第七話 アリバイ
翌日。
警察から、ひとつの報告が出た。
司法解剖の結果だった。
上野は資料を見ながら、静かに口を開いた。
「遺体の頭部に、一度だけ強い衝撃を受けた痕跡がありました」
「……頭を?」
圭司が聞き返す。
「はい」
「転落したときに、ぶつけたんじゃないのか?」
「その可能性もあります。ただ、傷の状態からすると、転落する前に頭部へ衝撃を受けていた可能性が高い」
圭司は黙った。
つまり――
最初から事故ではなかった。
「じゃあ……」
美咲が言う。
「殴られてから、落とされた?」
上野は答えを濁さなかった。
「その可能性が高いと思っています」
圭司は腕を組んだ。
これまで警察は、ベランダからの転落事故という線を強く見ていた。
だが、それが変わった。
事件だ。
誰かが、この男の頭を一度殴り、そのあとベランダから落とした。
問題は――
誰が。
そして、なぜ。
上野は別の資料を取り出した。
「それと、もうひとつ」
「何です?」
「上峰順子さんです」
圭司の表情が変わった。
「まさか……」
「死亡推定時刻の前後、順子さんが近所のスーパーにいることが、防犯カメラで確認できました」
美咲が驚いた顔をする。
「スーパー?」
「はい。店内のカメラに、はっきり映っていました」
「じゃあ……」
圭司が言う。
「順子さんにはアリバイがある?」
「ええ、」
上野は頷いた。
「少なくとも、事件が起きたと考えられている時間帯に、301号室にいた可能性は極めて低い」
圭司は言葉を失った。
昨日。
順子は言った。
――そうかもしれません。
――私がやったのかもしれません。
あの言葉は何だったのか。
「じゃあ……」
美咲が呟く。
「あの人、なんであんなこと言ったの?」
「分からない」
上野も答えが出せなかった。
順子自身が、自分が犯人かもしれないと言った。
だが、実際にはその時間に現場にいた証拠がない。
むしろ、スーパーの防犯カメラによってアリバイが証明された。
圭司は腕を組み直した。
「自分がやったと思い込んでるってことか?」
「可能性はあります」
上野が答える。
「何かを見たとか、何かをしたとか。その記憶が混乱しているのかもしれません」
「でも……」
圭司は首をひねる。
「『私がやった』じゃなくて、『私がやったのかもしれない』なんだよな」
「そこが引っかかるんです」
上野も同じところを見ていた。
事件は、また分からなくなった。
*
その夜。
圭司と美咲は、行きつけの居酒屋にいた。
料理がいくつか運ばれて並んでいる。
圭司はグラスを手にしながら、ぼんやりしていた。
向かいでは、美咲がスマートフォンを見ている。
「圭司」
「ん?」
「まだ考えてる?」
「ああ」
「順子さんのこと?」
「それと、頭を殴られてから落とされたって話」
美咲はスマートフォンをテーブルに置いた。
「じゃあ、事故じゃなかったんだね」
「そういうことになる」
「でも、順子さんにはアリバイがある」
「そうだ」
圭司はため息をついた。
「じゃあ、誰だ?」
そのとき――
店の入口から声がした。
「おーい、圭司」
振り返ると、牧田が立っていた。
「遅いぞ」
「仕事が長引いたんだよ」
牧田は笑いながら、圭司たちの席に座った。
「で、事件はどうなった?」
「それがな……」
圭司が説明しようとした、そのときだった。
「まだ始まったばかりですよ」
上野だった。
牧田の後ろから現れた。
「上野さんまで来たの?」
美咲が驚く。
「牧田さんに誘われまして」
牧田が笑う。
「一人で飲むのもつまらんからな」
上野も席についた。
しばらくして、料理と酒が運ばれてくる。
だが、誰も事件のことを忘れているわけではない。
圭司が口を開いた。
「今日、解剖結果が出たんだろ?」
「ああ」
上野が頷く。
「頭部に一度、強い衝撃を受けた痕跡があった」
牧田の表情が変わる。
「じゃあ、落ちたんじゃなくて……」
「殴られた可能性が高い」
「なるほどな」
牧田は腕を組んだ。
圭司が続ける。
「でも、順子さんにはアリバイがある」
「アリバイ?」
「死亡推定時刻にスーパーにいた」
牧田が少し考える。
「じゃあ、順子さんじゃない」
「それなのに本人は『私がやったのかもしれない』って言ったんだ」
牧田が眉をひそめた。
「何だ、それ」
「俺にも分からない」
美咲が言った。
「本当に分からないんだよね」
そのとき、牧田がふと何かを思い出したように口を開いた。
「事件当日のことなんだけど」
圭司が牧田を見る。
「ん?」
「順子さんがスーパーにいた時間って、正確に分かってるのか?」
上野が頷く。
「防犯カメラの記録があるので、かなり正確です」
「そうか」
牧田はグラスを置いた。
「だったら……一人で殴って、一人で落としたとは限らないんじゃないか?」
圭司が牧田を見る。
「どういう意味だ?」
「いや」
牧田は少し考えながら言った。
「頭を殴った人間と、落とした人間が同じだとは限らないだろ」
圭司は黙った。
美咲も顔を上げた。
上野が何かを考えるように目を細める。
店内の喧騒が、急に遠く感じられた。
誰かが殴った。
誰かが落とした。
そして――
誰かが、事件を別の形に見せようとした?
圭司は箸を置いた。
「……二人いるってことか?」
誰も答えなかった。
ただ、これまでとは別の可能性が、四人の間に浮かび上がっていた。
事件当日。
301号室では、一体何が起きていたのか。
そして――
順子は、何を見たのか。
なぜ自分が犯人かもしれないと思ったのか。
まだ、その答えだけが見えなかった。




