第十一話 家族写真
大村家。
午後の光が、居間のカーテン越しに差し込んでいた。
幸子は、テーブルの上に置かれた湯飲みを見つめていた。隣に座る琴は、窓の外へ視線を向けたまま、何も話さない。
夫を失った家には、以前とは違う静けさがあった。
毎晩のように響いていた怒声も、物が壊れる音も、もう聞こえない。
それなのに、二人の表情は晴れていなかった。
玄関のチャイムが鳴った。
幸子が扉を開けると、上野が立っていた。その後ろには圭司と美咲もいる。
「こんにちは。少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
上野の言葉に、幸子は不安そうな顔をした。
「……また、何かあったんですか?」
「島原剛の件で、新しく分かったことがあります。それから、大村さんについても、確認したいことがありまして」
幸子は少し迷ったあと、三人を家の中へ招き入れた。
*
四人は居間に座った。
琴は以前と同じように、上野と目を合わせようとしなかった。
上野は、まず島原剛について説明した。
「島原は、大村さんへの嫌がらせを繰り返していました。そして事件当日、琴さんが大村さんを突き飛ばしたあと、倒れていた大村さんを見つけたそうです」
琴の肩がわずかに揺れた。
「島原は、その場で大村さんに腹を立て、枕で口を塞いで殺害したと供述しています」
幸子は目を伏せた。
「そうですか……」
「遺体が入った段ボールは、あなた方が運び出した荷物に紛れていました。島原は、あなた方が運んでいることを窓から見ていたそうです」
「私たちは、本当に知りませんでした……」
幸子の声が震えた。
「主人が入っていたなんて、思いもしませんでした」
「その点については、島原の供述とも一致しています。あなた方が遺体を運んだと判断しているわけではありません」
上野は静かに言った。
幸子は少しだけ息を吐いた。
美咲は、琴の横顔をそっと見た。
「琴ちゃん」
「……何?」
「もう、自分を責めなくていいんだよ。お父さんを殺したのは、琴ちゃんじゃない」
琴は俯いたまま、膝の上で手を握りしめた。
「でも……私が突き飛ばしたから」
「頭を打ったことと、そのあとに起きたことは別だよ。島原は、自分の意思であの人を殺したんだ」
美咲は、ゆっくりと言った。
「琴ちゃんが怖かったことも、逃げたことも、なかったことにはできない。でも、だからって、殺された責任まで背負う必要はないよ」
琴は唇を震わせた。
「……怖かったの」
誰も口を挟まなかった。
「お父さんが、いつも怒ってて。その日は、もう無理だと思った。押したら倒れて……動かなくなったから、死んだのかと思った。でも、怖くて確かめられなかった」
幸子が娘の肩を抱いた。
「琴……」
「私、逃げちゃったんだよ……」
「もういいの」
幸子は涙をこらえながら、琴を抱きしめた。
「もういいのよ……」
圭司は、二人の姿を黙って見ていた。
人は恐怖の中で判断を誤ることがある。そして一度逃げてしまうと、今度は戻ることもできなくなる。
だが、逃げた人間がすべてを知っているとは限らない。
上野は、二人が落ち着くのを待ってから、話を続けた。
「今日は、もう一つ確認したいことがあります」
幸子が顔を上げた。
「……何でしょうか」
上野は手帳を開いた。
「大村さんの部屋で、時津クリニックの名刺が見つかりました。調べたところ、大村さんはそこで検査を受けていたようです」
幸子の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
しかし、上野は見逃さなかった。
「大村さんは、ご自身が無精子症であることを知っていたようです。」
琴が顔を上げた。
「……」
幸子は何も答えなかった。
上野は続けた。
「その結果、大村さんと琴さんの間には、生物学的な親子関係が認められなかったそうです」
居間が静まり返った。
「……どういうこと?」
琴の声はかすれていた。
幸子は娘を見つめたが、すぐには言葉が出てこなかった。
「お母さん?」
「……ごめんなさい」
幸子の目から、涙が落ちた。
「何が?」
琴は母親の顔を見た。
「何を謝ってるの?」
幸子は唇を噛んだ。
「今は、まだ……うまく話せない」
「どうして? 私のことなんでしょ?」
琴の声が強くなった。
幸子は俯いたまま、何も答えられなかった。
上野が静かに口を開いた。
「琴さん。大村さんが、いつその事実を知ったのかは、まだ分かっていません。ただ、離婚の話し合いに壱岐康太さんが同席することを、大村さん自身が受け入れていた。そこには何か理由があった可能性があります」
幸子の指先が、膝の上で動いた。
琴は、その反応に気づいていた。
「……康太さんが関係あるの?」
幸子は答えなかった。
ほんのわずかに、視線が揺れた。
美咲はその様子を見ていた。
康太は幸子の同級生だと言っていた。以前から相談に乗り、琴と幸子を助けようとしていた。
けれど、離婚の話し合いに立ち会った理由は、それだけだったのだろうか。
圭司も、何かを考えるように腕を組んだ。
「幸子さん。話せない事情があるのは分かります。ただ、それが事件に関係するなら、隠したままにはできません」
幸子は、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かっています」
だが、それ以上は話さなかった。
*
美咲は、棚の上に置かれた家族写真に目を留めた。
幸子と琴、そして大村智。
写真の中の三人は、穏やかな表情を浮かべていた。
「琴ちゃん、お母さんに似てるね」
美咲が言った。
琴は写真を見つめた。
「……そうかな」
圭司は写真に目を向けた。
「外から見ただけじゃ、分からないことだってある」
美咲は少し考えてから、黙って頷いた。
幸子は写真を見つめたまま、静かに話し始めた。
「以前は、家族思いの良い夫だったんです。本当に……。でも、ここ最近、だんだん変わっていって」
その声には、かすかな寂しさがあった。
「主人は、琴が成長するにつれて、いろいろなことを気にするようになりました。顔つきや、仕草や……。私には、何を考えているのか分からなかった」
上野の視線が、幸子に向いた。
「大村さんは、そのころから琴さんとの親子関係を疑っていたのでしょうか?」
「……分かりません」
幸子は首を振った。
「主人が何を考えていたのか、私には分からなくなっていました」
それは嘘ではないように聞こえた。
けれど、すべてを話しているとも思えなかった。
幸子は、家族写真をそっと元の位置に戻した。
「ただ……一緒に暮らしてきた時間まで、全部嘘だったとは思いたくありません」
琴は写真から目をそらした。
「……私にも分からない」
その声には、怒りよりも戸惑いがあった。
智は、自分の実の父親ではなかったのかもしれない。
それでも、琴にとっては、ずっと父親だった。
殴られた記憶もある。
優しかったころの記憶もある。
どちらか一方だけを選んで、もう一方を消すことはできなかった。
*
帰り際、玄関で靴を履いていると、上野が幸子に尋ねた。
「壱岐さんは、大村さんがDNA鑑定の事をご存知だったのでしょうか?」
幸子は、しばらく黙っていた。
「……そこまでは、分かりません」
「昔からのご友人なんですよね?」
「はい」
「琴さんが生まれる前から?」
幸子の手が止まった。
上野は、その反応を見逃さなかった。
「……そうです」
幸子は小さく答えた。
「長い付き合いですから」
それ以上の説明はなかった。
圭司は、玄関の外で待っていた美咲を振り返った。
美咲は、何か考え込んでいるようだった。
「どうした、美咲ちゃん?」
「ううん。何でもない」
そう答えたものの、美咲の頭には一つの疑問が残っていた。
幸子と康太は、ただの同級生なのだろうか。
なぜ、智は康太が同席することを受け入れたのか。
そして、琴の本当の父親は誰なのか。
まだ、確かなことは何も分からない。
上野は幸子に一礼した。
「今日はありがとうございました。また確認したいことがあれば、お伺いします」
「……はい」
幸子は三人を見送った。
扉が閉まる直前、上野は一度だけ振り返った。
幸子は、廊下の奥に視線を向けていた。
その先には、琴の部屋がある。
上野は、何も言わずに歩き出した。
大村智の死によって、家族の秘密が明らかになり始めている。
しかし、誰が琴の実の父親なのか。
そして、その事実を誰が、いつから知っていたのか。
その答えは、まだ誰の口からも語られていなかった。




