第十二話 居酒屋
居酒屋の引き戸が開くと、焼き魚の香ばしい匂いと、客たちのにぎやかな声が流れてきた。
店の奥のテーブルで、野上圭司と美咲が向かい合っていた。
圭司は生ビール、美咲はウーロン茶。テーブルには枝豆と焼き鳥、それに揚げ出し豆腐が並んでいる。
「ようやく終わったね、今回の事件」
美咲がウーロン茶のグラスを持ち上げた。
「終わった、というより、やっと何が起きたのかがわかったって感じだな」
圭司はビールを一口飲んだ。
「桂川さんの不正も、荒木さんとの口論も、中間さんが薬を渡したことも。それぞれ別の話だと思っていたけど、全部、飯塚さんの最後の日につながっていた」
「でも、誰も飯塚さんを殺そうとしたわけじゃなかった」
美咲の声が少し沈んだ。
「中間さんは後輩として飯塚さんを頼っていたし、桂川さんは自分の不正が知られるのを恐れていた。荒木さんは危険な運転だと思って怒っただけ。奈津子さんも、ただ旦那さんに帰ってきてほしかった」
「そうだな」
圭司はグラスをテーブルに置いた。
「飯塚さんは、最後まで人のために動いていた。後輩のミスを引き受け、帰りには妻の好きなものを買っていたんだからな」
「エビの唐揚げね」
美咲は、少しだけ微笑んだ。
「奈津子さんが、あれを食べれば元気になるって昔から話していたんでしょう? 飯塚さん、ちゃんと覚えていたんだね」
「長く一緒に暮らしていれば、そういうことは覚えているもんだ」
圭司は窓の外へ目を向けた。
家に帰って、妻と仲直りする。
ただ、それだけのことを考えていたのかもしれない。
仕事を終え、好きなものを買い、家の明かりを見ながら帰っていく。
そんな日常が、飯塚にはもう戻らない。
「……何とも言えない事件だったな」
圭司がつぶやくと、美咲も黙ってうなずいた。
*
「お待たせしました!」
店の入り口から、聞き覚えのある明るい声がした。
牧田吾郎が手を上げ、その後ろから上野真一が入ってくる。
「すみません。捜査の報告をまとめていたら、遅くなってしまって」
上野が申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、こっちも今来たところですよ」
圭司が答えた。もちろん、これは少しばかりの気遣いだった。
「上野さん、こっちです!」
美咲が手を振った。
牧田と上野が席に着くと、上野はさっそくメニューを開いた。
「いやあ、腹が減りましたよ。今日は仕事の話は抜きにして飲みたいところですけどね……」
「どうせ、飯塚さんの話になるんでしょう?」
圭司が笑うと、上野はメニューから顔を上げた。
「わかってますねえ、野上さん」
「ここまで調べて、何も話さずには終われないだろ」
牧田が言う
料理と飲み物を注文し、四人の前にグラスが並んだ。
「それでは……」
牧田がグラスを持ち上げる。
「飯塚孝志さんの冥福を祈って」
四人は静かにグラスを合わせた。
*
「しかし、桂川にはあきれたよ」
最初の料理が運ばれてくると、牧田が口を開いた。
「長時間勤務の記録を隠して、配送手当まで抜いていたんだから。あれでは、飯塚がどれだけ働いても、正しく評価されない」
「ギャンブルに給料のほとんどをつぎ込んでいたんですよね」
美咲が尋ねた。
「ああ。負ければ取り返そうと、また金を使う。足りなくなると、飯塚に配送を回して、その手当を抜く。ひどい話だ」
牧田は厳しい顔で続けた。
「飯塚は、最初から桂川を疑っていたわけじゃない。ドライバーのうわさを聞いて、自分で明細を調べて、初めて気づいた。それでも、返してくれれば会社には報告しないと、何度も猶予を与えていた」
「人を信じすぎたのかもしれませんね」
上野が言った。
「ただ、信じることそのものが悪いわけじゃありません。問題は、その信頼につけ込んだ人間がいたことです」
「そのとおりです」
牧田はうなずいた。
「桂川には、会社として責任を取ってもらわなければならない。長時間勤務を隠していたことも、手当を抜いていたことも、事故とは別に重大な問題だ」
「でも、飯塚さんの死については、桂川が毒を盛ったという証拠はなかった」
圭司が確認すると、上野ははっきりとうなずいた。
「はい。コーヒーから毒物は確認されませんでしたし、殺害を裏づける証拠もありませんでした。飯塚さんの死因はアナフィラキシーショックと考えられ、エビを食べたことが引き金になった可能性が高い。鎮痛薬がどの程度影響したかは断定できませんが、少なくとも意図的な毒物投与を示す証拠はありません」
「荒木さんも、ただ勘違いしたんですよね」
美咲が言った。
「飯塚さんの運転が乱れていたから、あおり運転だと思って怒った。でも、本当は飯塚さんの体に異変が起きていた」
「そうです。荒木さんにとっては危険運転に見えた。飯塚さんにとっては、体に何が起きているかもわからない状況だった。双方の認識が食い違ったのです」
上野はグラスを置いた。
「もちろん、危険を感じたからといって、相手に強く抗議することがいつも正しいとは限りません。しかし、今回の口論が飯塚さんの死を招いたと断定することもできません」
「誰も、相手の事情を知らなかったんだな」
圭司がつぶやいた。
飯塚は帰りたかった。
荒木は危険な運転をやめさせたかった。
中間は先輩を助けたかった。
奈津子は、夫に自分の気持ちをわかってほしかった。
そして桂川は、自分の不正を隠したかった。
それぞれの思いが交差する中で、誰も予想していなかった結末が訪れた。
*
「そういえば……」
美咲が、ふと思い出したように顔を上げた。
「私、もう一つ、ずっと気になっていたことがあるんです」
「何ですか?」
上野が尋ねた。
「中間さんの服です」
牧田が箸を止めた。
「ああ、あの服のことか」
「牧田さん、知っていたんですか?」
「ええ。中間から、あとで話を聞きましたよ」
圭司も美咲も、牧田の方を向いた。
「あの日、飯塚さんの家で洗濯物を見たんです。飯塚さんが着るには若すぎる服だなと思って、奈津子さんに尋ねたら、旦那さんの服じゃないと言われました」
美咲は続けた。
「それで、後日、中間さんが同じデザインの服を着ているのを見かけたんです。聞いたら、自分の服だって認めた。でも、どうして飯塚さんの家にあったのか、教えてくれなかった」
「中間は、奈津子さんに迷惑をかけたくなかったみたいだ」
牧田は、ゆっくり話し始めた。
「飯塚が亡くなってから、中間は何度か奈津子さんの家を訪ねていた」
「どうして?」
「飯塚に対する罪悪感があったんだろう。自分の配送ミスで飯塚の帰りが遅くなった。それに、頭が痛いと聞いて薬まで渡していた。飯塚が亡くなったと知ってから、自分に何かできたんじゃないかと、ずっと悩んでいたみたいだ」
美咲は、静かにうなずいた。
中間が落ち着かない様子だったのは、罪悪感を抱えていたからなのかもしれない。
「それで、奈津子さんのところへ行っていたんですね」
「ああ。最初は謝罪のつもりだった。でも、奈津子さんも夫を亡くして、一人では何も手につかないような状態だった。中間は、買い物を手伝ったり、家の片づけを手伝ったりしていたみたいだ」
「そのときに、服が……?」
「ある日、中間が手伝いに行ったとき、急な雨に降られて、着ていたシャツが濡れてしまって奈津子さんが洗濯しておくと言ってくれたので、中間は車に積んでいた予備のシャツに着替えて、そのまま帰った」
「それが、洗濯物の中にあった服だったんですね」
美咲が言った。
「そういうこと。中間は、あとで取りに行くつもりだったが、奈津子さんがまだ悲しみの中にいるのに、服のことを急かすのも申し訳ないと思っていた。それで、回収しないままになっていた」
上野が、ゆっくりとうなずいた。
「服があったこと自体は、何か悪いことを示すものではなかったわけですね」
「ただ、中間には、もう一つ気がかりなことがあった」
牧田は美咲を見た。
「自分が飯塚に薬を渡したこと。あれが死に関係していたのではないかと、ずっと恐れていた。だから、服の件を説明すれば、自分と奈津子さんの関係まで疑われるかもしれない。それを恐れて、話を先延ばしにしてしまったそうだ」
「でも、隠したことで、かえって疑われてしまった」
美咲は苦笑した。
「そうですね」
上野は、穏やかな声で言った。
「疑いを恐れて事実を隠せば、残された人たちは、その空白を想像で埋めてしまうことがあります。中間さんに悪意はなかったのでしょう。それでも、説明しなかったことで、疑念が膨らんでしまった」
圭司は、グラスに残ったビールを見つめた。
「服を見たとき、俺たちは、そこに何か秘密があると思った。けど、実際には、亡くなった人を悼む気持ちと、残された人を助けたいという思いがあっただけだった」
「はい」
美咲はうなずいた。
「私も、あのとき、もっと慎重に聞けばよかった」
「気づいたことを確認するのは悪いことじゃない。ただ、見たものだけで、すべてを決めつけないことだな」
圭司の言葉に、美咲は少し笑った。
「圭司に言われると、なんか説得力あるね」
「どういう意味だ?」
「別に」
「おい」
いつもの二人のやり取りに、牧田が声を上げて笑った。
上野も、思わず口元を緩めた。
*
料理が追加され、テーブルの上はにぎやかになっていた。
けれど、話題が一段落すると、四人の間に穏やかな沈黙が訪れた。
「飯塚さんは、最後まで誰かのために動いていたんですね」
美咲がぽつりと言った。
「後輩のミスを引き受けて、妻の好きなものを買って帰ろうとしていた」
牧田がうなずいた。
「飯塚は、そういう男でしたよ。頼まれると断れない。自分が少しくらい無理をしても、周りを助けようとする。いいやつでした」
「ただ、いい人だったというだけでは、片づけられない問題もあります」
上野が続けた。
「長時間労働を放置していたこと。運行記録を改ざんしていたこと。そして、異変に気づくのが遅れたこと。今回の事件から学ばなければならないことは、きっと残っています」
「そうですね」
牧田の表情が引き締まった。
「飯塚のような人間が、善意を理由に無理を重ねなくてもいい職場にしなければならない。会社として、変えるべきところは変えていきます」
圭司は、静かにうなずいた。
「人の善意に甘えてはいけない。誰かを信じることと、何も確認しないことは違うんだろうな」
美咲は、父の横顔を見た。
今回の事件では、善意そのものが誰かを傷つけたのではない。
相手の事情を知らないまま決めつけたこと。説明すべきことを恐れて隠したこと。無理をしても大丈夫だと思い込んだこと。
そうした小さなすれ違いが重なってしまった。
「……飯塚さん、最後に奥さんと仲直りしたかったんだろうね」
美咲がつぶやく。
「そうかもしれないな」
圭司は答えた。
上野も、牧田も、何も言わなかった。
その答えを確かめることはできない。
ただ、エビの唐揚げを買って帰ろうとした飯塚の姿を思い浮かべることはできる。
仕事を終え、遅くなった帰り道を急ぎながら、家で待つ妻の顔を思っていたのかもしれない。
そのささやかな願いが、かなわなかった。
*
店を出るころには、夜も更けていた。
上野は駅へ向かい、牧田はタクシーを拾うために大通りへ歩いていった。
圭司と美咲は、並んで歩きながら夜風に当たっていた。
「圭司」
「ん?」
「今回の事件、私、忘れないと思う」
「俺もだ」
「悪い人を見つければ、それで解決するわけじゃないんだね」
圭司は少し考えてから答えた。
「そうだな。誰かが悪いことをしたなら、それは正さなきゃいけない。でも、誰かを犯人にすれば、すべてが解決するわけじゃない」
美咲は黙って聞いていた。
「本当のことを知るためには、思い込みを捨てて、時間をかけて調べなきゃならない。たとえ、その答えが誰も望んでいないものだったとしてもな」
美咲は、父の言葉を胸に刻むようにうなずいた。
圭司は歩きながら、空を見上げた。
「時間は待ってくれない」
ふと、いつもの口癖がこぼれた。
「……だからこそ、あとで後悔しないように、できることをしなくちゃならないんだろうな」
美咲は、父の横顔を見て微笑んだ。
「そうだね」
二人は、街の灯りの中を歩いていった。
誰かを助けること。
誰かを信じること。
そして、自分の思いを、相手にきちんと伝えること。
当たり前のようでいて、簡単ではないことばかりだ。
飯塚孝志が帰ることのできなかった家には、今も妻の奈津子が暮らしている。
彼が最後に買ったエビの唐揚げは、もう残っていないだろう。
それでも、奈津子の記憶には、夫が自分の好きなものを覚えていてくれたという事実が残る。
失われた時間は戻らない。
けれど、残された人たちは、その時間を抱えながら生きていく。
夜の街に、二人の足音が静かに遠ざかっていった。




