第一話 誤配
秋晴れの爽やかな朝。
圭司が運転する配送トラックの助手席で、美咲が大きな欠伸をして背伸びをした。
「ふわぁ……ねえ圭司、今日のトラック、なんかいつもよりガタガタ揺れない? お尻痛いんだけど」
「失礼な。俺の熟練のアクセルワークを味わえ」
「トラックのサスペンションが悲鳴上げてるんじゃないの? 」
「ケツの肉厚いのにな!」
美咲は白けた顔で圭司を見た
学校の前に到着し、トラックが停車する。
リュックを背負って元気に飛び降りた美咲は、ドアを閉める直前にニヤリと笑って圭司を指差した。
「じゃあ! あと、最近ちょっとお疲れ気味みたいだから、うっかり『誤配』とかしちゃダメだよ! プロなんだから!」
「うるせえ! 俺の辞書に『誤配』の二文字はねえ! さっさと行ってこい!」
「はいはーい、いってきまーす!」
あっかんべーをして走り去る美咲の背中を見送りながら、圭司は「まったく、誰に似たんだか」と呆れたように笑い、再びトラックのエンジンを吹かした。
――しかし。俺の辞書に誤配はない、と豪語したその数時間後。
午前中の慌ただしい配達を次々とこなし、お昼過ぎ。
圭司は牧田の物流倉庫へと戻り、手元の伝票の束を確認していた。その時、ふと手が止まる。
「……ん?」
伝票の控えを見ていた、圭司は背筋が凍るような思いをした。
301号室宛ての荷物?......記憶をたどれば、先ほど午前中のうちに、310号室の前に、誤ってその荷物を置いてきてしまったのだ。
「やべっ……! 辞書に載ってた……!」
美咲のフラグが見事に回収されてしまったことに舌打ちしながら、圭司は慌ててトラックのエンジンをかけ、全速力で現場のマンションと引き返した。
マンションの駐車場に車を滑り込ませ、階段を一段飛ばしで駆け上がる。310号室の前に到着し、置いたはずの場所を確認するが――そこに荷物の姿はなかった。
(やっぱり、ここだ。でも、もう回収されたか?)
圭司は焦りを隠しつつ、310号室のインターホンを押した。
しばらくして、ガチャリと鍵が開き、妻の順子が顔を覗かせた。
どこか青白く、強張った表情をしている。
「あの、すみません! 先ほど、こちらに僕の配達ミスで別の部屋の荷物を置いていってしまったんですが……回収させてもらえないでしょうか?」
圭司が申し訳なさそうに頭を下げると、順子は微動だにせず、乾いた声で言った。
「……荷物?何の事ですか?。何も置いてありませんでしたけど」
「えっ……でも、絶対にこのフロアの――」
「知りませんよ。うちは何も受け取っていません」
バタンッ、と冷たくドアが閉まり、鍵をかけられる音が響いた。
圭司は戸惑いながらも、「もしかして、俺の勘違いで別の場所だったか?」と首をかしげた。
だが、どうしても腑に落ちない。
念のため、本来の届け先である301号室を確認しておこうと、廊下の反対側へ歩き出した。
301号室の前に来ると、強烈な違和感があった。
ドアが、ほんの数センチだけ開いているのだ。
「……?」
不審に思い、隙間から声をかける。
「すみません、配達の者ですが……、いらっしゃいますか?」
応答はない。ただ、奥から「ひっ……あぁっ……」という、引きつったような微かな呼吸音が聞こえた。
ただごとではない雰囲気を感じ、圭司は意を決してドアを押し開けた。
「……すいません? 入りますよ?」
靴を脱ぎ、短い廊下を進んで居間を覗き込んだ圭司は、息を呑んだ。
部屋の隅で、若い女性が、腰を抜かしたように床へへたり込み、ガタガタと激しく震えていた。
手にはスマートフォンを握りしめているが、指が小刻みに震えすぎていて、画面を操作することすらできていない。
「大丈夫ですか!? 一体どうしたんですか!」
俺が駆け寄っても、咲は焦点の合わない瞳で、ただ真っ直ぐに『開け放たれたベランダの窓』を見つめていた。
つられて視線を向けると、ベランダに『踏み台』が置かれている。
嫌な予感がして、ベランダへ出て、手すりから下を見下ろした。
「……うわっ!」
3階下のコンクリートの地面。
そこに、黒いジャンパーを着た見知らぬ男が、頭から血を流して仰向けに倒れていた。
ピクリとも動かない。
(ベランダから……転落したのか?)
踏み台を使って身を乗り出し、誤って足を踏み外した『不慮の転落事故』。
現場の状況は、誰の目にもそうとしか見えなかった。
だが、背後の部屋の中で、うわ言のように呟いた言葉が、耳に引っかかった。
「……なんで……? ……それに、何……?」
視線の先を追う。
部屋の入り口付近に、ポツンと置かれている「あるもの」に、釘付けになった。
「……え?」
それは、**310号室の前に置いたはずの、あの段ボール箱**だった。
俺の背筋に、冷たい汗が伝った。
(ちょっと待て……)
「なんで?分からない。どうして?」彼女は、再生と巻き戻しを繰り返すように言っていた。
男は間違ってベランダから落ちたわけじゃないのか?。
(それに……荷物はやっぱり勘違い?)
遠くから、通報を聞きつけたらしいパトカーのサイレンの音が、徐々にマンションへと近づいてきていた。
俺のたった一つの配達ミスが、底なしの泥沼の入り口だったことに、この時の圭司はまだ気づいていなかった――。




