第十一話 元気になる味
警察署の会議室に、上野真一は鑑定医から届いた報告書を広げていた。
飯塚孝志の事故について、捜査は一つの節目を迎えようとしていた。
事故当日の配送記録。破損したドライブレコーダーから復元された映像。遺留品から見つかったレシート。そして、飯塚の体から得られた検査結果。
それぞれの情報を照らし合わせた結果、飯塚の死因について、ある結論が導き出されていた。
「……アナフィラキシーショックか」
上野は、報告書の文字を見つめた。
鑑定医の見解では、飯塚はトラックが衝突する前に、急激なアレルギー反応を起こしていた可能性が高いという。解剖所見や検査結果、事故当日の行動を総合すると、アナフィラキシーショックによって呼吸や血圧に異常が生じ、正常な運転ができなくなったと考えるのが最も合理的だった。
中毒を示す決定的な証拠は見つかっていない。
桂川が渡したコーヒーに毒物が入っていた形跡もなかった。
中間から渡された鎮痛薬については、アレルギー反応に影響した可能性を完全には否定できないものの、それが直接の原因だったと断定できる証拠はなかった。
上野は椅子の背にもたれ、息を吐いた。
「誰かが毒を盛ったわけではなかった……」
それでも、すべてが偶然だったと片づけるには、飯塚の最期はあまりにも重かった。
上野は、机の端に置かれたレシートの写真を手に取った。
エビの唐揚げ。
飯塚が事故の前に、わざわざ商店街へ立ち寄って購入したものだ。
この買い物には、何か理由があったのではないか。
上野は、奈津子にもう一度話を聞くことにした。
*
飯塚家の玄関で呼び鈴を押すと、奈津子が出てきた。
「上野さん……。何かわかったんですか?」
「はい。ご主人の死因について、鑑定結果がまとまりました」
奈津子の顔に緊張が走った。
「……どうぞ、お入りください」
居間に通された上野は、テーブルを挟んで奈津子と向き合った。
「先日、ご主人が事故に遭う前、商店街に立ち寄っていたことをお話ししましたね」
「はい」
「購入したものがわかりました。あの商店街にある惣菜店の、エビの唐揚げでした」
奈津子は、驚いたように目を見開いた。
「エビの唐揚げ……」
「ご存じですか?」
「もちろんです。あそこのエビの唐揚げは、私が一番好きな食べ物なんです」
奈津子の声が、少しずつ小さくなっていった。
「主人も、それを知っていました」
上野は、手帳を閉じた。
「ご主人は事故の日、帰宅する前に、わざわざその店へ立ち寄って買っていたようです」
奈津子はレシートの写真を見つめたまま、動かなかった。
「……そうだったんですね」
しばらくして、彼女は小さく笑った。だが、それはすぐに涙で崩れてしまった。
「私、昔、主人に言ったことがあるんです」
「何と?」
「嫌なことがあった日も、落ち込んだ日も、あそこのエビの唐揚げを食べれば元気になるって」
奈津子は、目元を押さえた。
「仕事で疲れて帰ってきたときにも、よく話していました。あれを食べると、何だか幸せな気持ちになるって……」
上野は静かに耳を傾けた。
「主人、覚えていてくれたんですね」
奈津子はレシートの写真にそっと指を伸ばした。
「事故の日、私たちは喧嘩をしました。私が主人の帰りが遅いことを責めて、浮気しているんじゃないかって……。主人は何も言わずに出ていってしまったんです」
彼女は息を整えようとした。
「だから、帰ってきたら謝ろうと思っていました。主人も、もしかしたら仲直りしたいと思ってくれていたのかもしれませんね」
「その可能性はあると思います」
上野は静かに答えた。
飯塚の本当の気持ちは、もう本人にしかわからない。
だが、忙しい一日の終わりに、妻の好きなものを買って帰ろうとした。その小さな行動には、奈津子を思う気持ちが込められていたのかもしれない。
*
「それで……主人は、どうして亡くなったんですか?」
奈津子が、涙を拭いながら尋ねた。
上野は姿勢を正した。
「鑑定医の見解では、ご主人は衝突する前に、アナフィラキシーショックを起こしていた可能性が高いということです」
「アナフィラキシー……?」
「急激で重いアレルギー反応です。呼吸が難しくなったり、血圧が急激に下がったりすることがあります。ご主人の場合、そうした異変によって運転が困難になり、事故につながった可能性が高いと考えられています」
奈津子は、信じられないというように首を振った。
「でも、主人がエビを食べて、具合が悪くなったことなんて……。私、一度も聞いたことがありません」
「これまで問題なく食べていた人でも、後からアレルギーを発症することはあります。ご本人も、周囲の方も、気づいていなかったのかもしれません」
「じゃあ、あのエビの唐揚げが……」
奈津子の視線が、レシートの写真に落ちた。
「引き金になった可能性はあります。ただし、医学的な判断は一つの検査だけで決まるものではありません。今回は、検査結果や解剖所見、事故当日の状況などを総合して判断されました」
上野は、さらに言葉を添えた。
「それから、これまで調べてきた範囲では、誰かがご主人に毒物を飲ませたと示す証拠は見つかっていません。桂川さんとの金銭トラブルも、荒木さんとの口論もありましたが、それらが殺害につながったと判断できる事実はありませんでした」
奈津子はうつむいた。
「……誰かに殺されたわけでは、なかったんですね」
「はい。現時点では、事故の前に起きた急激な体調異変が、死につながったと考えられています」
長い沈黙が流れた。
奈津子は両手を膝の上で握りしめていた。
「主人は、私のために買ってくれたんですね」
その声は、ひどくか細かった。
「帰ってきて、一緒に食べるつもりだったんですよね……」
上野は、すぐには答えなかった。
確かな証拠があるわけではない。だが、飯塚が最後の配送を終えたあと、急いで帰宅せず、妻の大好きな惣菜を買いに立ち寄ったことは事実だった。
喧嘩をしていても、怒っていても、家に帰れば仲直りできる。
きっと、そんな当たり前の明日が来ると、飯塚は思っていたのかもしれない。
「……そうだったのかもしれません」
上野は、静かに答えた。
奈津子は、とうとう顔を覆った。
「私、あんなことを言わなければよかった……。主人が帰ってきたら、ちゃんと謝れたのに」
涙が、指の隙間からこぼれ落ちる。
「もう一度だけでいいから、帰ってきてほしい……」
上野は、何も言えなかった。
どれほど真相を明らかにしても、亡くなった人を連れ戻すことはできない。
警察ができるのは、何が起きたのかを調べ、残された人が事実と向き合えるようにすることだけだった。
*
飯塚家を辞去した上野は、玄関先で一度振り返った。
奈津子は、まだ居間に座っているようだった。
上野はゆっくりと頭を下げ、門を出た。
空は夕暮れに染まり、街の灯りが一つずつともり始めていた。
飯塚は、後輩の失敗を助けた。
桂川には、返済を約束させようとした。
事故の前には荒木と口論になった。
そして、妻の好きなエビの唐揚げを買って帰ろうとしていた。
そのどれもが、特別なことではなかった。
働く人間にとって、誰かを助けることも、金銭でもめることも、家族と喧嘩をすることもある。
けれど、あの日の飯塚には、いつもと違う体の異変が起きていた。
誰も気づかなかった。
本人でさえ、何が起きているのかわからなかったのかもしれない。
上野は歩きながら、ふと立ち止まった。
「……誰も、こんな結末を望んではいなかったんだな」
その言葉は、夕暮れの街に静かに消えていった。
事件の真相は明らかになった。
だが、飯塚の善意も、奈津子の後悔も、あの日の時間も、もう取り戻すことはできなかった。




