第九話 死角
時津クリニック。
上野は診察室の向かいにある面談室で、医師と向かい合っていた。
机の上には、大村智に関する資料が置かれている。
「大村さんは、こちらに通院されていたんですね」
「はい。ご本人から相談を受けていました」
医師は慎重に言葉を選びながら答えた。
「大村さんは、検査によって、ご自身が無精子症であることを知りました」
上野は顔を上げた。
「無精子症……」
「はい。精液中に精子が確認されない状態です。詳しい原因については、検査内容によって異なりますが、大村さんはその結果に強い衝撃を受けていたようです」
上野は手帳に書き留めた。
「大村さんと娘さんの間に、生物学的な親子関係は認められないということですね」
琴は大村智の娘として育てられてきた。
しかし、智は実の父親ではなかった。
「大村さんは、その事実を知っていたということですね」
「はい。少なくとも、ご本人はそう認識されていました」
上野は、これまでに聞いた話を頭の中で整理した。
幸子と琴に対する暴力。
日に日に激しくなっていった怒声。
そして、事件の前日に行われた離婚の話し合い。
智は、その場で幸子の知人である壱岐康太が同席することを受け入れていた。
なぜ、そこまで素直に応じたのか。
上野は、その理由がようやく見えた気がした。
「大村さんは、壱岐さんについても調べようとしていたのでしょうか?」
医師は少し考えた。
「詳しいことまでは存じません。ただ、ご本人は、ご家族に関する疑問を確かめようとしていたようです」
上野は頷いた。
智は、琴が自分に似ていないことを疑い始めた。
やがて、自分が無精子症であると知り、琴との親子関係がないと判明した。
その結果を受け、幸子のそばにいる壱岐康太に疑いを向けたのではないか。
離婚の話し合いに康太が同席することを認めたのも、彼の反応を確かめ、DNA鑑定をしようとしたかもしれない。
だが、まだ分からないことがある。
智は、その事実を幸子に伝えていたのか。
琴の父親は誰か
そして、事件の夜、何が起きたのか。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
上野は資料を閉じた。
クリニックを出ると、空を見上げた。
事件の背景に、これまで見えていなかった家族の秘密があった。
しかし、秘密が明らかになったからといって、殺人の真相まで分かったわけではない。
上野はスマートフォンを取り出し、次の調査先へ連絡を入れた。
*
同じころ。
牧田の物流倉庫では、圭司と美咲が再び防犯カメラの映像を確認していた。
「この映像、もう一度、朝のところから見せてくれ」
圭司が牧田に頼んだ。
「何度見ても、同じだと思うけどな」
「いいから。気になるところがあるんだよ」
牧田は肩をすくめ、再生位置を戻した。
画面の中で、圭司のトラックが車庫の奥からプラットホームへ移動してきた。
「あ、ここだ」
美咲が画面を指さした。
トラックをプラットホームにつけようとしたらバイト生が、慌てた様子で外に出てきた。
バイト生は手を振って合図を送り、一度トラックを止めさせた。
位置を直すように指示し、再び動かす。
それでも納得しなかったのか、もう一度、停止と位置の調整を繰り返させた。
「……二回もやり直してる」
美咲が呟いた。
「普通、あそこまで何度も直させるか?」
圭司は画面から目を離さなかった。
トラックが動いている間、バイト生は荷台のほうへ回り、一時的にその中へ入っていた。
そして、少ししてから出てくる。
その後、康太は倉庫のアルバイト生と一緒に荷物を降ろし始めた。
二人は、荷台から荷物を取り出し、倉庫側へ運んでいく。
これまで康太が話していたことと、証言は一致していた。
「壱岐さんは、確かに荷物を運び出してるね」
美咲が言った。
「ああ。ただ……」
圭司は腕を組んだ。
「トラックを止め直させてる間、わざわざ荷台に入ったのが気になる」
「何かを確認していたのかな?」
「さあな。そこまでは映像じゃ分からん」
圭司は首を振った。
カメラの角度では、荷台の奥までは見えない。
バイト生が中で何をしていたのか、何を確認していたのか。
映像だけでは判断できなかった。
やがて、荷物を降ろし終えたバイト生が、牧田に挨拶をして倉庫を出ていった。
圭司は窓の外を見た。
「あの子、歩いて帰るのか?」
「ああ。あいつ、そこのアパートに住んでるらしい」
牧田は道路の向こうを指さした。
そこにあるのは、大村家の向かい側のアパートだった。
美咲は、アパートを見つめたあと、牧田に尋ねた。
「ふーん。名前は?」
「なんだよ、ただのバイト生だぞ」
牧田は不思議そうな顔をした。
「島原剛。浪人生で、大学受験に向けて頑張ってるんだよ」
「島原剛……」
美咲は、その名前を口の中で繰り返した。
圭司もまた、アパートから目を離さなかった。
大村家の向かいに住む浪人生。
物流倉庫でアルバイトをしている。
そして、事件当日の朝、壱岐康太と一緒に圭司のトラックから荷物を降ろしていた人物。
それだけなら、何もおかしくはない。
しかし、圭司には、どうしても引っかかるものがあった。
康太は、荷台から荷物を降ろしたと説明した。
それ自体は防犯カメラにも映っている。
けれど、トラックを何度も止め直させたこと。
その間に、わざわざ荷台へ入っていったこと。
そして、荷物を降ろしたあと、アルバイト生は何事もなかったように歩いて帰っていったこと。
圭司は牧田に向き直った。
「なあ、牧田。あの子の履歴書、貸してもらえないか?」
「はあ?」
牧田は目を丸くした。
「履歴書だよ。コピーでいいから」
「ダメに決まってるだろ。個人情報だぞ」
「そこを何とか」
「何とかじゃない。何に使うつもりだ?」
圭司は少しだけ言葉に詰まった。
「……事件に関係があるかもしれない」
「かもしれない、だけで履歴書を渡せるかよ」
牧田は首を横に振った。
すると、美咲が牧田の袖をつかんだ。
「牧田さん、お願い。お願い!」
「おいおい、美咲ちゃんまで……」
「ほんの少し確認したいだけなの。何か分かるかもしれないでしょ?」
牧田は二人の顔を交互に見た。
圭司は真剣だった。
美咲も、いつもの冗談めいた表情ではなかった。
「……なんかあったら、お前らのせいにするからな」
「分かった」
圭司は即答した。
「本当に分かってるんだろうな?」
「分かってるって」
牧田はため息をつきながら、事務所の机へ向かった。
しばらくして、履歴書のコピーを持って戻ってきた。
「ほら。扱いには気をつけろよ」
「助かる」
圭司は受け取ったコピーに目を落とした。
名前、年齢、住所、学歴。
そこには、島原剛についての基本的な情報が記載されていた。
圭司はスマートフォンを取り出し、上野に電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、上野が応答した。
『野上さん? どうしました?』
「刑事さん。今、ちょっと気になることが分かった」
『気になること、ですか?』
「島原剛っていう、倉庫で働いてるアルバイト生がいるんだ。大村家の向かいのアパートに住んでるらしい」
電話の向こうで、上野が黙った。
「美咲が履歴書のコピーを送るから、調べてくれないか?」
『島原剛……』
上野は、その名前を繰り返した。
大村家の向かいに住む浪人生。
物流倉庫で働くアルバイト生。
そして、事件当日の朝、壱岐康太と一緒に圭司のトラックから荷物を降ろしていた人物。
上野は、手帳を開いた。
『分かりました。資料を確認したうえで、こちらでも調べてみます』
「頼むよ」
電話を切った圭司は、美咲を見た。
「何か引っかかるんだよな、あの子」
「うん。まだ何も分からないけどね」
美咲は、もう一度、画面に映ったトラックを見つめた。
荷台に入ったバイト生。
荷物を降ろした康太。
そして、カメラの死角。
映像に映っていることだけでは、すべてを説明できない。
圭司は、ゆっくりと息を吐いた。
「時間は待ってくれない、か……」
いつもの言葉を呟いた圭司の目は、もう笑っていなかった。
事件の輪郭は、少しずつ変わり始めていた。




