第八話 夫婦の秘密
飯塚家の玄関から、一人の男が出てきた。
荒木だった。
彼は玄関のドアを静かに閉めると、周囲を気にするように一度あたりを見回した。そして、道路へ向かって歩き出した。
「荒木さん」
背後から声をかけられ、荒木は足を止めた。
振り返ると、上野真一と美咲が立っていた。
「警察の上野です。少し、お話を聞かせていただけますか」
荒木の表情がこわばった。
「……どうして、あなたたちがここに?」
「それはこちらが聞きたいことです。先ほど、飯塚さんのご自宅を訪ねていましたね」
荒木はすぐには答えなかった。
美咲は、そんな彼の様子をじっと見つめた。
事故の直前、飯塚のトラックのそばで口論していた男。そして、事故のあと、なぜか飯塚の自宅を訪ねている男。
偶然にしては、気になることが多すぎた。
「ここでは話しにくいでしょう。少し、よろしいですか?」
上野が促すと、荒木は観念したように息を吐いた。
「……わかりました」
*
三人は、飯塚家から少し離れた場所へ移動した。
「まず確認します。あなたと飯塚さんの奥さんは、どういう関係ですか?」
上野の質問に、荒木は視線を落とした。
「知り合いです。以前から、相談を受けていました」
「相談?」
「家庭のことです」
美咲が口を挟んだ。
「家庭のことって、具体的には?」
荒木は少し迷ってから、話し始めた。
「奈津子さんは、旦那さんの帰りが遅いことを気にしていました。仕事だと言っているけど、本当にそうなのか。もしかすると、ほかに女がいるんじゃないかって」
「浮気を疑っていたんですか?」
「はい」
上野は、表情を変えずに聞いていた。
「それで、あなたに相談していた?」
「そうです。奈津子さんは、飯塚さんの帰りが遅い日が続くと、不安になっていたみたいです。何度も連絡しても返事がないこともあったそうですから」
「あなたは、どう答えたんですか?」
「仕事で遅くなっているだけかもしれない。決めつけずに、本人と話した方がいいんじゃないかって……」
荒木は小さく首を振った。
「でも、奈津子さんは納得できなかったようです」
美咲は考え込んだ。
奈津子が、自宅で見せた一瞬の戸惑い。
洗濯物の中にあった、飯塚には似合わない若い服。
そして、荒木が妻の相談相手だったという事実。
ばらばらだったものが、少しずつつながり始めているように思えた。
「荒木さん。あなたは飯塚さん本人とは、面識があったんですか?」
上野が尋ねた。
「いえ、ありませんでした。少なくとも、奈津子さんの夫が飯塚さんだとは知りませんでした」
「では、事故の日にトラックの運転手と口論になったときも?」
「もちろんです。あのときは、ただ危険な運転をするドライバーだと思っていました」
荒木の声には、苛立ちと後悔が入り交じっていた。
「あのトラックは、こちらに向かってくるように見えたんです。運転もふらついていたし、危ないと思って止めた。それで、文句を言ったんです」
「そのとき、相手が体調を崩しているとは思わなかった?」
「思いませんでした。向こうも怒っているように見えましたから。自分が悪いのに、何を言っているんだって……」
荒木はそこで言葉を切った。
「まさか、そのあと事故に遭うなんて」
美咲は、荒木の顔を見た。
事故の直前に口論していたのは間違いない。
だが、荒木の話が本当なら、彼は飯塚の異変を危険運転だと勘違いして、腹を立てただけということになる。
「では、なぜ今日になって飯塚さんの家を訪ねたんですか?」
上野が核心を突いた。
荒木は一度、目を閉じた。
「事故のあと、ニュースや周囲の話で、あの運転手が亡くなったことを知りました。名前を聞いても、最初はわからなかったんです。でも……」
「でも?」
「奈津子さんの夫だと知ったんです」
荒木は苦しそうに続けた。
「それで、あのとき口論した相手が、奈津子さんの旦那さんだったとわかりました。自分があんなことを言わなければ、少しは違っていたんじゃないかって……。気になって、謝りに来たんです」
「事故の原因があなたにあると思っているんですか?」
「わかりません。でも、あのときのことが頭から離れないんです」
荒木はうつむいた。
「奈津子さんに、何があったのかを聞かれました。だから、事故の直前に口論したことを話しました」
上野は、しばらく荒木を見つめていた。
謝罪に来たという説明に、明らかな矛盾はない。しかし、事故当日のことについて、まだ確認しなければならない点があった。
「荒木さん。もう一つ聞かせてください。事故当日、奈津子さんと何か話しましたか?」
荒木の表情が変わった。
「……はい」
美咲が思わず身を乗り出す。
「何ですか?」
「あの日、旦那さんの帰りが遅いことで昨日から揉めてたそうです」
「浮気を疑って?」
「そうです。奈津子さんは、ずっと不安だったんだと思います。あの日は特に感情的になってしまったと話していました」
「それで、飯塚さんは家を出たんですか?」
「そこまでは、詳しく聞いていません。ただ、奈津子さんは、喧嘩したまま旦那さんを送り出してしまったことを悔やんでいました」
荒木は苦い顔をした。
「もし、もう一度話せるなら、あんな言い方はしなかったって……」
美咲は言葉を失った。
飯塚がなぜあの日、いつも以上に帰宅が遅くなったのか。その理由は、まだはっきりしていない。
だが、夫婦が喧嘩をしていたことは確かだった。
*
「荒木さん。最後に一つ」
上野の声が、静かに響いた。
「あなたは、飯塚さんが亡くなる前に、彼の体調が悪そうだと感じませんでしたか?」
「……いいえ」
荒木は首を振った。
「運転がふらついていたのは覚えています。でも、具合が悪いとは思いませんでした。危ない運転をしているとしか……ただ、何か変なにおいがしてたような。生臭いような、もしかしたら勘違いかもしれません」
「変なにおい?わかりました。今日はありがとうございました」
上野がそう告げると、荒木は何か言いたそうに口を開いた。しかし、結局は何も言わず、頭を下げて去っていった。
その背中を、美咲はしばらく見送っていた。
「刑事さん」
「何ですか?」
「奈津子さんは、旦那さんの浮気を疑っていたんですね」
「ええ。荒木さんの話が事実なら、そういうことになります」
「でも、本当に浮気をしていたかどうかは、まだわからないですよね」
「そのとおりです」
上野はうなずいた。
「疑っていたことと、実際に浮気をしていたことは別です。確認もせずに決めつければ、誤った結論にたどり着くこともある」
美咲は、その言葉を胸の中で繰り返した。
疑い。
思い込み。
善意。
今回の事件には、その三つが複雑に絡み合っているように思えた。
「ただ、気になることが増えましたね」
上野がつぶやいた。
「飯塚さんは、桂川さんとの金銭トラブルを抱えていた。妻とは事故当日に喧嘩をしていた。そして、事故の直前には荒木さんとも口論していた」
「飯塚さん、いろんなことを抱えていたんですね……」
「そうですね。ただ、どれも殺害を裏づける証拠にはなっていません」
上野は、飯塚家の方角を振り返った。
「まだ、わからないことが多すぎます」
事故の直前、飯塚はどんな気持ちでハンドルを握っていたのだろう。
怒りを抱えていたのか。
それとも、早く家に帰って妻と仲直りしたいと思っていたのか。
その答えを知る者は、もういない。
そして、飯塚の死をめぐる謎は、さらに深いところへと入り込んでいった。




