第二話 逃げた男
燃え尽きた家の周囲には、まだ焦げた臭いが漂っていた。
消防隊による消火活動は終わり、警察官たちが現場検証を続けている。近所の住民も心配そうに集まり、少し離れた場所から現場を眺めていた。
圭司は警察官から事情を聞かれたあとも、その場に残っていた。
そこへ、見慣れた顔が現れた。
「野上さん」
振り返ると、上野がこちらに歩いてくる。
「上野さん」
上野は燃えた家を見上げ、それから圭司に視線を戻した。
「今度は、火事ですか? 野上さん」
「いや、たまたま目撃して、来てみたら、こんなことに……」
「また第一発見者ですか」
「好きで現場に来てるわけじゃないぞ」
圭司が少し苦笑すると、上野も小さく笑った。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「それで、何か見ましたか?」
「何かって?」
「火事の原因につながるようなことです。現場に来たとき、誰かいませんでしたか?」
圭司は、先ほどのことを思い出した。
「一人、逃げていくような人影を見た」
「逃げていく?」
「ああ。俺が爺さんを助けているとき、現場から離れていったんだ」
「顔は見ましたか?」
「いや、それが……」
圭司は首を横に振った。
「爺さんが家の前で立ち尽くしていたんだ。まずはあの人を安全な場所に連れていくのが先だったからな。人影のほうは、ほとんど見ていない」
「性別は?」
「男っぽかったと思う。でも、はっきりとは分からない。もう少し暗くなっていたしな」
上野は手帳にメモを取った。
「分かりました。今のところ、それだけでも手掛かりになります」
「何か分かりました?」
「まだ確認中ですが、単なる火災ではない可能性があります」
上野は焼け跡に目を向けた。
「放火の線が強いようです」
「放火?」
「ええ。出火原因について、消防とも確認しています」
圭司は腕を組んだ。
「じゃあ、あの逃げた男が……」
「可能性はあります。ただ、目撃した人物が犯人だとは限りません。現場にいた理由も分かっていませんから」
上野は慎重に答えた。
「ところで、あの爺さんは?」
「江津正男さん、七十二歳です。亡くなった女性は奥さんの恵子さん、七十八歳」
「あの家に二人で住んでいたのか?」
「そのようです」
「正男さんは、火事のとき何をしていたんだ?」
上野は手帳を確認した。
「話によると、家を離れていたようです。買い物に出ていたらしいですね」
「買い物?」
「ええ。スーパーに行っていたようです」
圭司は、燃え尽きた家を見た。
「買い物から帰ってきたら、家が燃えていたってことか……」
「そうなりますね
「じゃあ、線香か何かの火が燃え移った可能性もあるんじゃないですか?」
「もちろん、最初はそういう可能性も考えます。ただ、今のところは放火の可能性が高いと見ています」
「そうか……」
圭司は、先ほどの人影を思い返した。
「じゃあ、やっぱり、あの逃げた男が……」
「まだ決めつけるのは早いですよ。まずは、その人物を探します」
「正男さんには、もう話は?」
上野は少し表情を曇らせた。
「病院に搬送されています。身体に大きな怪我はなかったようですが、奥さんを亡くしたショックが大きいようです」
「何か話していました?」
「今のところ、ほとんど何も。こちらから質問しても、答えられる状態ではないそうです」
圭司は黙った。
炎の前に立ち尽くしていた老人の姿が、頭に浮かぶ。
家が燃えているのに、逃げることもせず、ただそこに立っていた。
妻を失ったことを、まだ受け止められないのだろう。
「……気の毒にな」
圭司がつぶやく。
上野は手帳を閉じた。
「野上さん、何か思い出したことがあれば連絡してください」
「ああ。あまり役に立てないかもしれないけど」
「いえ、現場にいた野上さんの証言は大切です」
上野はもう一度、焼け跡を見た。
「それにしても、どうしてこんなことに……」
その言葉に、圭司は返事をしなかった。
家を失い、妻まで失った老人。
そして、火事の現場から逃げていった正体不明の人物。
この火事には、まだ何か隠されている。
圭司はそう感じていた。




