第九話 洗濯物の服
その日の午後、美咲は大学の帰りに駅前の商店街へ立ち寄った。
講義が長引き、少し遅い昼食を取ろうと思ったのだ。人通りの多い通りを歩いていると、向かい側の歩道から見覚えのある男がやってきた。
中間だった。
「あれ……中間さん?」
飯塚孝志の後輩で、事故当日に市販の鎮痛薬を渡したという男だ。
美咲は声をかけようとして、ふと足を止めた。
中間が着ている服に、見覚えがあったのだ。
濃い紺色のシャツに、胸元の小さな白い刺繍。襟元には細い赤いラインが入り、袖のボタンだけが白く目立っている。
決して珍しいデザインではない。
しかし、美咲はその服を、つい最近、ある場所で見ていた。
飯塚の自宅だ。
洗濯物のかごの上に畳まれていた、飯塚には少し若すぎるように思えた服。
そして、そのとき奈津子は、はっきりと言った。
――しませんよ。主人は、そんな若い格好は。
「……まさか」
美咲は、中間の姿をもう一度確かめた。
胸元の刺繍も、袖のボタンも同じだった。
あの服は、飯塚のものではなかった。
中間の服だったのだ。
*
「中間さん!」
美咲に呼ばれ、中間は振り返った。
「あ……野上さんとこの、美咲さん?」
少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「こんにちは。こんなところで会うなんて、偶然ですね」
「そうですね。お仕事帰りですか?」
「ええ。今日はもう終わったところです」
中間は腕時計をちらりと見た。
美咲は、なるべく自然な調子で尋ねた。
「その服、よく着るんですか?」
「え?」
中間は自分の胸元を見た。
「ああ、これですか? まあ、普通に着ますけど……どうかしました?」
「いえ。ちょっと見覚えがあったので」
「見覚え?」
中間の笑顔が、ほんのわずかにこわばった。
美咲はその変化を見逃さなかった。
「飯塚さんのお宅で、同じ服を見たんです。洗濯物のところに置いてあって」
中間の表情から、笑みが消えた。
「……飯塚さんの家で?」
「はい。奈津子さんにお話を聞きに行ったときです」
短い沈黙が流れた。
商店街の人々が二人の横を通り過ぎていく。店先からは揚げ物の匂いが漂い、遠くから自転車のベルが聞こえてきた。
ありふれた午後の風景の中で、中間だけが立ち尽くしているように見えた。
「どうして、あなたの服が飯塚さんの家にあったんですか?」
美咲が尋ねると、中間は視線をそらした。
「……知りませんよ」
「飯塚さんの服ではないと、奈津子さんは言っていました」
「そうですか……」
「中間さんのものなんですよね?」
中間はすぐには答えなかった。
やがて、観念したように小さくうなずいた。
「……もう、そうですよ。俺のです」
美咲の胸に、いやな予感が広がった。
「どうして、奈津子さんの家に?」
中間は唇を結んだ。
「すみません。今は、ちょっと……」
「ちょっとって、どういうことですか?」
「俺から話します。ちゃんと説明するので、少し時間をください」
そう言うと、中間は美咲に頭を下げた。
そして、逃げるように歩き去っていった。
美咲は、その後ろ姿を見つめたまま動けなかった。
中間の服が飯塚の家にあった。
それは、偶然では説明しにくい事実だった。
*
夕方、美咲は父の圭司に電話をかけた。
「圭司、今、少し話せる?」
『どうした? 何かあったのか』
「中間さんに会ったの。それで、飯塚さんの家にあった洗濯物のことなんだけど……」
美咲は、今日あったことを順番に話した。
中間が着ていた服。
飯塚の家で見た服と、刺繍も袖のボタンも同じだったこと。
問い詰めると、中間は自分の服だと認めたこと。
そして、理由を尋ねても答えず、後日説明すると言って立ち去ったこと。
『……そうか』
圭司の声が低くなった。
『それは気になるな』
「でしょう?」
『ただ、服があったからといって、すぐに悪いことを考えるのは早い。忘れ物かもしれないし、奈津子さんを手伝いに行ったときに置いてきたのかもしれない』
「うん。それはわかってる」
美咲はうなずいた。
「でも、奈津子さんはあの服を見て、飯塚さんのものじゃないってすぐに答えた。中間さんは自分の服だと認めたのに、どうして飯塚さんの家にあったのかは、話してくれなかった」
『……そこだな』
「それに、二人は何かを隠してる気がする」
電話の向こうで、圭司はしばらく黙っていた。
『わかった。牧田にも話してみる。ただし、中間を疑うなら、疑う理由をはっきりさせないとな』
「うん」
『美咲、無理に一人で聞き出そうとするなよ』
「わかってるって」
電話を切ると、美咲はスマートフォンを握りしめた。
中間は、なぜあんなに動揺したのだろう。
ただ服を置き忘れただけなら、隠す必要はないはずだ。
だが、もし二人の間に、飯塚には知られたくない関係があったとしたら。
飯塚の死をめぐる疑いは、また一つ、別の方向へ広がっていく。
*
その夜。
中間は自宅の部屋で、椅子に座ったままうつむいていた。
美咲に見つかってしまった。
もう、隠し通すことはできないのかもしれない。
彼は携帯電話を手に取り、連絡先を開いた。
奈津子の名前を見つめる。
電話をかけようとして、指が止まった。
飯塚が亡くなってから、奈津子は一人になった。
中間は、彼女を放っておけなかった。
だが、周りから見れば、どう映るだろう。
飯塚の死。
奈津子の家に残された自分の服。
そして、飯塚が事故に遭う直前に渡した薬。
どれも、疑いを招くには十分だった。
「……違うんだ」
中間は、誰に言うでもなくつぶやいた。
「俺は、そんなつもりじゃ……」
言葉はそこで途切れた。
彼は携帯電話を机に置き、両手で顔を覆った。
善意だった。
そう言えば済むと思っていた。
しかし、自分が本当のことを話さなければ、その善意さえ、疑いの中に埋もれてしまう。
中間は、いつか話さなければならないとわかっていた。
自分と奈津子の間に、何があったのかを。
そして、飯塚が亡くなる前から、何を知っていたのかを。




