第1話退職
油と金属が混ざり合った独特の匂いが、夏の体育館のように重苦しい熱気と湿気をはらんで工場内に立ち込めている。
使い古されたフライス盤の低い駆動音が響く中、俺――最上田 義春はノギスを握り直し、削り出した部品の寸法をじっと見つめた。油で黒ずんだ手首で汗を拭い、指先で雑巾を取り、鉄粉と油をさっと拭い去る。
地方の町工場に勤めて今年で十年。高卒で入社してから、さして特徴も特技もないまま愚直に鉄を削り続けてきた。
「……よし、寸法はピッタリだな」
ぽつりと呟いた自分の声は、機械音にかき消されて誰の耳にも届かない。
ここは「阿由知」経済圏の端、準都市圏と『地方』の境界に位置する小さな工業地帯だ。この町工場に長く勤めているが、かつてこの国が『モノづくり大国』などとおとぎ話のような栄華を誇っていた頃の面影は、今や見る影もない。
義春の仕事は労働時間が長く『きつい、汚い、危険』のいわゆる3K職場だったが、今のこの国の現状で言えば恵まれている方だろう。
90年も前からの少子化を放置し、超高齢化社会を迷走し、ついには60年前から始まった人口の激減。未来を見通せない老政治家たちが国を加速度的に崩壊させ、地方の大都市はことごとく消滅していった。
今やこの国に残るのは、特権階級と富裕層がのさばる『帝都』と、西部経済圏の中心『天都』の二大極点都市のみだ。
俺たち地方の人間は「国家基盤維持法」という名のもと、行政権も自衛権も丸投げにされ、事実上の「人間の盾」としてこの崩壊した地方に押し込められている。医療も満足な教育もなく、準都市圏へ続く主要道路にはゲートが設けられ、その周りは、高い壁とカーボンネットに覆われている。壁とネットの隙間を縫うように街へ侵入しようとしてもAI監視カメラに追跡されて、捕捉されるだけだ。見えない壁で世界は塞がれているのだ。
高校を卒業した同級生の多くは、高い入街税や新社会保障法の壁に阻まれながらも、何とか準都市住民から大都市圏の住民になろうと足掻いて去っていった。
だが、俺にはこの見捨てられた地方都市を離れられない「たった一つの理由」があった。
「……義春、手元、狂ってねぇか?」
作業台の陰から、隣のラインに立つベテラン職人の梶谷さんが顔を出した。額の汗を作業服の袖で拭いながら、手元の紙タバコの箱を弄っている。
「大丈夫ですよ、梶谷さん。……それにしても、今日も暑いですね」
「ああ。自家発電の太陽光パネルも劣化してて、スポットクーラーの電圧が全然足りねぇんだよ。……そういや義春、また社長から通達が出たぞ。『休日はゴルフ(お付き合い)に出かけて立ち会えないから、現場の出勤は可能なら控えるように』だってよ」
「こんなに納期が押してるのに、出勤を控えろって言われても困りますよね……」
「だろ? 『休日に仕事をさせて悪いな』なんて口では言うが、自分は『ゴルフも仕事のうち』とか言って一度も工場に顔を出しやがらねぇ。先代は休日出勤の度に、GA(国営農作物買取機関)の購買所で買ってきた冷えた麦茶と、近くの定食屋で昼飯を奢ってくれたもんだがな」
ガラガラと異音を立てて回る天井の古い扇風機を見上げ、梶谷さんは苦笑いを浮かべた。
先代の社長は職人気質だが面倒見が良く、この過酷な時代においても社員とその家族を大切にしてくれた。
だが、三年前に先代が突然の心臓発作で急逝してから、この工場の歯車は徐々に狂い始めたのだ。
跡を継いだ息子の現社長は、最初はしおらしくしていたものの、一年も経つと本性を現した。
『今季は非常に忙しく、会社の将来がかかっている。申し訳ないが今年の慰安旅行は延期とする』
積立金が戻るならとみんな一応納得はしたが、この頃から社内で些細なことで言い合う怒号や、ため息が頻繁に聞かれるようになった。
それでも義春は「給料と残業代はちゃんと払われてるんだし」と深刻に考えてはいなかった。だが。
『資材高騰のため、冬の賞与は最低限しか支払えない』
社員食堂に集まった男たちは皆、社長の言葉に首をひねった。
「おかしいな。現場は例年以上に忙しいし、取引先の担当者からはGAが値上げを突っぱねてきたなんて話は聞かないぞ」
『勿論、業績が回復すれば決算賞与で必ず還元する!』
焦りを見せた社長が、声を張り上げて言葉を補う一幕もあった。
口を開けば「経費削減」「会社の危機」を連呼する社長の言葉を信じ、俺たちは汗を流した。インフラが崩壊し、アスファルトの剥げた砂利道をGAを目指して、日に何度も納品のためにトラックで走り回るような過酷な日々でも、現場の人間は愚直に耐えたのだ。
だが、春になっても戻ってきたのは
「業績不振のため決算賞与は見送る」
という冷淡な一言だった。
そして今月頭、創業当時からこの会社を支えていた梶谷さんが月末で退職すると言い出した。社長が雇用延長しなかったのかと熱り立つ中堅作業員たちだったが、再雇用を断ったのは梶谷さん本人だった。
ポツリポツリと真相を話し出すベテラン社員は60歳の年齢以上に疲れ切って見えた。数年前まで先代社長と共に現場を動き回っていた人間と同一人物には到底見えなかった。
「……なあ義春、お前、最近プレハブの旧工場跡地を見たか?」
梶谷さんが月末に退職すると発表があったその日の昼休憩。工場の裏手にある錆びついた手洗い場の脇で、梶谷さんが低く押し殺した声で俺に囁いた。パイプから流れる井戸水で顔を洗いながら、俺は首をかしげる。
「旧工場ですか? 先代の自宅があったところですよね。先代が生きておられた頃に何回かお邪魔しましたけど……亡くなってからは行ってないですね」
「俺もそうだったんだがな。先月、中古の自家発電用のバッテリーの部品を探しに遠出した帰り、たまたま近くを通ったんだよ。懐かしくてな……つい遠回りして見にいっちまったんだよ。そしたらな、古い木造家屋もプレハブも綺麗に潰されててな。跡地に白亜の豪邸が建ってたんだよ」
「えっ……豪邸……?」
「それだけじゃねぇ。屋根付きのガレージに、準都市圏から横持ちしてきたような高級SUVが2台と高級ワンボックスカーが1台がズラリと横並びだ。……そしてその真ん前に、社長が『経費削減』とか言って通勤に使ってるボロボロの社用ワゴンが横付けされてたんだよ」
梶谷さんはぎりっと奥歯を噛み締め、濡れた拳を強く握りしめた。
「『金がない』『地方の零細は苦しい』『GAには逆らえない』と言って俺たちの給料や賞与をしぶっておきながら、あの坊っちゃんは会社の金で豪邸を建てて高級車を買い漁ってたんだよ! あの社用車は、俺たちへの貧乏アピールだった訳だ。高級車の前に横付けされたボロボロの社用車が俺には自動車盗難よけのコンクリートブロックに見えたよ。……『雇用延長してやるだけありがたく思え』だ? ふざけるな、誰がこんな会社残るか!」
一度漏れ出た疑念は、濁流となって工場内を駆け抜けた。
『平日の昼間から阿由知の街中のゴルフ練習場に行っている』
『家族を連れて、天都都市圏の高級リゾートへ行っていた』
『自分が年金をもらえる年齢になったら、会社を売却して帝都へ移住する算段を信用金庫を呼んで立てている』
元々が狭い地元の話だ。噂が真実だと立証されるまでにさして時間はかからなかった。その後の現場の空気は完全に冷え切った。寸法不良が増え、納期の遅延が頻発し、些細な不注意による怪我も相次いだ。
(……この会社は、もう長くは持たない)
俺もそう悟っていた。だが、俺にはこの都市部と田舎の境界の町で働き続けなければならない理由があった。だからこそ不満に蓋をし、耐え続けていたのだ。
だが――決裂の時は、突然やってきた。
「最上田。お前、今週末の土日、休日出勤しろ。納期が遅れてて取引先から責め立てられてるんだ」
ある日の夕方、油臭い工場に不釣り合いなブランド物のポロシャツを着た社長が、俺の作業場にやってきて威圧的に言い放った。元々横柄な態度を取ることも多い人間だったが、休日出勤の指示をするようなことはなかった。それが社員のためではなく、自分の保身のためだということは重々承知はしていたが。
「……すみません、社長。今週末は、どうしても外せない用事がありまして……出勤できません」
手に持っていたノギスをそっと作業台に置き、静かに断る俺の言葉に、社長の顔が歪んだ。まさかこれまで文句ひとつ言わなかった俺が拒否するとは思っていなかったのだろう。眉間に深いシワを刻み、俺の胸元を指差して怒声を上げた。
「はあ!? お前みたいな高卒のパッとしない奴が、何を偉そうに会社に立てついてるんだ! このご時世、地方の人間が工場で使ってもらえるだけでありがたいと思え! この会社を辞めたら、お前みたいな奴なんて良くてGAの開墾作業員、悪ければ『田舎落ち』するしかないんだぞ! 馬鹿は馬鹿なりに大人しく俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ!」
吐き捨てられた言葉と唾が俺の作業服の胸元に飛ぶ。
俺は感情を押し殺すように一度深く息を吸い込むと、頭を下げて誠意を持って答えた。
「申し訳ありません。金曜の朝から祖母の検査入院に付き添う予定で、土曜日はそのまま病院で付き添って、日曜日の朝に実家まで送り届けるため、どうしても難しいんです」
頭を下げる俺に、社長はさらに詰め寄った。
「そんな下らない個人的な用事で、会社の仕事をすっぽかす気か!? ババアの付き添いなんて他の誰かにやらせておけ! 大体がお前のような貧乏人が病院に連れてくなんて、分不相応だろう。近くの無免許の爺さんがやってる診療所にでも突っ込んでおけばいいんだよ!」
胸倉を掴まんばかりに叫ばれたその瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。
今まで耐え続けてきた感情の蓋が外れ、全身の血が激しく沸き立つ。だが不思議と、思考は冷たく研ぎ澄まされていった。
俺はゆっくりと背筋を伸ばし、逃げずにその男の目を正面からまっすぐに見据えた。
「……っ!?」
これまで従順だった俺の異様な眼光に押されたのか、社長はそれまでの饒舌が嘘だったかのように言葉を詰まらせ、思わず一歩後ずさった。
「有給休暇は取得します。金曜と土曜は休みます。……境界ギリギリの寂れた街とはいえ、ここは準都市扱いで、完全な地方じゃない。これは労働者に認められた権利ですから、社長であろうと止めることはできません」
静かだが、二度と引かない強い声。社長の顔が屈辱で真っ赤に染まっていく。
「……」
「もし必要であれば、来週以降に休日出勤をさせていただきますが?」
「ハッ! もういい! お前みたいな穀潰しに頼んだ俺が馬鹿だったよ! 休日出勤なんてしなくてもいい! お前のやってるその樹脂加工の仕事も、今後全部断ってやるからな! せいぜい自分の身の振り方でも考えておくんだな!」
捨て台詞を吐き、まくし立てるようにパーテーションの外へ姿を消す社長。
ふと視線を感じて振り返ると、工場内の社員全員が手を止め、俺に賛同するように静かに皆が頷いていた。梶谷さんと仲が良かった中堅作業員も力強く親指を立ててみせる。俺は小さく息を吐き、握りしめていた拳を解いた。
――そして、数カ月後の朝礼。
「業績悪化につき、夏の賞与の支給予定は……ない」
白々しい社長の声が、冷え切った工場内に響く。
(……まあ、今回の『業績悪化』だけは本当のことだろうな)
現場の職人たちがシラけた視線を交わし合う中、俺は作業服の胸ポケットに手を伸ばした。準備していた退職届を取り出し、朝礼が終わると同時に、静かに社長のデスクの上へと置いて、いつも通り作業に取り掛かった。
◆◇
数日後、荷物をまとめて工場を出ると、遠くの山々の先、霞んだ空の向こうに『帝天高速国道』の巨大なコンクリートの建造物が伸びて威容を放っているのが見えた。
さらにその先、大海の手前にはかつて国中を繋いでいた『高速道路』と呼ばれた文明の脈絡の残骸が、今や静かに朽ち果てようとしている。
使い古した安全靴で砂利を蹴りながら、俺は一人呟いた。
「……これから、どうするか」
俺はこの時はまだ知る由もなかった。地方を打ち捨てた政府も、自分勝手な社長も、そして俺たち見捨てられた国民も――間もなく世界を揺るがす『魔物』と『ダンジョン』の出現によって、決定的な変革の渦へと呑み込まれていくことを。




