第十二話 届けられた星空
パチン、と上野刑事が壁のスイッチを押すと、研究室に再び無機質な蛍光灯の明かりが戻った。
壁や天井に広がっていたオリオン座、さそり座、そして乙女座の姿は、幻のようにスッと姿を消した。
床にへたり込み、声を枯らして泣き続ける平川唯の肩を、姉である吉田澪がそっと抱きしめていた。
「……唯。ごめんね。私がもっと早く、ちゃんと姉だと名乗って向き合っていれば……教授も、あなたも、こんなことにはならなかったのに」
「違うの……違う……私が……私のせいで……っ」
平川は吉田の胸に顔を埋め、子どものように泣きじゃくった。
吉田は妹の背中を、ただ優しく、何度も何度もさすり続けていた。
その様子を静かに見守っていた上野が、ゆっくりと歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「平川さん。……行きましょうか」
その声は、どこまでも穏やかで、罪を犯した者を急かすような冷たさは微塵もなかった。
平川はゆっくりと顔を上げ、涙を拭って頷いた。
立ち上がり、上野に促されて部屋を出ようとした平川の背中に、吉田が声をかけた。
「唯!」
平川が振り返る。
「待ってるから。あなたが罪を償って戻ってくるまで……今度は絶対に、お姉ちゃんが待ってるから」
その言葉に、平川はもう一度だけ強く頷き、静かに研究室を後にした。
***
いつもの居酒屋。
活気ある声と焼き鳥の香ばしい匂いが漂う。
テーブルには、圭司の生ビール、美咲のウーロン茶、そして上野刑事の冷酒が並んでいた。
「とりあえず、今回の事件も無事に解決……ということで。乾杯」
「乾杯!」
カチン、とグラスが鳴る。
ネクタイを少し緩め、すっかりオフの顔になった上野が、お通しの枝豆をつまみながら静かに口を開いた。
「吉田さんの取り調べで、彼女が教授と何をあんなに話し込んでいたのか、詳細が分かりましたよ」
「平川さんのこと……ですよね?」と美咲が身を乗り出す。
「ええ。吉田さんは教授にこう言っていたそうです。『唯と付き合うなら、ちゃんと考えて付き合ってほしい』と。姉としての、切実な願いだったんでしょうね。実は教授……奥さんとの離婚がすでに成立していたんです。色々と整理をつけて、平川さんと正式に、真剣にお付き合いをするつもりだったんですよ」
「そうだったのか……」
圭司がジョッキを置き、ふうと息を吐いた。
「真剣だったからこそ、あのプラネタリウムを用意して、自分たちの未来をちゃんと話そうとしていたんだな」
「ええ。それと、あの国分准教授が血眼になって探していた『研究データ』ですがね」
上野は少し苦笑いをして首を振った。
「あれ、教授と吉田さんでまとめていたのは事実なんですが……実は、国分准教授に『論文を書かせるため』に準備してあげていたものだったんです」
「えっ! じゃあ、国分さんが手柄を横取りされるって怒ってたのは……」
「完全に彼の被害妄想、思い込みの誤解でした。彼も真実を知って、警察署でひどく落ち込んでいましたよ」
「……なんだか、みんな少しずつ勘違いして、ボタンを掛け違えちゃったんだね」
美咲が少し寂しそうに烏龍茶のグラスを見つめる。
「そうだな……」
圭司が頷いた時、上野がふと思い出したように言った。
「そういえば美咲さん。捜査の途中で、『隠し扉』を見つけた時……あの扉、少し浮いて開いていましたよね」
「あ、うん。だから気づけたんだけど」
「あれ、なぜだか分かったんです。事件の後、平川さんがこっそり現場に戻ってきていたんですよ。彼女、衝動的にパスワードを自分の誕生日に変えてしまったものの、冷静になって『このままだと自分に行き着いてしまう』と恐れて、元のパスワードに戻そうとしたんです。……ですが、ちょうどその時、私達がやってきた。だからパスワードを直すこともできず、慌てて隠し扉から逃げ出した。その時の閉め忘れで、扉が少し浮いていたんです」
「そういうことか。俺たちが鉢合わせしちまったから……」
圭司が納得したように呟き、ふと宙を見上げた。
「パスワード、か。……最初のパスワードが、二人の出会った記念日の『0430』。で、平川が書き換えたのが自分の誕生日の『1104』だったな」
「ええ。」
上野がそこで言葉を切り、少し不思議そうな顔をした。
「取調室でその話になった時、平川さんが自嘲気味に笑って、こんなことを言ったんですよ」
「なんて?」圭司が尋ねる。
「『0430』は、見ようによっては『みお』。そして私が書き換えた『1104』。これ、逆から読むと『4011』ですよね。……4(ユ)・0(オ)・1(イ)・1(イ)で、無理やりですけど『ゆい』って読めるじゃないですか、って」
「4011で、ゆい……」
美咲が指で数字を空中に書き、ハッとした。
「本当だ。0430(みお)から、4011(ゆい)へ……」
「ええ。彼女は教授の『パスワードに無意識に姉さんと私の名前を付けるってなんかおかしいですね』て言ってました。」
数字に込められた、不器用すぎる愛情と嫉妬。
ただの4桁のパスワードが、三人の運命を狂わせてしまった。
「……無理やりな語呂合わせだけどな。切ねえ話だ」
圭司は静かに目を伏せ、残っていたビールをぐいっと飲み干した。
「でもさ」
美咲が、顔を上げて二人を見た。
「澪お姉ちゃん、ちゃんと待ってるって言ってたよね。いつか唯さんが罪を償って戻ってきたら、今度こそ二人で、あの星空みたいに、並べて笑い合える日が来るよね.
」
「……ええ。きっと、来ますよ」
上野は優しい顔で頷き、自分の冷酒のグラスを持ち上げた。
「そのいつかの未来と、星空に。……もう一度、献杯を」
「ああ。献杯」
「献杯」
三人のグラスが、今度は静かに、柔らかい音を立てて重なった。
居酒屋の喧騒の中、冷たい夜風が、店の入り口の暖簾を優しく揺らしていた。
空には見えないが確かにそこにある乙女座が見守っていた。




