第一話 落ちてきた女
朝の食卓には、焼き魚と味噌汁、卵焼きが並んでいた。
「圭司、今日も配達?」
美咲は、箸を動かしながら尋ねた。
「当たり前だろ。配達員が家でのんびりしてたら、仕事にならない」
「いや、そういう意味じゃなくて。今日も忙しいのかなって」
「今日はマンションが多いな。四階から一階まで、各階に配達がある」
圭司は味噌汁をすすった。
「階段を何往復もするんじゃないの?」
「いや、上から順番に降りていけばいい。効率よく回れば、そんなに時間はかからないさ」
「さすが、配達のプロ」
「茶化すな」
圭司が軽くにらむと、美咲は楽しそうに笑った。
「そういえば、最近、変な事件に巻き込まれてないね」
「事件に巻き込まれないのが一番なんだよ」
「でも、圭司って、なぜか事件に遭遇するよね」
「俺が呼んでるわけじゃない」
「それはそうだけど」
美咲は湯呑みを手に取った。
「まあ、今日も気をつけてね」
「ああ。そっちも大学、遅刻するなよ」
「わかってるって」
いつもの朝だった。
圭司は食事を終えると、仕事着に着替え、鍵を手に取った。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
美咲の声を背に、圭司は家を出た。
そのときは、今日という一日が、忘れられないものになるとは思いもしなかった。
*
午前中、圭司は予定どおり、配送先のマンションに到着した。
街なかに建つ、特に目立つところのない中規模のマンションだった。エントランスには集合ポストが並び、管理人室の窓は閉じられている。
圭司は伝票を確認し、荷物を台車に載せた。
「さて、上から順番に片づけるか」
最初は四階だった。
エレベーターを使い、伝票に記載された部屋の前で足を止める。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして男が顔を出した。
「お届け物です」
「どうも」
男は荷物を受け取った。
四階の住人だった。圭司にとっては、荷物を届けるだけの相手にすぎない。特に変わった様子もなく、配達はすぐに終わった。
圭司は次の階へ降りた。
三階でも荷物を届け、さらに下へ向かう。
二階の一室で呼び鈴を鳴らすと、若い女性がドアを開けた。
「お届け物です。浜田さんでよろしいですか?」
「はい」
女性は、圭司から荷物を受け取った。
浜田麻衣、二十四歳。
伝票に記載された名前と、目の前の女性が一致していることを確認する。
「こちらで間違いありませんね」
「ありがとうございます」
麻衣は軽く頭を下げた。
圭司は、ごく普通の配達を終えたという感覚しかなかった。麻衣の表情に特別な違和感はない。急いでいる様子でもなく、荷物を受け取ったあと、静かにドアを閉めた。
圭司はそれ以上気に留めず、一階へ向かった。
一階の配達も済ませると、残りの荷物を確認した。
「よし、これで終わりだ」
伝票をまとめ、圭司はマンションの出入口から外へ出た。
駐車していたトラックは、すぐ目の前にある。
圭司は鍵を取り出し、運転席に乗り込もうとした。
そのときだった。
――ドンッ!
鈍い音が響いた。
「……何だ?」
圭司は反射的に顔を上げた。
何かが落ちてきたようだった。
音はトラックのすぐ前から聞こえた。圭司は一瞬、荷物でも落ちたのかと思った。だが、地面に転がっているものの形を見た瞬間、足が止まった。
人だった。
若い女性が、トラックの前に倒れていた。
「おい……!」
圭司は駆け寄った。
女性はうつ伏せに近い姿勢で倒れ、身動き一つしない。
「大丈夫か! 聞こえるか!」
声をかけても反応はなかった。
圭司は思わず息をのんだ。
ほんの数分前まで、いつもどおりに配達をしていた。荷物を受け取り、礼を言ってくれた人もいた。
それなのに、目の前には倒れた女性がいる。
圭司は驚きを押し殺し、すぐに携帯電話を取り出した。
まず救急車。それから警察。
震えそうになる指を動かし、通報する。
「救急ですか! マンションの前で人が落ちてきたんです! 若い女性が倒れています。意識があるかどうか、わかりません!」
場所を伝え、指示を受ける。続けて警察にも連絡を入れた。
通報を終えた圭司は、再び女性のそばにしゃがみ込んだ。
「……頼むから、助かってくれ」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
女性はピクリとも動かない。
圭司は顔を上げ、マンションを見上げた。
四階から一階まで、今日もいつもどおりに荷物を届けてきた。
あの女性も、確かに自分の手から荷物を受け取った。
なのに、なぜ。
どうして、こんなことになったのか。
やがて、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
圭司は倒れた女性から目を離せなかった。
配達先のマンションで起きた、突然の転落。
それが自殺なのか、事故なのか、それとも――。
その答えを、圭司はまだ知らなかった。




