第九話 夫婦の疑い
翌日の夜。
310号室。
上峰順子は、ソファに座ったまま動かなかった。
テレビはついている。
だが、内容は何も頭に入ってこない。
時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
ガチャリ。
玄関のドアが開いた。
「……ただいま」
拓郎だった。
順子は顔を上げた。
「おかえり……」
それだけだった。
拓郎も、それ以上は何も言わない。
靴を脱ぎ、リビングへ入ってくる。
二人の間に、妙な沈黙が流れた。
以前なら、こんなことはなかった。
仕事から帰れば、今日あったことを話す。
夕食を食べながら、くだらないテレビの話をする。
そんな普通の夫婦だった。
それが今は――
同じ部屋にいるだけで、息苦しい。
順子は夫の顔を見た。
疲れているように見える。
だが、その目はどこか落ち着かない。
「……警察」
順子が言った。
拓郎が振り向く。
「ん?」
「今日も来たの?」
「ああ」
「何を聞かれたの?」
「事件のことだよ」
「……そう」
順子はそれ以上聞かなかった。
拓郎も何も話さない。
だが、二人の頭の中には、同じ部屋が浮かんでいた。
――301号室。
*
拓郎は、一人になると、窓の外を見た。
五年前。
唐津武雄。
失った子供。
そして、あの日の夕食。
順子が言っていた。
――唐津武雄の息子に会ったら許せる自信がない
そして自分は、冗談半分に言った。
――反射的に殺してしまうかもな。
あの言葉が、頭から離れない。
もし、順子が大吾を見たとしたら。
もし、あの顔を見てしまったとしたら。
感情を抑えられなかったとしても、おかしくない。
拓郎は目を閉じた。
あいつは、本当に何かしたのか?
順子を守らなくてはならない
「……俺が何とかするしかない」
拓郎は、そう思った。
*
一方、リビングでは。
順子が、一人で座っていた。
彼女の頭の中にも、同じ301号室が浮かんでいる。
あの日。
スーパーから帰ってきたときだった。
マンションの廊下で、見覚えのある後ろ姿を見た。
あれは拓郎だった。
301号室で見た。
順子は足を止めた。
「……あなた?」
声をかけようとした。
だが、拓郎は気づかなかった。
そのまま、310号室へ戻っていった。
順子は、そのとき何も考えられなかった。
301号室。
唐津大吾。
そして――
五年前の事故。
胸の奥が締めつけられた。
もしかしたら。
拓郎が――
順子は首を横に振った。
そんなはずはない。
でも。
もし、大吾を見つけた拓郎が、自分の言葉を思い出していたとしたら。
「反射的に殺してしまうかもな」
あの言葉。
あれは冗談だった。そう思いたい。
順子は両手を強く握った。
「……あなたが?」
声には出さなかった。
ただ、その可能性だけが消えない。
*
その夜。
食卓には、ほとんど料理が残っていた。
二人とも、ほとんど食べていない。
「……拓郎」
「ん?」
「301号室に……行った?」
その瞬間。
拓郎の手が止まった。
だが、すぐに普通の顔に戻る。
「……何で?」
「いや」
順子は俯いた。
「なんとなく」
「行ってない」
短い答えだった。
順子は夫の顔を見た。
嘘だ。
そう思った。
でも、問い詰めることはできない。
拓郎もまた、順子の顔を見ていた。
「……順子」
「なに?」
「お前、301号室に行ってないよな?」
順子の心臓が跳ねた。
「……どうして?」
「いや」
拓郎は目を逸らした。
「何となくだ」
二人とも、それ以上は聞かなかった。
聞けば、何かが壊れる気がした。
*




