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美咲のオヤジの配達記録簿  作者: 空雨 素志


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第十一話 かけ間違い


 翌日の午後。


 301号室には、これまでとは違う静けさがあった。


 家具は元の位置に戻されている。

 窓から差し込む午後の光も、事件が起きたあの日と変わらない。


 それなのに、この部屋だけが、まだ時間の途中に取り残されているようだった。


 部屋の中央に、上野が立っていた。


 その前に、小城咲と唐津大吾。


 少し離れた場所には、上峰拓郎と順子が並んでいる。


 圭司と美咲も、その場にいた。


 全員が揃ったところで、上野はゆっくりと口を開いた。


「今日は、この事件について分かったことを、すべてお話しします」


 誰も答えなかった。


 咲は大吾の隣で、両手を膝の上に置いている。


 大吾も、何かを察しているのか、黙っていた。


 上野はまず、上峰夫妻の方を向いた。


「その前に……お二人には、改めて紹介しておきます」


 そして、大吾を見る。


「こちらが、唐津大吾さんです」


 一瞬だった。


 順子の目が大きく開いた。


 拓郎も、息を呑んだように大吾を見つめる。


 目の前に立っている男は、五年前から二人の中に残り続けていた名前――唐津武雄の息子だった。


「……初めまして」


 大吾が頭を下げる。


 拓郎は返事ができなかった。


 順子も、ただ見つめている。


 上野は続けた。


「今回、301号室で亡くなった男性は、唐津大吾さんではありません」


 静かな声だった。


「亡くなったのは、神崎二郎という人物です」


 咲の肩が小さく震えた。


 大吾は目を伏せる。


 圭司は、部屋の隅に視線を移した。


 この部屋にいた「死者」は、最初から違う人物だった。


 それだけで、これまで見てきた事件の景色が、少しずつ変わっていく。


 上野は、捜査員が持ってきた茶色い熊のぬいぐるみを机の上に置いた。


「次に、これです」


 咲が熊を見る。


 大吾も見る。


 二人とも、少しだけ困ったような顔をした。


「……これ、部屋にありましたよね」


 咲が言った。


「ええ」


 大吾が続ける。


「俺は、咲が置いたものだと思ってました」


 咲も頷いた。


「私も……大吾が置いたんだと思ってました」


 上野は首を横に振った。


「どちらも違います」


 熊の右目を指す。


「これは、神崎二郎が置いたものです」


 咲の顔色が変わった。


「……神崎が?」


「はい」


 美咲が熊を見つめる。


「右目に仕掛けてあったのは、隠しカメラです」


 上野が頷く。


「それだけではありません」


 テーブルの上に、小さな機器がいくつか並べられる。


「室内から、複数の盗聴器も見つかりました」


 咲は息を呑んだ。


「……じゃあ」


 声が震える。


「神崎は、ずっと……?」


「はい」


 上野の返事は短かった。


「あなたへのストーカー行為は、終わっていませんでした」


 咲は俯いた。


 大吾が、そっと咲の手に触れる。


 咲はその手を握り返した。


「大吾と付き合い始めてから……もう来なくなったと思ってた」


「神崎は、姿を見せなくなっただけです」


 上野が言う。


「その代わり、あなたの生活を監視していた」


 咲は目を閉じた。


 知らないところで見られていた。


 聞かれていた。


 それだけで、あの部屋が急に知らない場所のように感じられた。


 上野はモニターの電源を入れた。


「そして、このカメラには事件当日の映像が残っていました」


 部屋の照明が少し落とされる。


 画面に、301号室の中が映し出された。


 咲が帰ってくる。


 玄関の扉が開く。


 そして、そのあとから神崎が入ってくる。


 咲の顔が強張った。


 画面の中の自分を見つめる。


 神崎は何かを話している。


 音声は少し途切れ途切れだったが、言葉は聞き取れた。


「もう一度、俺とやり直そう」


 咲は首を横に振る。


「嫌です」


 神崎が近づく。


「少しだけでいいから、話を聞いてくれ」


「帰ってください」


「咲――」


 神崎が腕を伸ばす。


 咲が身を引く。


 二人の距離が一気に縮まった。


 そして、もみ合いになった。


 椅子が音を立てる。


 咲が神崎を振り払う。


「離して!」


 咲が、とっさに神崎の胸元を強く押した。


 神崎の身体が後ろへよろめく。


 次の瞬間――


 後頭部が床にぶつかった。


 鈍い音がした。


 神崎の身体から力が抜ける。


 そのまま、動かなくなった。


 画面の中の咲が、呆然と神崎を見つめる。


「……神崎?」


 返事はない。


 咲が一歩近づく。


 しかし、恐怖が先に立った。


 そのまま部屋を飛び出していく。


 扉が閉まる。


 画面の中には、床に倒れた神崎だけが残った。


 しばらくしても、動かない。


 美咲が小さく息を吐いた。


「……気絶してる」


「はい」


 上野が答える。


「司法解剖で見つかった頭部の傷は、このときにできたものです」


 圭司が画面を見つめた。


「あの傷は、殴られたものじゃなかったんだな」


「そうです」


 上野は頷いた。


「神崎二郎は、咲さんに突き飛ばされて頭を打ち、そのまま気を失っていました」


 咲は、震える指を膝の上で組んだ。


「あのとき……死んだと思ったわけじゃありません」


 誰に言うでもなく、呟いた。


「でも、怖くて……」


 画面が再び動き出す。


 咲が部屋を出たあと。


 しばらくして、玄関の向こうに人影が現れた。


 ドアが開く。


 入ってきたのは――


 荷物を持った上峰拓郎だった。


 順子の表情が変わる。


 拓郎は室内を見回し、床に倒れている男に気づく。

 「大丈夫ですか?」

 一瞬、動きを止めた。その先には唐津武雄の遺影。


 そして、神崎の顔を覗き込む。

 反応はない。


 拓郎は、その男を見て――


 唐津大吾だと思った。


 上野が映像を止める。


「ここです」


 全員が画面を見る。


「上峰さんは、倒れている男性を唐津大吾さんだと思いました」


 拓郎は目を閉じた。


「……はい」


やがて、部屋を見回し始める。

 落ちていたものを拾う。


 小さな髪留めだった。しばらく、その小さな髪留めを手のひらの上で見つめている。


 映像の中の拓郎は、髪留めをポケットに入れた。


 映像が止まった。


 上野は、部屋にいる全員を見渡した。


「ここからが、今回の事件を大きく変えた誤解です」


 そう言うと、上野は上着のポケットから透明な証拠袋を取り出した。


 中には、あの髪留めが入っている。


「これが、上峰家のゴミから見つかった髪留めです」


 上野は、順子の前に差し出した。


「あなたのですか?」


 順子は、証拠袋の中をじっと見つめた。

 しばらくして、小さく頷く。


「……いや、似ているけど違います。」


「この髪留めは、小城咲さんのものです」


 咲が小さく頷いた。


「……はい」


 拓郎は何も言えなかった。


 その表情だけで、圭司には分かった。


 拓郎は、あの日――


 この髪留めを順子のものだと思った。


 それが、すべての始まりだった。


 上野が続ける。


「小城さんは、事件当日に神崎二郎ともみ合った際、この髪留めを落とした可能性があります」


「だから……」


 美咲が呟く。


「拓郎さんは、順子さんのものだと思ったんだ」


 上野が頷く。


「はい」


 拓郎は俯いた。


「似てたんです……」


 誰に言うでもなく、呟く。


「順子がいつも使ってるものと……本当に、よく似てた」


 順子は夫を見つめた。


「だから、私だと思ったのね」


 拓郎はゆっくり頷いた。


「あの部屋に、その髪留めが落ちていた」


「そして、床には……大吾だと思った男が倒れていた」


「はい」


「だから――」


 順子の声が震える。


「私が大吾さんを殺したと思った」


「……ああ」


 拓郎は小さく答えた。


 上野は、映像を再び再生した。


 拓郎が神崎を見つめている。


 その視線が、部屋の奥へ移る。


 唐津武雄の遺影。


 写真の前に置かれた香炉。


 そして、床に倒れている男。


 拓郎は、もう一度男の顔を見る。


「……大吾」


 映像の中で、そう呟いていた。


「五年前の事故のことが、頭の中に浮かんだんだと思います」


 上野が言う。


「上峰さんにとって、唐津大吾さんは、妻が長い間憎んできた相手の息子だと思っていた」


「そして、その男が自宅の近くに部屋に住んでいる」


 圭司が言った。


 拓郎は俯いたまま、黙っている。


「あなたは、順子さんが大吾さんを殺したと思った」


 上野が続ける。


「そのあと、どうしたのか」


 映像が再び流れる。


 拓郎は床に倒れている神崎のそばにしゃがみ込む。


「おい……」


 肩を揺する。


 反応はない。


 その顔を、じっと見つめる。


 そして、立ち上がった。


「……順子を守らなきゃ」


 映像に、かすかな声が残っていた。


 順子の目に涙が浮かぶ。


「私を……」


 拓郎は答えなかった。


 ただ、映像の中の自分を見ている。


 拓郎は神崎の身体を持ち上げた。


 ベランダへ向かう。


「ここで、あなたは事故に見せようと考えた」


 上野が言う。


「はい」


 拓郎が答える。


「順子が殺人犯にならないように……そう思ったんです」


 圭司は、拓郎の横顔を見た。


 善悪を判断するには、あまりにも単純ではない。


 妻を守ろうとした。


 だが、そのために別の人間の命を奪った。


 そして、その出発点にあったのは――


 一つの勘違いだった。


 映像の中で、拓郎はベランダに踏み台を置いた。


 神崎を抱えたまま、その上に乗せる。


 そして――


 身体を押し出した。


 神崎の姿が、画面から消える。


 咲が息を呑んだ。


 大吾は黙って画面を見ていた。


 上野は映像を止める。


「神崎二郎は、ここで死亡しました」


 美咲が言う。


「咲が突き飛ばして、床に頭をぶつけて気絶していた」


「はい」


 上野が答える。


「その後、上峰さんが運び、ベランダから転落させた」


 つまり――


 咲は神崎を殺していない。


 だが、神崎が倒れたきっかけを作ったのは咲だった。


 拓郎は、その男を大吾だと勘違いした。


 そして、順子が殺したと勘違いした。


「……俺は」


 拓郎が言った。


「本当に、順子がやったと思ったんです」


 順子が涙を拭う。


「私も……」


 拓郎が順子を見る。


「俺が301号室から出てくるところを見たんだろ」


「うん」


「だから、俺が大吾を殺したと思ったのか」


「……そう」


 順子は小さく頷いた。


「あなたが、私の言葉を聞いて……」


 声が震える。


「私のために、人を殺したんだと思った」


「違う」


 拓郎が首を振る。


「お前を守ろうと思った。でも……」


 その先の言葉は続かなかった。


 上野が二人の間に視線を落とす。


「お二人とも、相手を犯人だと思いながら、その相手を守ろうとしていたんですね」


 二人は何も言えなかった。


 圭司は、静かに息を吐いた。


「……お互いを思ってたのに、お互いのことを一番間違えてたんだな」


 美咲が圭司を見る。


「そうだね」


 上野は、拓郎の前へ歩み寄った。


「上峰拓郎さん」


 拓郎が顔を上げる。


「あなたには、神崎二郎さんをベランダから転落させ、死亡させた行為について事情を聞く必要があります」


 拓郎は静かに目を閉じた。


 やがて、ゆっくりと頷く。


「……分かりました」


 上野が捜査員に目を向ける。


 捜査員が拓郎の両側に立つ。


 順子が立ち上がった。


「あなた……」


 拓郎が振り返る。


「ごめんな」


 順子の目から涙がこぼれた。


「私こそ……」


 拓郎は、それ以上何も言わなかった。


 そのまま、捜査員とともに301号室を出ていく。


 扉が閉じた。


 残された部屋には、重い沈黙が落ちる。


 咲が小さく息を吐いた。


「……ずっと、監視されてた」

 熊のぬいぐるみを見る。


 その右目に仕込まれていた小さなカメラ。

 誰にも気づかれず、神崎はこの部屋を監視していた。


 大吾が咲の肩に手を置く。

「もう、終わった」


 咲は小さく頷いた。





 誰もが、自分の見たものを自分なりに解釈した。


 そして、その解釈が少しずつずれていった。


 圭司は、ぽつりと呟いた。


「一つの勘違いが、次の勘違いを生む……か」


 美咲が隣で笑った。


「今回は、ほんとにそれだったね」


 圭司は熊のぬいぐるみに目を向けた。


 もう、その右目が怖いとは思わなかった。


 ただ、そこに映っていたものが、誰にも見えなかったことが怖かった。


 そして――


 その見えなかったものが、すべての誤解を終わらせたのだった。



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