第十話 段ボールの中
警察署。
上野は、鑑識から届いた報告書を読んでいた。
大村智宛ての伝票。大村家に送りつけられていた、いくつもの嫌がらせの荷物。
その伝票や荷物に残された文字と、島原剛に関する資料の筆跡を照合した結果、いくつもの特徴が一致していた。
大村家に嫌がらせの荷物を送りつけていたのは、島原剛だった。
「やはり、あの青年か……」
上野は報告書を置いた。
剛は大村家の向かいに住んでいた。さらに、牧田の物流倉庫でアルバイトをしており、事件当日の朝には、壱岐康太と一緒に圭司のトラックから荷物を降ろしていた。
偶然にしては、関係することが多すぎる。
上野は捜査員を呼んだ。
「島原剛の自宅を捜索します。令状の手続きを進めてください。それから、本人にも話を聞きます」
「分かりました」
上野はもう一度、伝票の写真に目を落とした。
そこに書かれていたのは、大村智の名前。
なぜ犯人は、遺体を隠す段ボールに、その名前を残したのか。
その答えが、ようやく見つかるかもしれなかった。
*
島原剛の住むアパート。
上野たちが訪ねると、剛は驚いた様子で玄関に出てきた。
「……警察? 何かあったんですか?」
「島原剛さんですね。大村智さんの事件について、確認したいことがあります」
剛の表情が強張った。
「大村……? あの、向かいの家の人ですか?」
「そうです。あなたは、あの家に嫌がらせの荷物を送っていましたね」
「……何のことですか?」
剛は視線をそらした。
上野は手にしていた資料を見せた。
「筆跡鑑定の結果が出ました。大村さん宛ての伝票や、嫌がらせの荷物に書かれた文字に、あなたの筆跡と一致する特徴が確認されています」
「知りません。俺は何も……」
「では、これから室内を確認させていただきます」
捜査員が室内に入り、捜索を始めた。
机の上には大学受験の参考書が積まれていた。ノートには問題を解いた跡が残っている。部屋の隅には、着替えや日用品がまとめて置かれていた。
どこにでもいる浪人生の部屋。
だが、捜査員が押し入れを確認したときだった。
「上野さん、これを見てください」
捜査員が取り出したのは、一つの枕だった。
上野は、それを見つめた。
「……枕?」
「はい。カバーの柄が、琴さんの部屋で確認したものと一致しています」
上野の目が鋭くなった。
琴の部屋から、枕がなくなっていた。
美咲が何気なく気づいた、あの枕だ。
上野は剛の顔を見た。
「島原さん。この枕は、どうしてここにあるんですか?」
「……拾ったんです」
「どこで?」
「覚えてません」
返事が早すぎた。
上野は枕を証拠品として押収するよう指示した。
さらに、捜査員が段ボールや伝票などの資料を確認していく。
筆跡の一致。
大村家への嫌がらせ。
琴の枕。
そして、物流倉庫で働いていたという事実。
これまで別々に見えていたものが、一本の線になり始めていた。
「島原剛さん」
上野は、静かに声をかけた。
「大村智さんが亡くなった夜、何をしていましたか?」
剛は黙っていた。
窓の外では、アパートの向かいに大村家が見える。
剛はその方向を一瞬見てから、俯いた。
「……何もしてません」
上野は、それ以上その場では追及しなかった。
だが、もう彼をただの近隣住民として見ることはできなかった。
*
警察署での事情聴取は、長時間に及んだ。
最初、剛は何も知らないと言い続けた。
大村家に嫌がらせの荷物を送ったことも、琴の枕を持っていたことも、事件とは関係ないと主張した。
しかし、筆跡の鑑定結果に加え、枕が見つかったこと、事件当日の行動、そして物流倉庫の防犯カメラに残された映像について説明されると、次第に顔色が変わっていった。
「島原さん。あなたは、なぜ牧田さんの物流倉庫で働いていたんですか?」
上野が尋ねた。
「……金が必要だったからです」
「それだけですか?」
剛は答えなかった。
「あなたは倉庫に、トラックの騒音について何度も苦情を入れていますね」
「……うるさかったからです」
「大村家への嫌がらせも、同じ理由ですか?」
剛の口元が歪んだ。
「……あいつらのせいで、勉強できなかったんです」
声が低くなった。
「夜中まで怒鳴り声が聞こえる。物が壊れる音がする。女の叫び声がする。何度も何度も……。こっちは受験があるのに、眠れもしない」
「だから、嫌がらせの荷物を送ったんですか?」
「……そうです」
剛は、ようやく認めた。
「大村智を困らせてやろうと思った。家に荷物が届けば、少しは嫌な気分になるだろうって……」
上野は黙って聞いていた。
「物流倉庫で働いていたのも、そのためだったんですか?」
剛はしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「倉庫のことを知っておけば、いろいろできると思ったんです。トラックの出入りも、荷物の扱いも分かるようになる。あの家への嫌がらせにも使えると思った」
「では、事件当日のことを話してください」
上野が告げた。
剛は両手を握りしめた。
「……あの日も、うるさかったんです」
*
事件当日の夜。
剛は自分の部屋で、受験勉強をしていた。
机の上には参考書が広げられ、ノートには途中まで解いた問題が並んでいた。
しかし、隣の家から聞こえてくる怒声が、何度も集中を途切れさせた。
「いい加減にしろよ……」
剛は鉛筆を置いた。
大村家から、男の怒鳴り声が聞こえる。
続いて、何かが倒れるような音。
女性の叫び声。
剛は耳を塞いだが、声は途切れなかった。
「毎日、毎日、うるせえんだよ……」
とうとう我慢できなくなった剛は、部屋を出た。
大村家へ文句を言いに行くつもりだった。
玄関の近くまで来ると、家の中で激しい物音がした。
剛は窓越しに様子をうかがった。
そこで目にしたのは、琴が父親の智を突き飛ばす場面だった。
智はよろめき、床に頭を打ちつけた。
琴はその場から逃げていった。
しばらくしても、智は起き上がらなかった。
剛は家の中に入った。
「おい……大丈夫か?」
智は床に倒れたまま、反応しなかった。
剛は舌打ちをした。
「……なんだよ。こんなことになるまで騒ぎやがって」
そのとき、智がかすかに身じろぎをした。
ゆっくりと目を開け、剛の顔を見た。
「……誰だ、お前」
「向かいに住んでる者です。毎晩、うるさいんですよ。少しは静かにしてもらえませんか」
智は剛を見て、鼻で笑った。
「お前……あの浪人生か?」
剛の顔が強張った。
「……何ですか」
「一生浪人生、なんだ?」
智は、嘲るように笑った。
「勉強ばっかりして、まだ何にもなれないんだな」
その言葉が、剛の中で何かを切った。
眠れない夜。
終わらない受験勉強。
積み重なった苛立ち。
そして、自分を見下す男の笑い声。
「……うるせえ」
剛は呟いた。
「うるせえんだよ!」
智が何かを言い返そうとした、その瞬間だった。
剛は近くにあった枕をつかみ、智の顔に押しつけた。
「黙れ……黙れよ!」
智は抵抗しようとしたが、頭を打った影響もあったのか、十分に動けなかった。
剛は、枕を押さえ続けた。
やがて、智の動きが止まった。
部屋が静かになった。
剛は枕を離した。
「……え?」
智は、もう動かなかった。
剛は後ずさった。
「嘘だろ……」
自分が何をしたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、目の前の男が息をしていないことだけは分かった。
剛は震える手で枕を拾い上げた。
このままでは、自分が殺したことが知られてしまう。
剛は、玄関の裏手に置かれていた大きな段ボール箱に目を向けた。
そして、智の体を箱の中に隠した。
枕は持ち帰ることにした。
自分の部屋に戻り、押し入れの奥にしまった。
何もなかったことにしたかった。
だが、事件は、そこで終わらなかった。
*
剛は翌朝のことを、震える声で話し始めた。
「……窓から見ていたら、幸子さんと壱岐さんが、台車で荷物を運んでいたんです」
上野は黙って聞いていた。
「大村家から、何箱も運び出していた。僕は、あの二人が逃げる準備をしているんだと思いました」
「その中に、智さんが入った段ボールもあったんですね?」
「……はい」
剛は俯いた。
「二人は、箱の中身を知らずに運んでいたんだと思います。僕が隠した箱も、ほかの荷物に混ざっていた」
「そして、その箱は野上さんのトラックに積まれた」
「はい……」
上野は、防犯カメラの映像を思い出した。
島原が圭司のトラックを何度も止め直させていたこと。
その間に、荷台の中へ入っていたこと。
そして、一緒に荷物を降ろしていたこと。
すべてがつながった。
「次の日、壱岐さんが荷物を降ろすと聞いて、あなたも手伝ったんですね?」
「……そうです」
剛は声を絞り出した。
「手伝うと言って荷台に入りました。それで、箱を奥に押し込んだんです。ほかの荷物の陰になるように……」
「なぜ、そんなことを?」
「……怖かったんです」
剛は顔を覆った。
「そのまま見つかったら、僕がやったことが分かる。だから、箱を残したままにしたんです」
剛は、しばらく黙っていた。
「……あいつのことが、許せなかったんです」
やがて、低い声で答えた。
「毎晩、騒いでいた。人の生活を壊しておいて、何も気にしていない。」
それは、犯行を隠すための細工であると同時に、智に対する歪んだ嫌がらせでもあった。
自分を苦しめた男を、最後まで荷物のように扱う。
剛は、そう考えたのだった。
上野は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「島原剛さん。あなたを、大村智さん殺害の容疑で逮捕します」
捜査員が剛のそばへ進んだ。
剛は抵抗しなかった。
ただ、俯いたまま、何度も小さく呟いていた。
「……うるさかったんです。ずっと、うるさかったんです……」
*
事件の真相が明らかになったあと、上野は圭司と美咲に連絡を入れた。
牧田の物流倉庫に、二人が来ていた。
「島原剛が逮捕されました」
上野の言葉に、圭司は静かに頷いた。
「……やっぱり、あの青年だったか」
「ええ。あなたのトラックに遺体が残されていた理由も分かりました。壱岐さんたちは、荷物を運んだだけだったんです。遺体が入っているとは知らなかった」
美咲は、窓の外に目を向けた。
道路の向こうには、大村家が見える。
「騒音が嫌だったからって、殺していいわけじゃないのに……」
「もちろんです」
上野ははっきりと答えた。
「大村さんの暴力が許されることではないのと同じように、島原の行為も許されることではありません」
圭司は、しばらく黙っていた。
智は、家族に暴力を振るっていた。
剛は、その怒声に耐えられず、嫌がらせを繰り返した。
そして、たった一言の侮辱をきっかけに、取り返しのつかないことをした。
「……人間ってのは、怖いな」
圭司が呟いた。
「自分が何をしているのか、分からなくなることがあるんだろうな」
美咲は父親の横顔を見た。
「でも、圭司。まだ全部分かったわけじゃないよね」
「何がだ?」
「大村智さんのこと。時津クリニックの名刺が出てきたんでしょ?」
上野は、少し表情を引き締めた。
「……その件は、まだ調べているところです」
智がなぜ離婚話に応じたのか。
幸子と康太が、何を隠していたのか。
琴は、本当は何を知っていたのか。
島原剛は逮捕された。
だが、大村家に残された秘密は、まだすべて明らかになったわけではなかった。
事件の終わりは、別の謎の始まりでもあった。




