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美咲のオヤジの配達記録簿  作者: 空雨 素志


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第四話 一人息子



圭司は、牧田の会社を出ると、車に乗り込んだ。


エンジンをかける前に、助手席に置いていたスマートフォンを手に取る。


画面には、上野の名前。


先ほど牧田と話していたことが、まだ頭から離れなかった。


江津家には息子がいる。


長い間、実家には戻っていないという。


そして、火事の現場から立ち去った、あの男。


圭司は通話ボタンを押した。


「もしもし、上野さん?」


『野上さんですか。どうしました?』


「この前の火事の件なんだけどさ。江津さんの息子さんがいるって聞いたんだ」


『ええ。こちらでも確認しています』


「どんな人なんだ?」


『江津孝雄さん。四十五歳です。現在は市外で仕事をされているようです』


「そうか……」


圭司は少し考えてから続けた。


「上野さん、あの日、俺が見た男のことだけど」


『はい』


「暗くなりかけていたし、顔までは見えなかった。ただ、男のような人影が家から離れていくのは見た」


『その人物についてですが、私も調べています』


「何か分かったのか?」


『まだ確かなことはありません。ただ、もしかすると、その孝雄さんかもしれないと思っています』


「息子が現場にいたってことか?」


『可能性の話です。事件当日、孝雄さんがどこにいたのか、確認する必要があります』


「なるほどな」


『それと、孝雄さんについて少し調べたところ、現在こちらに戻ってきていることが分かりました』


「え? こっちにいるのか?」


『はい。ただ、実家ではなく、市内のホテルに滞在しているようです』


「ホテル……」


『まずは本人に話を聞いてみます』


「分かった。何かあったら教えてくれ」


『もちろんです』


電話が切れた。


圭司はスマートフォンを助手席に置き、しばらく考え込んだ。


火事の現場から逃げた男。


そして、何年も実家に帰っていなかった息子。


二人が同じ人物なのかどうかは、まだ分からない。


圭司はエンジンをかけた。


「……何か引っかかるな」


車はゆっくりと走り出した。


市内のホテル。


一室の窓際に、男が立っていた。


江津孝雄、四十五歳。


久しぶりに故郷へ戻ってきたものの、実家にはまだ顔を出していない。


仕事の都合で帰省する機会がなかった。


今回は、ようやく取れた休日だった。


孝雄は窓の外を眺めながら、テーブルの上に置いたスマートフォンを手に取った。


そのとき、着信音が鳴った。


画面には「大山出雲」と表示されている。


孝雄は電話に出た。


「もしもし、大山か?」


『孝雄? 今、どこにいるんだ?』


「こっちに帰ってきてるよ。どうした?」


『帰ってきてるのか……』


「何だよ。何かあったのか?」


電話の向こうで、出雲が少し言葉を詰まらせた。


『孝雄、お前、まだ知らないのか?』


「だから、何の話だよ」


『お母さんが……』


出雲の声が重くなる。


『恵子さんが、火事で亡くなったんだ』


孝雄は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……え?」


『家が火事になったんだ。恵子さんは、その火事で亡くなった』


「ちょっと待てよ。母さんが?」


『ああ……』


「どういうことだよ。何で火事なんか……」


『詳しいことは、まだ分からない。お父さんは助かったけど、今は病院にいる』


孝雄の手から、スマートフォンが滑り落ちそうになった。


「親父も……?」


『ああ。病院に運ばれたって聞いている』


「そんな……」


孝雄は窓際から離れ、ベッドの端に腰を下ろした。


つい先日まで、母親が生きていた。


父親も、あの家で暮らしていたはずだった。


それが、突然二人の生活は壊れてしまった。


「……分かった。ありがとう」


『孝雄、できれば早くお父さんのところへ行ってやってくれ』


「分かってる」


電話を切った孝雄は、しばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。


それからしばらくして。


ホテルの部屋に、ノックの音が響いた。


孝雄は顔を上げた。


「はい」


ドアを開けると、スーツ姿の男が立っていた。


「突然すみません。警察の上野と申します」


「警察……?」


上野は警察手帳を見せた。


「江津孝雄さんですね?」


「そうですが……何か?」


「お母さんの火事の件で、お話を伺いに来ました」


孝雄の表情が変わった。


「母の火事?」


「はい。少しお時間をいただけますか」


「どうぞ……」


上野が部屋に入る。


孝雄は椅子を勧めたが、立ったままだった。


「母は……本当に亡くなったんですか?」


上野は静かにうなずいた。


「残念ですが、火事で亡くなられました」


孝雄はうつむいた。


「さっき、友人から電話があって聞きました。まさか、こんなことになるなんて……」


「お母さんとは、最近連絡を取っていましたか?」


「いや……仕事が忙しくて、なかなか」


「実家には、しばらく帰っていなかったんですか?」


「そうですね。もう何年も帰っていませんでした」


「今回は、どうしてこちらに?」


「たまたま休日が取れたんです。それで久しぶりに帰ってきました」


上野は孝雄の顔を見つめた。


「ご実家には、まだ行かれていないんですね」


「はい。ホテルに泊まっていました。帰ってきたばかりだったので、これから実家に行こうと思っていたんです」


「そうでしたか」


孝雄は少し間を置いてから、上野に尋ねた。


「それで……親父は?」


「お父さんは病院に入院されています」


「無事なんですか?」


「命に別状はありません。ただ、精神的なショックが大きいようです」


「そうですか……よかった」


孝雄は胸をなで下ろした。


しかし、その表情は晴れない。


「親父は、母が亡くなったことを……」


「もちろん、ご存じです。ただ、今はまだ詳しい話をするのは難しい状態です」


「そうですよね……」


孝雄は窓の外に目を向けた。


「もっと早く帰ってくればよかったな……」


その言葉に、上野は何も答えなかった。


しばらく沈黙が続いた。


やがて上野が口を開く。


「孝雄さん。火事が起きた当日のことについて、もう少しお聞きしてもよろしいですか?」


孝雄は上野に向き直った。


「当日ですか?」


「はい。お母さんが亡くなられた火事について、確認したいことがあります」


「分かりました。知っていることなら、何でも話します」


上野は手帳を取り出した。


「では、まずこちらに戻ってきたのはいつ頃ですか?」


孝雄は、質問に答え始めた。


ホテルを出た上野は、廊下を歩きながら手帳を閉じた。


孝雄は、母親の死を知らなかった。


少なくとも、話を聞いたときの反応に不自然なところは感じられなかった。


しかし、それだけで疑いが晴れたわけではない。


上野はエレベーターの前で立ち止まった。


火事の当日、現場から立ち去った人物。


そして、何年も実家を離れていた息子。


孝雄が本当に事件に関係していないのか。


それを確かめる必要があった。


エレベーターの扉が開く。


上野は中に乗り込んだ。


一方、ホテルの部屋では、孝雄がベッドに座ったまま、手元のスマートフォンを見つめていた。


画面には、出雲からの着信履歴が残っている。


孝雄は目を閉じた。


「母さん……」


その声は、誰にも届かなかった。



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