第五話 親子の溝
市内の病院。
窓から差し込む午後の日差しが、白い病室を照らしていた。
ベッドの上には、江津正男が横になっている。
火事の際に大きなけがはなかったものの、妻の恵子を失ったショックは大きかった。医師や看護師から話しかけられても、ほとんど返事をせず、ただ窓の外を眺めていることが多い。
病室のドアが開いた。
「親父……」
入ってきたのは、息子の孝雄だった。
正男はゆっくりと顔を向けた。
「久しぶりだな」
孝雄はベッドのそばまで歩いてきた。
正男は何も言わない。
「体は大丈夫なのか?」
正男は小さくうなずいた。
「母さんのこと、聞いたよ。まさか、あんなことになるなんて……」
孝雄は椅子を引いて腰を下ろした。
「いったい、何があったんだ? 火事になる前、何か変わったことはなかったのか?」
正男は黙ったままだった。
「親父、聞いてるのか?」
それでも正男は答えない。
孝雄は少し苛立ったように息を吐いた。
「何も話してくれないんじゃ、どうしようもないだろ」
正男は再び窓の方を向いた。
その姿を見て、孝雄はぽつりと言った。
「こうなるんなら、もっと早く家を売って施設に入れていればよかったんだよ」
その瞬間だった。
正男の手が動いた。
ベッドから身を起こすと、孝雄の胸元をつかんだ。
「親父!」
正男の顔には、これまで見せなかった怒りが浮かんでいた。
「何するんだよ!」
孝雄が手を振りほどこうとした、そのとき。
「何をやっている!」
病室の入口から声が響いた。
振り向くと、大山出雲が立っていた。
出雲は慌てて二人の間に入った。
「正男さんに何か言ったのか?」
孝雄は正男の手を離させながら答えた。
「なんでもない」
「なんでもないってことはないだろ。何があったんだ?」
「だから、なんでもないって」
出雲は正男の様子を確かめた。
正男は再びベッドに横になっていた。顔には怒りと悲しみが入り混じっている。
「正男さん、大丈夫ですか?」
正男は返事をしなかった。
出雲は孝雄に目を向けた。
「久しぶりに会ったんだろ。もう少し話し方ってものがあるんじゃないのか」
孝雄は何も言い返さなかった。
「親父、また来るよ」
そう言って、孝雄は病室を出た。
出雲も正男に軽く頭を下げてから、後を追った。
病院の廊下。
二人は少し離れた場所まで歩いていった。
出雲が先に口を開いた。
「お前、何年ぶりに正男さんに会ったんだ?」
「何年って……まあ、かなり久しぶりだな」
「恵子さんも、正男さんも、ずっと心配してたんだぞ」
「分かってるよ」
「本当に分かってるのか?」
孝雄は足を止めた。
「大山、今さらそんなこと言われても困るよ。俺だって帰りたくなかったわけじゃない」
「だったら、どうして帰ってこなかったんだ?」
「仕事だよ。忙しかったんだ」
出雲は孝雄の顔を見た。
「仕事、うまくいってるのか?」
孝雄はすぐには答えなかった。
廊下を歩く人の足音だけが、二人の間を通り過ぎていく。
「……実は、あまりうまくいってない」
「そうなのか?」
「ああ。思っていたようにはいかなくてな」
孝雄は視線を落とした。
「借金も増えてる。どうにもならないところまで来てるんだ」
出雲の表情が曇った。
「借金って、どれくらいあるんだ?」
「それは言いたくない」
「お前……」
「だから、こっちに戻ってきたんだよ。少し休みも取れたし、いろいろ考えたかった」
出雲は腕を組んだ。
「それで、家には帰らなかったのか?」
「……まあな」
「正男さんのこと、ちゃんと考えてやれよ。あんな状態だぞ」
孝雄は何も言わなかった。
出雲はそれ以上追及せず、深く息を吐いた。
「とにかく、今は正男さんのそばにいてやれ。奥さんを亡くしたばかりなんだ」
「分かってるよ」
孝雄はそう答えると、廊下の先へ歩き出した。
出雲はその後ろ姿を見送った。
久しぶりに帰ってきた友人。
その帰省が、両親に会うためだけではなかったのではないか。
出雲の胸には、そんな疑問が残った。
病室では、正男が再び窓の外を眺めていた。
そばに置かれた椅子は、孝雄が座っていたときのままだった。
正男はゆっくりと目を閉じた。
妻と過ごした家。
二人で暮らしてきた長い年月。
そして、もう戻らない日々。
そのすべてを思い出すように、正男の目元に涙が浮かんだ。




