第六話 妻の知らない夫
飯塚孝志の死をめぐる捜査は、少しずつ別の方向へ広がり始めていた。
運行管理者の桂川には、勤務記録を改ざんし、飯塚の配送手当を不正に得ていた事実があった。事故当日にも二人は金銭をめぐって揉めていたという。
しかし、桂川が飯塚に渡したコーヒーからは、毒物を示す決定的な証拠は見つからなかった。
飯塚の体に何が起きていたのか。
その手がかりを求めて、上野真一は飯塚の妻、奈津子に話を聞くことにした。
同行を申し出たのは、美咲だった。
*
「美咲さん、来なくてもいいんですよ」
飯塚の自宅へ向かう道すがら、上野が言った。
「いくら刑事さんでも、未亡人に一人で会いに行くって、奈津子さん警戒しますよ」
「そうですかね」
「そうですよ」
美咲はきっぱりと言った。
上野は納得がいかないという顔で美咲を見た。
「変なこと言わないでくださいよ」
「わかってるって」
「本当にわかってますか?」
「ほら、着きましたよ」
美咲は答えをはぐらかし、玄関の前で足を止めた。
上野は小さくため息をついてから、呼び鈴を押した。
しばらくして、ドアが開いた。
「警察の上野です。先日お話しした件で、もう少しお聞きしたいことがありまして」
奈津子は一瞬、二人の顔を見比べた。それから、静かにうなずいた。
「……どうぞ」
*
居間には、きれいに片づけられたテーブルと、いくつかの写真立てがあった。
飯塚と奈津子が並んで笑っている写真。どこかへ旅行したときのものだろう。二人の表情からは、平凡だが穏やかな夫婦の暮らしがうかがえた。
しかし、その写真の中の飯塚は、もうここにはいない。
奈津子は二人にお茶を出すと、向かい側に腰を下ろした。
「……あの、主人の事故のことですよね?」
彼女は不安そうに上野を見た。
「もしかして、事故ではなかったんですか?」
上野はすぐには答えなかった。
「まだ、はっきりしたことは申し上げられません。ただ、事故の前に、飯塚さんの体に何らかの異常が起きていた可能性が出てきまして」
「体に、異常……?」
「ええ。そこで確認したいのですが、ご主人は何か病気をお持ちでしたか? 持病や、これまでに大きな体調不良を起こしたことなど」
「ないですよ。主人は丈夫な人でしたから」
「食べ物で具合が悪くなったことは?」
奈津子は少し考えた。
「特に、なかったと思います」
「普段から飲んでいる薬や、サプリメントなどはありませんでしたか?」
「ないですよ」
彼女は迷わず答えた。
「主人は、風邪をひいても風邪薬は飲まない人でしたから。少しくらい具合が悪くても、寝れば治るって言って。薬を飲むのは嫌いだったんです」
「そうですか……」
上野は手帳に記録した。
飯塚は事故当日、何らかの薬を飲んでいた可能性もある。だが、少なくとも奈津子は、夫が普段から薬を使っていたとは認識していない。
上野は別の質問に移った。
「事故当日、ご主人はいつもどおりに出勤されたんですか?」
「はい。朝は普通でした。仕事が終わったら帰るって……」
奈津子はそこまで言って、口を閉じた。
「何か、気になることでも?」
「まぁ……ただいつも帰り遅いんですが、主人は仕事が終われば、だいたい連絡をくれる人だったので」
「その日は、連絡がなかった?」
「はい。ありませんでした……」
奈津子は目を伏せた。
「まさか、あんなことになるなんて思いませんでした」
上野は言葉を選びながら、さらに質問を続けた。奈津子は一つ一つ丁寧に答えたが、飯塚の死につながるような話は出てこなかった。
そのときだった。
美咲の視線が、居間の奥へと向いた。
窓際に置かれた洗濯物のかご。その上に、取り込まれたばかりらしい衣類が畳んである。
その中に、少し目立つ服があった。
若者向けのデザインで、色使いも派手だった。飯塚の年齢を考えると、意外に感じる服だった。
美咲は何げない調子を装って尋ねた。
「飯塚さんって、意外と若い格好とかするんですか?」
奈津子の表情が、一瞬だけ止まった。
「えっ? しませんよ」
「あ……」
美咲は自分の失言に気づいたように、慌てて笑った。
「えっ? あっ、そうですね。変なこと聞いてごめんなさい」
奈津子は何も答えなかった。
ほんの数秒の沈黙だった。
しかし、美咲には、その沈黙が妙に長く感じられた。
「何を聞いてるんですか、ったくもう」
上野があきれたように小声で言った。
「すみません……」
美咲は頭を下げたものの、洗濯物から目を離せなかった。
あの服は、本当に飯塚のものなのだろうか。
それとも、別の誰かのものなのか。
考えを巡らせかけたところで、上野が立ち上がった。
「本日はありがとうございました。また何か確認したいことがあれば、ご連絡させていただきます」
「はい……何かわかったら、教えてください」
奈津子は玄関まで二人を見送った。
「主人が、どうして死ななければならなかったのか……知りたいんです」
その声には、悲しみだけではなく、何かを恐れているような響きも混じっていた。
上野は彼女の顔を見つめた。
「わかりました。できる限り、調べます」
*
飯塚の自宅を出た上野と美咲は、最寄りの道路へ向かって歩き始めた。
「美咲さん。さっきの質問、どういうつもりですか?」
上野が歩きながら尋ねた。
「服のことですか?」
「そうです。あんなことを聞いたら、相手も気にするでしょう」
「でも、あの服、飯塚さんのものに見えなかったんです」
「だからといって、いきなり聞くことはないでしょう」
「……すみません」
美咲は素直に謝った。
けれど、どうしても気になっていた。
奈津子は、あの服を見た瞬間に戸惑った。
夫の服ではないと、すぐに答えた。
ならば、誰の服なのか。
考えながら歩いていると、前方から一人の男がやって来た。
男は飯塚の自宅の前で足を止め、玄関の様子をうかがった。
そして、ためらうように呼び鈴を押した。
美咲は男の横顔を見て、思わず立ち止まった。
「あれ……」
「どうしました?」
上野が振り返る。
「上野さん。あの人……」
美咲が言い終える前に、上野も男に気づいた。
事故直前、飯塚のトラックのそばで口論していた男。
荒木だった。
荒木は、まるで何事もなかったかのように、飯塚の家を訪ねていた。
上野の目が鋭くなる。
「……なぜ、荒木がここに?」
事故の前に口論していた男が、なぜ、亡くなった飯塚の自宅を訪ねているのか。
荒木と飯塚の間には、警察がまだ知らない関係があるのかもしれなかった。




