第四話 クラブRAINの客
翌日の午後。
上野真一は、警察署で浜田麻衣の資料を確認していた。
マンションの屋上には、麻衣の靴がそろえて置かれていた。現場の状況からは自殺の可能性が考えられるものの、まだ断定できる段階ではない。
麻衣の部屋から見つかった名刺には、クラブ「RAIN」という店名が記されていた。
まずは、彼女がどんな生活を送り、誰と付き合いがあったのかを調べる必要がある。
「よし、今日は店に話を聞きに行くか」
上野は資料を閉じた。
*
その日の夕方。
野上家では、圭司が車の鍵を手にしていた。
「……さて、そろそろ出るか」
「どこに行くの?」
居間から顔を出した美咲が尋ねた。
「ちょっとな」
「ちょっとって、どこ?」
「いや、だから、ちょっとだよ」
圭司は目をそらした。
美咲は父の手元を見た。仕事用の車の鍵ではなく、普段使っている車の鍵だった。
「……もしかして、上野刑事を追いかけるつもり?」
「なっ……!」
圭司の動きが止まった。
「図星だね」
「いや、別に追いかけるわけじゃない。たまたま用事があるだけだ」
「クラブRAINに?」
「……なんで知ってるんだ」
「さっき、上野刑事から電話があったとき、聞こえたもん」
美咲は呆れたように肩をすくめた。
「もう、圭司ってば。事件に関わるのは勝手だけど、こっそりついていくのはどうなの?」
「俺は第一発見者だぞ。麻衣さんに直接会っているんだ。何か気づけることがあるかもしれないだろ」
「だったら、最初からそう言えばいいのに」
美咲は少し考え、それから上着を手に取った。
「私も行く」
「お前まで?」
「圭司一人だと、余計なことをして上野刑事に怒られそうだから」
「余計なことって何だよ」
「自覚ないの?」
圭司は言い返せなかった。
結局、二人は連れ立って家を出た。
*
クラブRAINは、繁華街の一角にある店だった。
入り口には控えめな看板が掲げられ、店内からは音楽と客の笑い声が漏れている。
圭司と美咲が店の前に着くと、ちょうど上野が入ろうとしていた。
「……野上さん?」
上野は二人を見て、嫌な予感がしたように眉を寄せた。
「何をしているんですか?」
「いや、偶然だよ」
「偶然、この店の前で?」
「そう、偶然」
上野は美咲を見た。
「美咲さんも一緒ですか」
「はい。圭司がこっそりついていこうとしていたので」
「お前、余計なことを……」
「やっぱりそうなんですか」
上野は深いため息をついた。
「お二人とも、ここは捜査で来ているんですよ。遊びに来たわけじゃありませんからね」
「わかってます」
美咲が答えた。
「私も浜田さんのことが気になっているんです。話を聞くとき、女性がいた方が話しやすいこともあるでしょう?」
上野は少し考えた。
「……勝手に動かないこと。それが条件です」
「はい!」
「圭司さんもですよ」
「わかってるって」
「本当にお願いしますよ」
三人は店の中へ入った。
*
店内は落ち着いた照明に包まれていた。
カウンターの奥には酒のボトルが並び、ソファ席では数人の女性が客と談笑している。
上野が店の責任者に警察手帳を見せると、責任者は表情を引き締めた。
「浜田麻衣さんの件ですね……」
「はい。彼女がこちらで働いていたと聞きました。仕事中の様子や、親しかった人についてお話を伺いたいのですが」
「わかりました。こちらへどうぞ」
三人は店の奥にある小さな個室へ案内された。
責任者が数人の女性を呼び、上野は順番に質問を始めた。
「浜田さんは、どんな方でしたか?」
「麻衣ちゃんですか? 仕事はすごくできる子でしたよ」
一人の女性が答えた。
「お客さんの扱いも上手だったし、よく気がつくし。売り上げもよかったんです」
「売り上げがよかった?」
圭司が尋ねる。
「はい。麻衣ちゃん、うちのナンバーワンだったんです」
「ナンバーワン……」
美咲が小さくつぶやいた。
「じゃあ、かなり人気があったんですね」
「そうですね。指名も多かったですし、常連のお客さんもたくさんいました」
別の女性が口を挟んだ。
「でも、人気があると、面白くないと思う人もいるんじゃないですか」
上野が顔を向けた。
「面白くない、というのは?」
「売り上げの順位って、やっぱり気になりますから。麻衣ちゃんが一番だったので、妬んでいる子もいたかもしれません」
「具体的に、誰かと揉めていたんですか?」
女性は少し考えてから答えた。
「徳山エリカちゃんですかね」
上野は、その名前を手帳に書き留めた。
「徳山エリカさん?」
「はい。エリカちゃんはナンバーツーだったんです。麻衣ちゃんとは仲がよさそうなときもあったけど、たまに言い争っているのを聞いたことがあります」
「何について言い争っていたんでしょう?」
「そこまでは……。二人とも声を抑えていたので、はっきりとは聞こえませんでした。でも、エリカちゃんが怒っているように見えたことはあります」
美咲は、圭司と顔を見合わせた。
麻衣とエリカ。
同じ店で働き、売り上げの順位も一位と二位。周囲からは、ライバル関係に見えていたのかもしれない。
「徳山さんは、今日は出勤されていますか?」
上野が尋ねた。
「今日は休みです」
「休み?」
「はい。昨日から休みを取っているはずです」
上野は手帳に記録した。
麻衣が亡くなった直後に、エリカが休んでいる。
もちろん、それだけで何かを疑うことはできない。しかし、二人の関係は確認しておく必要がありそうだった。
「ありがとうございます。徳山さんにも、改めてお話を伺いたいと思います」
*
聞き込みが終わりかけたころ、美咲はふと、店内の反対側に目を向けた。
少し離れたカウンター席に、一人の男が座っていた。
男は酒を飲むでもなく、女性と話すでもなく、こちらを見ていた。
美咲が目を向けると、男はすぐに視線をそらした。
だが、しばらくすると、またこちらを見ている。
「……圭司」
美咲は小声で父を呼んだ。
「ん?」
「あそこの男の人。さっきから、こっちをずっと見てる」
圭司は、目立たないように男の方を見た。
確かに、こちらを気にしている様子だった。
「知り合いじゃないのか?」
「知らないよ。上野刑事のことを気にしているのかな……」
上野も二人の様子に気づいた。
「どうしました?」
「さっきから、あの男がこっちを見てるんです」
美咲が小声で伝える。
上野は、男の姿を確認した。
「少し話を聞いてみましょう」
上野が立ち上がると、圭司も続いた。
三人が近づいていく。
「すみません。警察の者ですが、少しお話を――」
上野が声をかけた瞬間、男は椅子から立ち上がった。
「いや、俺は何も……」
男は言い終える前に、店の出口へ向かって歩き出した。
「待ってください!」
上野が声を上げた。
男は振り向かなかった。
次の瞬間、店のドアを押し開け、外へ飛び出した。
「逃げたぞ!」
圭司が叫び、上野と一緒に後を追った。
*
男は繁華街の路地へ駆け込んだ。
人混みをすり抜け、飲食店の間を縫うように走っていく。
「止まりなさい!」
上野の声が響いたが、男は足を緩めなかった。
圭司も必死に追いかけた。
「おい、待て!」
しかし、男は角を曲がった先で人の流れに紛れた。
圭司と上野が追いついたときには、もう姿が見えなかった。
「くそっ……どこへ行った?」
圭司は息を切らしながら周囲を見回した。
上野も足を止め、路地の先を確認した。
「見失いましたね……」
「どうして逃げるんだ? 何か後ろめたいことでもあるのか」
「それは、まだわかりません。警察を見て、慌ててしまっただけかもしれませんから」
上野は、息を整えながら言った。
「ただ、何か知っている可能性はあります。店に戻って、あの男を知っている人がいないか確認しましょう」
二人はクラブRAINへ引き返した。
*
店に戻ると、責任者と女性たちは、心配そうに二人を見た。
「さっきの男、わかりましたか?」
美咲が尋ねた。
「いえ、逃げられてしまいました」
上野は、男の特徴を説明した。
「三十歳前後くらいで、黒い上着を着た男性です。カウンターの近くに座って、こちらを見ていました。誰か心当たりはありませんか?」
責任者は考え込んだ。
すると、先ほど話をしていた女性の一人が、はっとしたように顔を上げた。
「……もしかして、荻さんかな?」
「荻さん?」
上野が聞き返す。
「荻武志さんです。前はよく来ていた常連さんで、麻衣ちゃんのお客さんだったんです」
圭司と上野は顔を見合わせた。
「浜田さんの、お客さん?」
「はい。以前は結構な頻度で来ていました。でも、ここ最近は全然見かけなくなっていたんです」
「それが、今日は来ていたんですね」
「そうなんです。私も、どうして今日来たのかなって思っていました」
美咲が尋ねた。
「荻さんって、麻衣さんとは仲がよかったんですか?」
女性は、少し言いにくそうに答えた。
「……そうですね。お客さんとキャスト、というだけの関係ではなかったと思います」
「どういう意味ですか?」
「詳しいことは本人たちの話なので、私からは何とも……。ただ、麻衣ちゃんが荻さんのことで悩んでいた時期があったのは覚えています」
上野は、手帳を取り出して名前を書いた。
荻武志。
麻衣の常連客で、最近は店に来ていなかった男。
そして、警察の姿を見て逃げ出した男。
「……荻さんについて、もう少し詳しく教えていただけますか」
上野の声が、少し低くなった。
麻衣の死は、自殺なのか、それとも他殺なのか。
屋上の靴は、まだ答えを教えてくれない。
だが、麻衣の周囲には、何かを知っている人間がいる。
その一人が、今、逃げていった荻武志なのかもしれなかった。




