第二話 唐津大吾
マンションの前に、赤色灯を回したパトカーと救急車が何台も停まっていた。
警察官が慌ただしく出入りし、規制線が張られていく。
救急隊員が運び出した担架は、途中で何度か止まった。
そのたびに、周囲の警察官が何かを確認している。
圭司は301号室の玄関先に立ったまま、その光景をぼんやり眺めていた。自分が何をしているのか、よく分からなくなっていた。
ただ荷物を届けに来ただけだった。
それなのに、目の前で人が死んでいる。
「野上さん」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、見慣れた顔があった。
「……上野刑事」
「また野上さんですか」
上野は深いため息をついた。
「いやいや、俺だって好きで事件に遭遇してるわけじゃないですよ」
「それは分かっています」
上野は301号室の中を見渡した。
「美咲さんはいないみたいですね」
「今日は大学です」
「そうですか」
「何です?」
「いえ。現場にいたら、また話がややこしくなるところでした」
「俺だけでも十分ややこしいですよ」
圭司がぼやくと、上野は苦笑した。
「それは同感です」
警察官たちが室内に入り、現場検証が始まった。
床の状態を撮影する者。
ベランダを確認する者。
部屋の中に残された物を、一つずつ記録していく者。
圭司はその様子を眺めながら、小さく息を吐いた。
部屋の隅には、あの段ボール箱がある。
自分が間違えて310号室へ届けた荷物。
どうして、ここにあるのか。
考えても分からない。
「野上さん」
「はい?」
「少しお話を聞かせてもらえますか」
「……やっぱりですか」
「第一発見者ですから」
圭司は観念して、近くの壁際に立った。
「まず、お名前を」
「野上圭司です。配送の仕事をしています」
「今日、この部屋へ来た理由は?」
「荷物の配達です」
「誰宛てですか?」
「301号室」
上野が手帳に書き込む。
「小城さんとは知り合いですか?」
「いえ。今日が初対面です」
「では、どうして部屋の中へ?」
「ドアが開いていたんです」
「鍵が開いていた?」
「そこまでは分かりません。ただ、数センチ開いていました」
「それで?」
「声をかけました。でも返事がなくて……」
圭司は言葉を切った。
あの時の光景が蘇る。
床に座り込んでいた小城咲。
震える手。
焦点の合わない目。
そして、ベランダ。
「中に入ったら、彼女がいました」
「小城さんですね」
「はい」
「彼女は何か言っていましたか?」
「まともには話せる状態じゃありませんでした」
圭司は小城咲へ目を向けた。
救急隊員が付き添っている。
咲はまだ震えていた。
口元がかすかに動いている。
「……いない……」
「何か繰り返しているんですか?」
「はい」
「何と言っているんでしょう」
「それが、よく分からないんです」
圭司は少し考えた。
「『なんで』とか……『いない』とか。そんなことをずっと」
上野は小城咲を見たあと、再び圭司に視線を戻した。
「下に倒れている男性については?」
「ベランダから見ました」
「近づきましたか?」
「いいえ」
「顔は?」
「見てません」
「誰だと思いました?」
圭司は少し迷った。
「……唐津さんかな、と」
「なぜ?」
「ここ、唐津さんの部屋ですよね?」
「そうです」
上野は淡々と答えた。
「301号室は唐津大吾さんの部屋です」
圭司はベランダを振り返った。
「だから、あの男性が唐津さんなのかなって……」
「現時点では、その可能性が高いと考えています」
「身元が分かるものは?」
「今のところありません」
上野は手帳を閉じた。
「財布も、身分証も、携帯電話も確認できていません」
「そうなんですか」
「はい」
圭司は黙った。
301号室。 唐津大吾。
ベランダから転落した男。
そして、部屋の中で震えている婚約者。
これだけなら、婚約者との間に何かあったのかもしれない。
だが、圭司には一つ気になることがあった。
あの段ボール箱だ。
「上野さん」
「はい?」
「あの荷物……」
圭司が部屋の隅を指差す。
「俺が間違えて310号室に置いた荷物なんです」
「聞いています」
「え?」
「先ほど310号室の方から話を聞きました」
圭司は目を見開いた。
「……上峰さんから?」
「はい、」
「何て?」
上野は少しだけ間を置いた。
「ここに置いた荷物知らないですか?て言う怪しい配達員がきた。しつこく回収したいとか言うんで荷物は受け取っていない、と言いました。そもそも荷物も置いてなかったし、受け取ってもいないですからと言ってました」
「……」
圭司は言葉を失った。
確かに310号室の女性は、そう言っていた。
何も置いていない。
何も受け取っていない。
なのに荷物は301号室にある。
「俺、絶対に310号室に置いたんですよ」
「分かっています」
「じゃあ、誰が……」
「それを今、調べています」
救急隊員が小城咲を担架に乗せようとしていた。
「大丈夫です。ゆっくりでいいですよ」
咲は何度も首を横に振っていた。
「違う……違うんです……」
「何が違うんですか?」
刑事の上野が、少し離れたところから声をかける。
咲は震える指で、窓の外を指した。
「……あの人……」
「落ちた男性のことですか?」
咲は答えない。
上野は一度、圭司のほうを見た。
そして、301号室の表札に目をやる。
「ここは……唐津大吾さんの部屋ですね?」
その言葉に、咲の肩が大きく震えた。
「唐津……」
声にならない。
「唐津大吾さんですか?」
咲はぼんやりと上野を見る。
その目には、恐怖しかなかった。
「……唐津大吾?」
「はい」
「……はい……」
小さな声だった。
上野はそれ以上、何も聞かなかった。
「分かりました」
救急隊員に目配せする。
圭司はそのやり取りを見ていた。
――今の「はい」は、本当に本人だと確認した「はい」だったのか。
それとも。
ただ名前を聞かれて、反射的に答えただけなのか。
圭司には分からなかった。
だが、警察にとっては十分だった。
301号室の住人は、唐津大吾。
そして、その部屋の下で倒れている男。
身元を示すものは、まだ何もない。
それでも現場では、一つの名前が動き始めていた。
**唐津大吾。**
圭司は、玄関脇に置かれた自分の配達荷物を見つめた。
本来なら、ただの誤配だった。
それが、どうしてこんなことになったのか。




