸び続けてきたこの国の平均寿命も一気に減退していた。


 日当たりの良いこの部屋は夏の熱気がこもりやすい。我が家は低山の中腹にありながらも送電線から電気を引くことができる恵まれた環境にあるものの、電気代は高騰し続けているので節電が基本だ。

そこで自家発電の太陽光パネルと小水力発電のタービン、スパイラル型風力発電機を圧縮式全固体電池を使った蓄電装置に繋げてやりくりし、数年前に俺自身が手配して設置した高効率エアコン――水冷装置を組み込んで冷却効率を上げた特殊な機種を稼働できるようにした――だが今は窓が大きく開け放たれ、アルミサッシの網戸越しに熱風が入ってきていた。


「婆ちゃん! 熱中症になるとダメだで、エアコンをかけないかんて、いっつも言っとるでしょう!」


 俺は慌てて部屋に入り、外窓のアルミサッシと内窓の樹脂サッシを閉めて強烈な熱波を完全に遮断すると、急いで居間の襖を開けて朝までエアコンが生み出していた冷気を取り込み、さらに寝室の襖も開けて柱にかかった壁掛けリモコンに手を伸ばした。高効率エアコンの特徴である初動の低いブーンという音と、冷却水を循環させる水冷装置が低く唸る音が聞こえる。


 俺の慌てように祖母は細い目の目尻にシワを寄せて、穏やかに笑った。


「あぁ……わかっとるよ。屋内で生活する時は寝室のエアコンをかけとるし、眠る時は居間のエアコンをかけとる。直接風を浴びんように互い違いにエアコンは掛けとったんだけどね。今朝、目が覚めたら寒くてかなわんで、この部屋であったまっとったんだわ」


「あったまってたって……! 熱中症になってたらどうするの! ちょっと待っとって、すぐ経口補水液持ってきてあげるでね!」 


「大丈夫だで、慌てんときゃあ。お茶も水も、いっぱい飲んどるでねぇ」


そう言って、自作の浄水設備をくぐらせた湧き水が入った湯呑みを指さす祖母。

 その細く、血管の浮き出た手首を見て、俺の胸はギュッと雑巾を絞られるように締め付けられた。

日焼けしてシミの浮いた、骨と皮ばかりになったその手。


――老衰。


 先月、準都市圏の端にあるちゃんとした病院――地域医療支援病院で、高齢の医師から告げられた言葉が脳裏をよぎる。国家による医療保障が撤廃されたこの時代、病気ではなく「命の電池が静かに切れていく」老人に対して、提供できる特効薬など存在しなかった。


 外で鳴り響くアブラゼミの蝉時雨が、やけに遠く、儚く聞こえた。


「……とにかく、無茶しちゃかんよ。俺、今日からずっとここに居るでね」


 俺は祖母の隣にしゃがみ込み、その小さくなった肩にそっと手を置いた。

 工場を辞めたことに後悔はなかった。この崩壊していく国で、この心温かな人を守ること以上に優先すべきことなど、俺には何もなかったからだ。

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