第一話 帰り道の火
朝の食卓。
圭司はテーブルの上に置かれた古い腕時計を眺めていた。先日、上野と飲んだ居酒屋に忘れられていたものだ。店から連絡があり、圭司が預かっていた。
文字盤には年月を感じさせる傷があり、ベルトにも使い込まれた跡がある。
「これ、どっかで見たことあるな……」
圭司が腕時計を手に取って、裏返した。
「うーん、結構古い腕時計だよね。誰かの贈り物とかかな?」
向かいで朝食を食べていた美咲が言った。
「いや、昔に……」
圭司は時計を見つめたまま、少し考え込んだ。
「昔に?」
「いや、なんでもない。まぁいっか。上野さんに今度会ったら返しとくよ」
「大事なものじゃないの? そんな簡単に預かってていいの?」
「上野さんのことだから、忘れたことにも気づいてないかもしれないぞ」
「それはないでしょ」
美咲が笑う。
圭司は腕時計を箱に戻すと、いつものように立ち上がった。
「さて、仕事に行くか」
「いってらっしゃい。今日は早く帰ってきてね」
「時間は待ってくれないからな」
そう言い残し、圭司は家を出た。
その日の仕事を終えた圭司は、配送を済ませ、いつもの道をトラックで走っていた。
日も傾き始めている。
交差点を抜け、住宅街へ続く道に入ったときだった。
前方の空に、黒い煙が立ち上っているのが見えた。
「ん……?」
最初は、どこかで何かを燃やしているのかと思った。
しかし、近づくにつれて煙の量が増えていく。
その先に、赤い炎が見えた。
「火事か!」
圭司はトラックを安全な場所に停めると、すぐに現場へ向かった。
一軒の家が燃えていた。
窓から炎が噴き出し、屋根のあたりまで火が回っている。周囲にはまだ人影がほとんどない。
その家の前に、一人の老人が立ち尽くしていた。
ただ、燃え盛る家を見つめている。
「お爺さん!」
圭司は駆け寄った。
「危ない! ここから離れましょう!」
老人は圭司の声に反応したが、足が動かない。
「お爺さん、聞こえますか! しっかりしてください!」
圭司は老人の身体を支え、火元から離れた場所へ連れていった。
そのときだった。
視界の端に、人影が映った。
現場から離れていく、一人の人物。
暗くなりかけた住宅街。顔までは見えない。体格もはっきりとは分からない。
ただ、走り去る姿は男のように見えた。
「おい!」
圭司が声を上げたが、人影は振り返らず、そのまま角を曲がって消えてしまった。
今は追いかけている場合ではない。
圭司は老人を安全な場所に座らせ、携帯電話を取り出した。
「火事です! 住宅が燃えています。場所は……」
消防へ通報し、救急車も要請する。
「お爺さん、怪我はありませんか?」
老人は何も答えなかった。
ただ、燃える家を見つめている。
「ご家族は? ほかに誰か家の中にいるんですか?」
老人の目がわずかに動いた。
「……かあさんが」
かすれた声だった。
「え?」
「かあさんが……家の中に」
圭司の表情が変わった。
「誰か、家の中にいるんですか!」
老人は答えない。
圭司はもう一度、燃え盛る家を見た。
消防車のサイレンが遠くから聞こえ始めていた。
消防隊が到着し、消火活動が始まった。
圭司は警察から事情を聞かれることになった。
「あなたが最初にこの方を保護したんですね?」
「ああ。家の前に立っていたんです。火を見て、動けなくなっていたみたいで」
「ほかに何か見ませんでしたか?」
圭司は少し考えた。
「一人、人影を見ました。現場から離れていくところでした」
「人物の特徴は?」
「暗くて顔は見えませんでした。ただ、男のような体つきだったと思います」
「年齢は?」
「そこまでは分かりません」
警察官はメモを取りながらうなずいた。
やがて、消防隊員の一人が警察官に近づいてきた。
何かを報告している。
警察官の表情が変わった。
「……人が?」
圭司の耳にも、その言葉が届いた。
焼け跡から、人が発見されたという。
しばらくして、警察官が圭司たちのところへ戻ってきた。
「残念ですが、家の中から女性の遺体が見つかりました」
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
「……かあさん?」
警察官は答えなかった。
その場にいた誰もが、言葉を失っていた。
発見された女性の名前は、江津恵子。七十八歳。
圭司が助けた老人、江津正男の妻だった。
正男は、燃え尽きていく自分の家を見つめたまま、動かなかった。
圭司はその横顔から目を離せなかった。
そして、先ほど走り去った人影のことを思い出していた。
あの人物は、いったい何者なのか。
なぜ、火事の現場から逃げるように去っていったのか。
この火事は、本当に事故なのだろうか。




