第五話 桂川
牧田吾郎が異変に気づいたのは、飯塚孝志の事故について、野上圭司から話を聞いた数日後のことだった。
飯塚が事故に遭った当日の勤務記録を見直していた牧田は、何度も同じ数字に目を戻した。
「……またか」
記録上、飯塚の拘束時間は十五時間を超えていた。しかも、過去にも同じような記録が複数ある。
長時間勤務そのものも問題だった。しかし、牧田が気になったのは、その記録に不自然な修正が加えられていたことだった。
運行管理者の桂川が、勤務時間を短く見せるように書き換えていたのだ。
牧田は桂川を事務所に呼び出した。
「桂川さん。飯塚の勤務記録について、説明してもらえますか」
桂川は一瞬だけ視線を泳がせた。
「記録の入力ミスですよ。忙しいと、そういうこともありますから」
「三回もですか。それに、配送の割り振りにも不自然な点がある」
「何が言いたいんです?」
「飯塚の担当になっている配送の中に、ほかのドライバーが受け持つはずだったものが何件もある。しかも、飯塚の勤務時間が長くなるような組み方をされている」
牧田は机の上に資料を並べた。
「それだけじゃない。配送手当の精算額にも、説明のつかない差があるんです」
桂川は黙り込んだ。
牧田は目をそらさなかった。
「会社の金に関わることです。今ここで説明してください」
長い沈黙のあと、桂川は深く息を吐いた。
「……少し、金に困っていたんです」
それが、隠されていた事実の始まりだった。
*
桂川はギャンブルに依存していた。
給料が入ると、競馬やパチンコなどに大半をつぎ込んでしまう。負ければ取り返そうと金を使い、次の給料日を待たずに生活費まで失う。借金も膨らんでいた。
そんな桂川が目をつけたのが、配送の割り振りと手当の精算だった。
ほかのドライバーに回すはずの荷物を飯塚に担当させ、追加配送の手当の一部を自分の懐に入れる。記録を操作して勤務時間を短く見せれば、長時間労働の問題も隠せると考えたのだ。
飯塚は人を疑うことが苦手な男だった。
仕事を頼まれれば、多少無理をしてでも引き受ける。後輩が困っていれば、自分の予定を変えて助ける。だからこそ、桂川にとっては都合がよかった。
飯塚は長い間、何も知らなかった。
だが、ある日、ほかのドライバーたちのうわさ話を耳にした。
「飯塚さん、知らないのか? 桂川さん、おまえに回した配送の手当を抜いてるって話だぞ」
最初、飯塚は信じなかった。
しかし、自分の配送記録と手当の明細を照らし合わせるうちに、疑いは確信へと変わった。
飯塚は桂川を問い詰めた。
「俺が引き受けた分の手当、どこに行ったんですか」
「何の話だよ」
「ごまかさないでください。記録を見ればわかります」
桂川は言い逃れを重ねたが、飯塚は引き下がらなかった。
「抜いた分を返してください。何度も言ってますよね」
「だから、今は金がないんだって」
「いつまで待てばいいんですか。返さないなら、会社に報告します」
飯塚の声は怒りに震えていた。
それでも、彼は桂川をすぐに告発することはしなかった。金を返してくれるなら、もう一度だけ信じよう。そんな甘さが、飯塚には残っていた。
しかし、桂川はその優しさに甘え続けた。
*
「事故当日も、二人は揉めていたんですね」
警察署の取調室で、上野真一は桂川に尋ねた。
牧田から事情を聞いた上野は、勤務記録の改ざんだけでなく、飯塚との金銭トラブルについても調べを進めていた。
桂川はうつむいたまま、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
「飯塚さんから、会社に報告すると言われた?」
「言われました。あいつ、本気でした」
「あなたにとっては、知られたくない事実だった」
「そりゃ、そうです。会社に知られたら、ただじゃ済まない」
「それで、事故当日は何を?」
桂川はしばらく黙っていた。
「返すから、と言いました。必ず返すから、もう少し待ってくれって」
「それだけですか?何か渡しましたよね?」
「……コーヒーを渡しました」
上野の目がわずかに鋭くなった。
「コーヒーに何か細工しましたか?」
「自販機で買ったやつですよ。飯塚が怒っていたから、落ち着かせようと思って。あいつは受け取りました」
「何かを入れましたか」
「入れてません!」
桂川は顔を上げた。
「本当です。俺は金を抜いたことはあります。でも、飯塚を殺そうなんて……」
声がかすれた。
「そんなつもりはなかったんです」
上野は表情を変えず、桂川の言葉を記録した。
動機はある。事故当日の口論もあった。被害者に飲み物を渡したという事実もある。
毒物が使われた可能性を捨てきれない今、調べないわけにはいかなかった。
*
その日の午後、上野は鑑識からの報告を受けた。
「コーヒーの容器については、確認できる範囲で調べました。毒物を入れられたと判断できる結果は出ていません」
「飯塚さんの体内から検出された物質との関連は?」
「現時点で、コーヒーに含まれていたものが原因だと裏づける証拠はありません。毒物による死亡と断定できる状況ではないです」
上野は報告書を見つめた。
桂川には、飯塚を黙らせたいと思うだけの理由があった。
しかし、理由があることと、実際に殺害したことは別だ。
コーヒーから決定的な証拠は出ていない。桂川が嘘をついている可能性もあれば、金銭トラブルとは無関係に、飯塚の体に何らかの異変が起きた可能性もある。
「……まだ決めつけるわけにはいかないな」
上野は報告書を閉じた。
桂川の不正は明らかになった。だが、それだけで飯塚の死の真相がわかったわけではなかった。
*
その夜、圭司と美咲は、牧田から一連の事情を聞いた。
「飯塚さん、そんな目に遭ってたんだ……」
美咲は、テーブルの上に置かれたメモを見つめた。
「人がいいから、桂川さんを信じてたんだね。お金を抜かれていたのに、すぐには会社に報告しなかった」
「信じたかったんだろうな」
圭司は低い声で答えた。
「働いた分の金を返してほしい。それだけの話だったはずだ。それなのに、相手が隠していたことを知った途端、命の危険まで考えなきゃならなくなった」
牧田は険しい顔をしていた。
「勤務記録を改ざんしていたことも、配送手当を抜いていたことも、会社として見過ごせません。だが、飯塚が亡くなった理由まで、桂川の不正で説明できるわけじゃない」
「じゃあ、事故当日に飯塚さんが遅くなった理由は?」
美咲の問いに、牧田は一枚の資料を取り出した。
「それを知っているのは、中間だ」
圭司は顔を上げた。
「中間が?」
「あの日、飯塚は本来なら、もっと早く仕事を終えられるはずだった。ところが、中間が配送のミスをして、飯塚に再配送を頼んだらしい。桂川から相談するように言われた、と聞いている」
「つまり、飯塚さんが遅くなったのは、桂川との金銭トラブルだけが理由じゃない……」
美咲は考え込んだ。
飯塚は、金を抜かれていたことに気づき、桂川に返済を迫っていた。その一方で、後輩の中間が困っていると知れば、放っておくこともできなかった。
誰かを責めるより、誰かを助けることを選んでしまう。
それが飯塚という人間だった。
だが、その善意が重なった先に、あの事故があった。
圭司は窓の外へ目を向けた。
「中間に、あの日のことを全部話してもらう必要があるな」
飯塚が最後に何をして、誰と会い、何を口にしたのか。
その答えを知る人物は、まだすべてを語っていなかった。




