第六話 310号室
午後。
上野は、310号室の前に立っていた。
301号室では、まだ警察の捜査が続いている。
その反対側。
310号室のインターホンを押す。
しばらくして、扉が開いた。
「……はい」
上峰順子だった。
顔色は昨日よりも悪く見える。
「上野です。少しお話を伺ってもいいですか?」
順子は一瞬、上野の顔を見た。
「……どうぞ」
上野が部屋に入る。
順子はソファに座った。
上野はその正面に腰を下ろす。
少し離れた場所には、圭司と美咲もいた。
「少し確認させてください」
「はい」
「事件当日、上峰さんは何時ごろまで、この部屋にいましたか?」
順子は少し考えた。
「……午前中は家にいました」
「そのあと?」
「買い物に出ました」
「何時ごろです?」
「昼前です」
上野は手帳に何かを書き込む。
「買い物から戻ったのは?」
「……午後です」
「何時ごろですか?」
順子はすぐには答えなかった。
「……よく覚えていません」
圭司が順子を見る。
ほんの少しだけ、目が泳いだ。
上野はそれ以上、その点を追わなかった。
「分かりました」
そう言って、話題を変える。
「上峰さん」
「はい」
「五年前の事故のことは、覚えていますよね」
順子の表情が変わった。
「……はい」
「唐津武雄」
その名前を聞いた瞬間、順子の視線が下がった。
「知っていますね?」
「……はい」
「そして、唐津武雄の息子が、301号室に住んでいた唐津大吾さんだということも」
順子は答えない。
上野は静かに続けた。
「ご存じだったんじゃないですか?」
「……」
「同じマンションです。301号室と310号室。知らなかったという方が不自然です」
順子の手が膝の上で強く握られた。
上野は、その手を見て淡々と答えた。
「大事なのは、あなたが唐津大吾さんを知っていたということです」
「……」
「そして事件当日、301号室には配達物が届いていました」
順子の顔がわずかに動いた。
圭司は黙って見ている。
上野は続けた。
「その荷物は、本来301号室に届けられるものでした」
「……」
「ところが、配達員は間違えて310号室に置いてしまった」
順子の視線が圭司に向く。
圭司は何も言わなかった。
「あなたは、その荷物を見た」
順子は黙っている。
「そして301号室に届けに行った」
上野の声が少し低くなる。
「そのとき、たまたま大吾さんがベランダにいた」
「……」
「ベランダには踏み台が置かれていた」
順子の顔色が変わった。
「あなたは、そこで大吾さんの顔を見た」
上野は順子から目を離さない。
「その瞬間、五年前の事故のことを思い出した」
順子の唇が小さく震えた。
「唐津武雄の息子だと、すぐに分かった」
「……」
「そして、怒りが込み上げた」
上野は、そこで一度言葉を切った。
「あなたは、大吾さんを突き落とした」
部屋の中が静かになる。
美咲が息を呑んだ。
圭司も黙ったまま順子を見ていた。
上野はさらに続ける。
「そのあと、あなたは何もなかったように310号室へ戻った」
「……」
「だから、配達員が荷物を取りに来たとき、こう言った」
上野は、順子の昨日の言葉をそのまま繰り返した。
「『何も受け取っていません』」
順子の肩がわずかに震えた。
「違いますか?」
長い沈黙。
誰も口を開かない。
順子は俯いたまま、両手を握りしめていた。
やがて――
小さな声が落ちた。
「……そうかもしれません」
上野の目が細くなる。
順子は顔を上げない。
「私が……やったのかもしれません」
その言葉に、部屋の空気が凍った。
美咲が圭司を見る。
圭司も答えられなかった。
ただ――
順子の声には、不思議な違和感があった。
「私がやった」ではない。
「私がやったのかもしれない」
まるで、自分自身でも何が起きたのか分からないような言い方だった。
上野は、順子をじっと見つめた。
事件は、思いもよらない方向へ動き始めていた。




