第十二話 最後の伝票
いつもの居酒屋。
圭司はカウンター席に座り、冷めかけた料理をつまんでいた。
隣には上野がいる。二人の前には飲み物が置かれていたが、事件が解決したというのに、会話はどこか重かった。
「……これで、一応は解決か」
圭司が呟いた。
「島原剛は逮捕されました。殺害についても、本人の供述と証拠が一致しています」
上野はグラスに手を伸ばした。
「大村智さんを殺害したのは島原です。ただ、事件の背景には、いくつもの事情が重なっていました」
「そうだな。最初から最後まで、ややこしい事件だった」
圭司はため息をついた。
「まさか、俺のトラックが死体置き場にされるとは思わなかったけどな」
「それは本当に、災難でしたね」
「災難で済ませるなよ。牧田には、ちゃんと言っとかないと」
圭司は、テーブルに肘をついた。
「防犯カメラをちゃんと設置しろってな。肝心なところが死角なんて、何のためのカメラだよ」
「牧田さんも、今回の件で考えるところはあるでしょう」
「考えるだけじゃ駄目なんだよ。カメラを増やしてもらわないとな」
上野は苦笑した。
「野上さんのトラックが使われたことについては、私からも牧田さんに話しておきます」
「頼みますよ、刑事さん」
圭司はそう言って、ようやくグラスを手に取った。
そのとき、店の入口から声がした。
「遅くなった!」
美咲だった。
上着を脱ぎながら二人のところへやって来る。
「大学の用事が長引いちゃって。で、事件の話?」
「まあな」
圭司が隣の席を空けた。
「ちょうど、事件の整理をしていたところです」
上野が答えると、美咲は席に座るなり身を乗り出した。
「それで、島原はどうして、わざわざ大村智さん宛ての伝票を残したの?」
上野は一度頷いた。
「島原は、大村さんに嫌がらせをするため、以前から宛名を書いた荷物を送りつけていました。その箱に大村さんの遺体を入れ、さらに圭司さんのトラックへ運ばせたんです」
「嫌がらせに使っていた箱だったんだね」
「はい。伝票に書かれた名前も、偶然残っていたものではありませんでした。島原は、大村さんの名前を意図的に残していました」
圭司が、焼き鳥を皿に戻した。
「皮肉な話だよな」
「皮肉?」
美咲が顔を向ける。
「毎晩、騒音を出して周りを困らせていた大村さんが、最後にはトラックに乗せられた。しかも、そのトラックは、普段から音を出して走るトラックだ」
圭司は苦笑した。
「騒音を出すトラックに、騒音を出す大村智を乗せたってわけだ。宛名まで大村智。島原なりの、歪んだ嫌がらせだったんだろうな」
「……笑えないね」
美咲は表情を曇らせた。
「うん。島原は騒音に悩まされていた。だからといって、殺していい理由にはなりません」
上野の声は、静かだった。
「大村さんが家族に暴力を振るっていたことも事実です。しかし、そのことと島原が殺人を犯したことは、別々に考えなければなりません」
三人の間に、短い沈黙が流れた。
大村智は、妻と娘を苦しめていた。
島原剛は、その騒音と苛立ちを募らせ、ついには人を殺した。
どちらも、誰かの人生を大きく壊していた。
しかし、まだ事件には、明らかになっていないことが残っていた。
上野はグラスを置いた。
「……もう一つ、大村さんについて分かったことがあります」
圭司と美咲が顔を上げた。
「大村さんの私物を改めたところ、琴さん名義の口座が見つかりました」
「琴ちゃん名義の口座?」
美咲が聞き返した。
「はい。琴さんのために、以前からお金を積み立てていたようです。詳しい目的までは分かりませんが、少なくとも、琴さんの将来のために残していたお金だと考えられます」
圭司は、腕を組んだ。
「……自分の子じゃないと分かっても、育てるつもりだったのか」
「その可能性は高いと思います」
上野は手帳を開いた。
「さらに、大村さんの私物から、すでに記入された離婚届も見つかりました」
「離婚届まで?」
美咲が驚いた。
「はい。大村さんは、自分が無精子症であることを知り、琴さんとの間に生物学的な親子関係がないことも分かっていた」
上野は、一度言葉を切った。
「つまり、大村さんは、自分と琴さんが血のつながった親子ではないと知っていたんです」
圭司は、すぐには答えなかった。
「……じゃあ、どうして琴ちゃんを育て続けようとしたんだ?」
「そこまでは分かりません。ただ、琴さん名義の口座が残されていたことを考えると、血のつながりがないからといって、琴さんとの関係をすべて断ち切るつもりではなかったのかもしれません」
美咲は、少し考えてから尋ねた。
「でも、大村智は琴ちゃんに暴力を振るっていたんだよね。自分の子じゃないと分かったから、あんなふうになったの?」
「その可能性はあります。ただ、断定はできません」
上野は首を横に振った。
「大村さんが、いつから何を考えていたのか。なぜ家族への態度が変わっていったのか。そのすべてを、今となっては本人に確かめることができません」
「……そうだな」
圭司は、静かに頷いた。
人は、必ずしも一つの理由だけで変わるわけではない。
怒りも、嫉妬も、失望も、誰かを守りたいという気持ちさえも、複雑に絡み合うことがある。
ただ、大村智が最後まで何を望んでいたのかは、もう分からなかった。
美咲は、ふと思い出したように上野を見た。
「ねえ、上野さん。琴ちゃんの本当のお父さんは、誰だったの?」
上野は、少しだけ表情を引き締めた。
「その件ですが……調べた結果、やはり壱岐康太さんだったようです」
「やっぱり……」
美咲は小さく呟いた。
圭司は眉を寄せた。
「康太さんは、最初から知ってたのか?」
「そこは、慎重に考える必要があります。幸子さんとの関係について、すべてを話しているわけではないようです。ただ、琴さんの実父が壱岐さんであることは、調査結果から確認できました」
上野は続けた。
「大村さんも、その事実を知っていた可能性が高い。自分が無精子症だと分かり、DNA鑑定をしようとしていた」
「……なるほどな」
圭司は、グラスの中身を見つめた。
「じゃあ、琴ちゃんの物がなくなっていたのも、それが関係していたのか?」
「その可能性があります。大村さんは、琴さんの私物を探っていたようです。DNA鑑定に使える検体を探していたのかもしれません。皮膚、髪の毛なども、検体になり得ますから」
美咲が頷いた。
「それで、琴ちゃんのものがなくなっていたんだ……」
「ただし、大村さんが何を採取しようとしたのか、どのような経緯で鑑定を行ったのかについては、まだ分からない部分があります」
上野は慎重に付け加えた。
「壱岐さんを離婚話の席に呼んだのも、何らかの確認をするためだったのかもしれません。そして、離婚届もすでに用意されていた」
「最初から離婚するつもりだったのか?」
圭司が尋ねた。
「その可能性もあります。けれど、離婚届を用意していたからといって、何を考えていたかまでは断定できません」
上野は一度、視線を落とした。
「大村さんが悪い父親を演じていたのか。それとも、事実を知ってから本当に変わってしまったのか。そこは、私にも分かりません」
美咲は、何かを考えているようだった。
「……血がつながっていなくても、父親ではいられるよね」
圭司は娘のほうを向いた。
「そうだな」
「でも、血がつながっていないと分かったとき、それまでの気持ちまで変わっちゃう人もいるのかな」
「変わる人もいるかもしれない。変わらない人もいるだろうな」
圭司は静かに答えた。
「結局、その人がどうするかだよ。血のつながりだけで、家族が決まるわけじゃない」
美咲は、ゆっくりと頷いた。
琴にとって、大村智は父親だった。
暴力を振るう恐ろしい存在でありながら、家族写真の中では一緒に笑っている人でもあった。
そして、壱岐康太は、実の父親であることを知らないまま琴と接してきた。
その事実を知れば、琴はどう思うだろう。
大村智のことを、どう受け止めるのだろう。
答えは、まだ出ていなかった。
圭司は、話を切り替えるようにグラスを置いた。
「……とにかく、牧田には防犯カメラの件を言っておかないとな」
「まだ言うんですか?」
上野が苦笑した。
「当たり前だろ。あの死角がなければ、もっと早く分かっていたかもしれないんだぞ」
「それは確かに……」
「それに、俺のトラックを勝手に使われたんだ。こっちは仕事にも支障が出たんだからな」
美咲が笑った。
「圭司、結局そこ?」
「そこも大事だろ!」
いつもの親子のやり取りに、上野も少しだけ笑った。
事件は解決した。
島原剛は逮捕され、大村智を殺害した理由も明らかになった。
だが、事件の終わりに残されたのは、単純な答えではなかった。
血のつながり。
家族として過ごした時間。
そして、相手を思う気持ちと、相手を傷つけてしまう行為。
それらは、必ずしも同じ方向を向いているとは限らない。
店の外では、夜風が吹いていた。
圭司は立ち上がり、上着を手に取った。
「……帰るか、美咲ちゃん」
「うん」
美咲も席を立った。
上野は二人を見送りながら、ふと呟いた。
「……難しいですね。家族というのは」
圭司は振り返った。
「そうだな。だからって、考えるのをやめるわけにはいかないけどな」
そう言って、圭司は店の扉を開けた。
時間は待ってくれない。
そして、人の心もまた、待っているだけでは分からないことがある。
真実を知ることと、相手を理解することは、同じではないのかもしれなかった。




