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美咲のオヤジの配達記録簿  作者: 空雨 素志


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第八話 帰ってくる


翌日の夕方。


301号室の前には、まだ警察官が立っていた。

捜査員が出入りし、廊下には緊張した空気が残っている。


そのとき、一人の男がマンションの廊下を歩いてきた。

旅行用のバッグを肩にかけている。


疲れた顔をしながら、301号室の前で足を止めた。


鍵を取り出す。


「……何だ?」


男は、部屋の前に立つ警察官を見た。


「すみません。ここ、俺の部屋なんですけど」


警察官が近づいた。


「ちょっと待ってください」


「え?」


「あなた、誰ですか?」


男は怪訝そうな顔をした。


「誰って……」


301号室を指差す。


「俺の部屋で、何があったんですか?」


そして、少し焦ったように続けた。

「咲は?...どこですか?」


警察官同士が顔を見合わせる。


「身分証を見せてもらえますか?」


「何で?」


「確認させてください」


男は怪訝そうにしながら、財布から運転免許証を取り出した。

警察官が受け取る。


そこには、はっきりと名前が書かれていた。


――唐津大吾。


警察官の表情が変わった。


「……唐津、大吾さん?」


「そうです」


一瞬、誰も言葉を発しなかった。


301号室で倒れていた男。


その身元として、ずっと追っていた名前。


唐津大吾。


「何かあったんですか?」


大吾が聞く。


警察官は慎重に答えた。


「実は、この部屋で男性が転落する事件がありまして」


「男?」


「亡くなっています」


大吾の顔から表情が消えた。


「……え?」


「確認させてください。あなたは、この部屋の住人で間違いありませんね?」


「はい」


「では、亡くなった男性は、あなたではない?」


「当たり前でしょう」


大吾の声が強くなる。


「俺、ずっと出張だったんですよ」


「どちらへ?」


「東京です。子供向けのアパレル関係の仕事をしています。展示会があって、何日か出張してました」


警察官は手帳に書き込んだ。


「いつ戻ったんですか?」


「さっきです」


大吾は301号室を見た。


「ここで、何があったのか説明してください!」


そして、もう一度。


「咲は、どこにいるんですか!?」


警察官は少し迷った。


「小城咲さんは、病院に搬送されています」


「病院?」


大吾の顔色が変わった。

「大丈夫なんですか?怪我は?」


「命に別状はありません。ただ、かなりショックを受けています



「……早く会わせてください!」


          *


その夜。


上野は、唐津大吾を病院へ連れて行った。


病室の扉が開く。

ベッドの上で横になっていた咲が、ゆっくり顔を上げる。


そして――


大吾の姿を見た。

一瞬、目を見開いた。


「……大吾?」


大吾は何も言わなかった。


ただ、咲を見つめた。


「咲」


その声を聞いた瞬間だった。


咲の目から、涙が溢れた。


「大吾……」


咲は顔を手で覆った。


「よかった……」


声が震えている。


「生きてた……」


大吾が近づく。


「何があった?」


咲は泣きながら首を振った。


「分からない……」


「俺が出張に行ってる間に、何があった?」


咲は答えられなかった。


上野は少し時間を置いた。


咲の呼吸が落ち着くのを待ってから、椅子をベッドの横へ移した。

「小城さん。ゆっくりでいいんで、もう一度、事件当日のことを確認させてください」


「……はい」


「急がなくて大丈夫です。思い出した順番で話してください」


咲は小さく頷いた。


「まず……コンビニに行ってました」


「いつごろですか?」


「お昼過ぎです」


「一人で?」


「はい」


「そのあと、301号室に戻った」


「はい」


咲はそこまで話して、少し黙った。


「……戻ったら」


上野が待つ。


「部屋に、神崎がいました」


「神崎二郎さんですね?」


「……はい」


咲の顔が強張った。


「以前、付き合ってた人です」


大吾が静かに咲を見る。


「別れてからも、何度も連絡がきてました」


「ストーカー行為をされていた?」


「……はい」


咲は俯いた。


「大吾と付き合い始めてからは、もう来なくなったと思ってたんです。だから……忘れてました」


「でも、事件当日は部屋にいた」


「はい」


「何をしていたんです?」


「分かりません……。何か言ってたんですけど、怖くて」


咲は手を握りしめた。


「近づいてきて……」


「それで?」


「私も逃げようとして……もみ合いになりました」


上野は静かに聞いた。


「そのとき、あなたが神崎さんを突き飛ばした?」


咲は頷いた。


「……はい」


「神崎さんは?」


「倒れました」


「その時点で、動いていた?」


「……倒れたあと、わかりません」


上野の表情が変わる。


「そうですか」


咲は続けた。


「だから、私……そのまま逃げました」


「部屋から?」


「はい」


「どこまで?」


「マンションを出て……コンビニの少し先まで走りました」


「そこで立ち止まった?」


「はい」


「神崎さんが追ってきていないことに気づいた?」


「……はい」


咲は少し考えた。


「あれ? って思って」


「それで?」


「警察に電話しようと思って……スマホを探しました」


「持っていなかった?」


「……ありませんでした」


「部屋に忘れた?」


「はい……そう思いました。」


咲は目を伏せた。


「どうしようって思ったんですけど……」


「それで、301号室へ戻った?」


「はい」


「怖くなかったですか?」


「怖かったです」


咲は小さく頷く。


「でも、神崎はもういないかもしれないと思って……」


「警戒しながら戻った」


「はい」


咲の声が少しずつ小さくなる。


「部屋の前まで来たとき……」


「何がありました?」


「荷物が置いてあったんです」


「配達の荷物ですね?」


「はい」


「それを見て、どう思った?」


咲は少し考えた。


「配達員が来たんだと思いました」


「それで?」


「神崎も、それで帰ったのかなって……」


咲の表情に、ほんの少しだけ安堵が混じる。


「そう思って、ドアを開けました」


上野は頷いた。


「部屋の中は?」


「……変でした」


「何が?」


「きれいだったんです」


「きれい?」


「私が出たときより、片付いてました」


咲は眉を寄せた。


「物の位置も……なんだか違っていて」


「何か倒れていたり、壊れていたりは?」


「それは……」


咲は少し考える。


「ありませんでした」


「それで?」


「ベランダを見ました」


「なぜ?」


「踏み台が置いてあったからです」


「踏み台?」


「はい」


咲はゆっくり頷いた。


「いつも置いてないんです」


「それで、ベランダへ?」


「……はい」


咲は目を閉じた。


「なんで置いてあるんだろうって思って……」


「それから?」


「恐る恐る、下を見ました」


上野は何も言わずに待った。


咲の唇が震える。


「……男が倒れていました」


「下に?」


「はい」


「誰かわからなかったのですか??」


「怖くて、よく見れませんでした」


咲は両手で布団を握った。


「もしかしたら、大吾が帰ってきてて、もみ合ってどちらかが落ちたのかもと思ったら...怖くなって……」

咲の呼吸が浅くなる。


「腰に力が入らなくなって……その場に座り込んでしまって」


上野は頷いた。


「そのとき、野上さんが来た」


「……はい」


「声が聞こえましたか?」


「はい」


咲は小さく頷いた。


「『すいませーん』って……」


その言葉を口にすると、あの日の恐怖が蘇ったのか、咲の目に再び涙が浮かんだ。


「それで……」


「はい」


「配達員さんが入ってきました」


病室に静かな時間が流れた。


上野は、ここまで聞いて一度ペンを置いた。


「小城さん」


「はい」


「神崎さんを突き飛ばしたとき、あなたは神崎さんが死んだと思いましたか?」


咲は首を横に振った。


「……わかりません」


「なぜ?」


「必死でした、何をされるかわからないと思いました」


「だから、逃げた」


「……はい」


上野は頷いた。


「分かりました。今日はここまでにしましょう」


大吾が咲のそばへ歩み寄った。


「咲……」


咲は大吾を見た。


その目から、また涙がこぼれた。


「……怖かった」


「もう大丈夫だ」


大吾がそう言うと、咲は小さく頷いた。


病室を出た上野の頭には、新たな疑問が浮かんでいた。


神崎二郎は、咲に突き飛ばされた。


そして――


ベランダから落とされた。


ならば、その間に何があったのか。

そして、誰が神崎を部屋の中からベランダへ運んだのか。


事件は、また新しい段階へ進もうとしていた。


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