第十二話 高木修一
午後三時。
高木遥が働くカフェの前に、三人の姿があった。
圭司。
美咲。
そして上野。
三人は店の前に立ち、通りを眺めていた。
「本当に、ここを通るんですか?」
美咲が聞いた。
「遥さんの話では、よくこの前を通っていたらしい」
上野が答える。
「大熊は、以前からこの店の常連だった。高木さんが亡くなってから、ぱったり来なくなった」
「好きだったのかも、遥さんのこと」
美咲が言う。
「じゃあ、どうして来なくなったんだ?」
「それを本人に聞く」
上野は通りの向こうを見た。
しばらく、誰も話さなかった。
そのとき。
「そう言えば……」
圭司がふと口を開いた。
「この通り、先週まで歩道の工事をしてたな」
「工事?」
美咲が振り返る。
「ああ。歩道の端を掘り返してたろ」
「そういえば、やってたね」
圭司は通りを見る。
「大熊、いつもこの道を歩いてたんだろ?」
「はい」
上野が答える。
「カフェの前を通るために」
「じゃあ……」
圭司は少し考えた。
「わざわざ通ってたのか」
美咲が笑う。
「遥さんに会いたかったから?」
「そうかもな」
圭司は通りの先を見た。
「でも、そうなると――」
そのときだった。
「……来た」
上野が低く言った。
通りの向こうから、一人の男が歩いてくる。
大熊だった。
いつものように、カフェの前を通ろうとしている。
上野と目が合った。
大熊の足が止まる。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
しかし、大熊の顔が変わった。
「……!」
次の瞬間。
走り出す。
「逃げた!」
上野が叫んだ。
すぐに追いかける。
「圭司!」
「分かってる!」
圭司はトラックへ走った。
美咲も助手席へ飛び乗る。
「こっちから回る!」
「了解!」
エンジンがかかる。
トラックは通りを回り、大熊が逃げていく先へ向かった。
上野は走る。
大熊も必死だった。
だが、逃げた先の道路に――
圭司のトラックが止まっていた。
「うわっ!」
大熊が足を止める。
その瞬間、後ろから上野が追いついた。
「大熊!」
大熊は左右を見た。
逃げ道はない。
「どうして逃げた?」
上野が近づく。
「……」
「何か後ろめたいことがあるから逃げたんじゃないのか?」
「違う……」
大熊の息が荒い。
「じゃあ、なぜ逃げた?」
大熊は答えない。
そのとき、上野の視線が足元に落ちた。
「その靴……」
大熊が一歩後ろへ下がる。
茶色のトレッキングシューズ。
そして、その側面。
白いものが付着している。
圭司が降りてくる。
美咲もトラックから出た。
上野は大熊の靴を指差した。
圭司が周囲を見る。
歩道の端には、工事現場の跡が残っていた。
「歩道の工事……」
美咲が呟く。
「工事中の歩道を通れば、塗料が付く可能性はある」
上野が言った。
「そして、この靴と、高木さんの部屋から見つかった記録に出てきた靴の特徴が一致している」
「……」
大熊は黙っている。
「大熊さん」
上野の声が低くなる。
「高木さんの部屋に行きましたね?」
「……」
「そこで何をした?」
大熊の顔が歪んだ。
「くそ……」
「何です?」
「あいつらが……」
拳を握りしめる。
「俺を馬鹿にして……」
上野は大熊を見つめた。
「それは、高木さんのことだと思っていいんだな?」
「……」
「今の発言は、高木さんを殺したことについての自供と受け取っていいんだな?」
大熊は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
上野は無線を取り出した。
「緊急逮捕します」
大熊の手に手錠がかかる。
「殺人の容疑で」
「……」
大熊は抵抗しなかった。
そのとき。
「待って!」
後ろから声がした。
圭司たちが振り返る。
、遥が立っていた。
「遥さん?」
美咲が驚く。
遥は三人の後を追ってきたらしい。
そして、大熊を見た。
「……何で兄を殺したんですか?」
大熊が顔を上げる。
「……兄?」
遥は涙を浮かべていた。
「兄が何をしたっていうんですか?」
「……」
大熊の顔から、表情が消えた。
「兄……?」
もう一度、呟く。
遥を見つめる。
そして、何かを理解した。
「……高木の……妹?」
遥は頷いた。
「そうです」
大熊の目が大きく開いた。
高木と一緒に写っていた写真。
あの女性。
自分が毎日通っていたカフェの店員。
自分が好きだった女性。
その二人が――
兄と妹だった。
「……嘘だ」
大熊の膝から力が抜けた。
「俺は……」
その場に崩れ落ちる。
「……何で……」
遥は何も言えなかった。
大熊もまた、もう何も言えなかった。
*
警察署。
取調室。
大熊は椅子に座っていた。
向かいには上野。
机の上には、靴の写真と高木の部屋の写真が置かれている。
「事件当日のことを、最初から話してください」
上野が言った。
大熊はしばらく黙っていた。
やがて、淡々と話し始めた。
「高木に呼び止められました」
「どこで?」
「マンションです」
「何の話だと思った?」
「……電車のことだと思いました」
「電車?」
「この前……」
大熊は目を伏せた。
「電車の中で、痴漢に間違われたところを……高木に見られたと思ったんです」
上野は黙って聞く。
「前にも、ゴミの分別のことで注意されたことがあった」
「高木さんから?」
「はい」
「それで、今回も注意されると思った?」
「そうです」
「高木さんに部屋へ?」
「話があるから部屋で話そうと言われました」
大熊は続けた。
「部屋に入った」
「それから?」
「リビングまで歩きました」
そのとき。
高木は何気ない話を始めたという。
「高木が……俺がいつも行ってるカフェの話をしました」
「遥さんの店ですね」
「はい」
「何と言ったんです?」
「よく行くんだな、と」
大熊の表情が少し変わる。
「店員さんとも仲がいいんだろうって」
「それで?」
「俺は……」
大熊は唇を噛んだ。
「高木が俺が遥さんの事を好きなのを知ってると思った」
「なぜ?」
「そんな言い方だった」
上野は黙っていた。
「それで、棚に写真があった」
「高木さんと遥さんの写真ですね」
「はい」
大熊は写真を見た。
高木と遥。
二人とも笑っていた。
親しそうに肩を寄せている。
「俺は……付き合ってるんだと思った」
「兄妹だとは知らなかった?」
「知りませんでした」
「遥さんが、高木さんの妹だとは?」
「……はい」
大熊は小さく頷いた。
「俺には、恋人同士に見えた」
上野は写真を見る。
「それで、あなたはどう思った?」
「腹が立った」
「なぜ?」
「俺が好きな人と……高木が……」
大熊は言葉を詰まらせた。
「二人が、俺のことを笑ってるように見えた」
「高木さんと遥さんが?」
「はい」
「電車でのことも?」
「……はい」
「高木さんは、あなたの痴漢の事を遥さんに話したと思った?」
「そう思いました」
実際には、高木は遥に何も話していない。
遥も、大熊が何をしていたか知らなかった。
すべては大熊の思い込みだった。
「高木さんは何と言った?」
「……覚えてません」
「何か言われたでしょう」
「分かりません……耳に入らなかった」
大熊はしばらく黙った。
「その後、どうしましたか?」
「……突き飛ばしました」
上野は静かに聞いた。
「高木さんを?」
「はい」
「どこを?」
「肩です」
「高木さんは?」
「後ろに倒れました」
「頭を?」
「……打ちました」
「その後、どうした?」
「動かなくなって怖くなりました」
その直後に圭司が配達にきてチャイムを鳴らす
高木のふりをして「置いておいてください。」と言った
「なぜ?」
「捕まると思ったからです」
大熊の声は淡々としていた。
だが、その目には、あの日の光景が残っていた。
圭司が去ったあとのことも話す
「玄関へ行きました」
「そこで高木さんの靴を?」
「はい」
「なぜ?」
「自分の靴を履こうとしたんです」
「でも、間違えた」
「……はい」
「それで、高木さんの靴を一度履いた」
「はい」
「そのとき、かかとに指を入れた」
「……覚えてません」
上野は資料を見た。
「指紋が出ています」
大熊は目を閉じた。
「……そうですか」
「そして、自分の靴に履き直した」
「はい」
「そのまま逃げた」
「……はい」
上野は一度だけ息を吐いた。
「その後、古川さんが来た」
「……知りません」
「あなたは古川さんに見られたと思っていなかった」
「はい」
「古川さんは、鏡に映ったあなたを高木さんだと思った」
「……」
「だから、あなたの存在は、その時点では誰にも分からなかった」
大熊は黙っていた。
そして少しだけ顔を上げた。
「殺すつもりは……ありませんでした」
「高木さんは、あなたを馬鹿にしていたわけではないと思いますよ」
「……」
大熊は俯いた。
*
夜。
駅前の小さな居酒屋。
カウンターの奥の席に、圭司、美咲、上野の三人が座っていた。
「……高木の事件も、終わったな」
圭司がビールを飲む。
「そうですね」
上野もグラスを傾ける。
向かいでは、美咲が料理をつまんでいた。
「でもさ」
美咲が言った。
「まだ気になることがあるんだけど」
「何だ?」
「高木さんが大熊さんを部屋に呼んだ理由」
上野が顔を上げる。
「電車の痴漢のことじゃなかったんじゃないかなぁ?」
「俺もそう思ってた」
圭司が言った。
「本当に高木は、大熊を電車で見たのか?」
「そこなんです。」
上野が腕を組む。
「大熊は、そう思い込んでいただけだった」
「高木本人が、実際に見たっていう証拠はなかった」
美咲が言う。
「だったら、どうして大熊を部屋に呼んだんですかね」
上野は少し考えた。
「妹さんのことじゃないか?」
「遥さん?」
「ああ」
圭司はグラスを置いた。
「高木は、遥さんが大熊のことを好きなのを知ってたんじゃないか?」
上野が顔を上げる。
「……そうか」
「大熊も、遥さんのことが好きだったんです」
「それなら、二人の仲を取り持とうとしていた?」
「可能性はある」
美咲が考え込む。
「大熊さんって美容師の見習いだったんだよね」
「ああ」
圭司が言う。
「遥さんの店に来てた頃も、手が荒れてたって話だった」
「シャンプーとか薬剤とか、毎日触ってたんでしょうね」
美咲が言う。
「だから、いつもカフェモカを頼んでた」
圭司が笑う。
「そこまで覚えてるのか」
「遥さんが言ってたから」
美咲はグラスの水を飲む。
「大熊さん、毎日のように来てたんでしょ?」
「そうらしい」
「じゃあ……」
美咲がふと顔を上げた。
「高木さんが送ったプレゼントって、本当は遥さんにあげるものじゃなかったんじゃない?」
圭司と上野が同時に美咲を見る。
「どういうことだ?」
「だって、遥さんの誕生日はもう過ぎてた」
「確かに」
「しかも、あのコーヒーカップ」
美咲は少し考えながら言った。
「女性が普段使うには、ちょっと大きかった気がする」
「……」
「それに、高木さんは大熊さんが美容師の見習いだって知ってた」
美咲の目が少し輝く。
「大熊さん、手が荒れてたんでしょ?」
「ああ」
「だったら、もう一つの手のケア用品も……」
圭司が黙り込む。
上野もグラスを持ったまま止まっていた。
「つまり……」
圭司が言う。
「高木は、遥さんにプレゼントを渡すつもりだったんじゃなくて……」
「大熊に渡すつもりだった」
美咲が答える。
「そう考えると、つじつまが合う」
上野がゆっくり頷く。
「遥さんから大熊へ」
「高木は二人の仲を持とうとしてた」
「それで、大熊を部屋に呼んだ」
圭司は事件当日のことを思い出した。
高木が大熊を呼び止めた。
部屋へ入れた。
リビングまで歩いた。
そして、いつも大熊が行っていたカフェの話をした。
「……なるほどな」
圭司が呟いた。
「大熊は、自分が怒られると思っていた」
「実際には逆だったかもしれない」
美咲が言う。
「高木さんは、妹と大熊をくっつけようとしてた」
上野が笑う。
「もし本当にそうだったなら、皮肉な話です」
「何が?」
「大熊は、高木が自分を笑っていると思って殺した」
上野は静かに言った。
「でも、実際の高木は……」
「大熊の恋を応援してたかもしれない」
圭司が続けた。
三人とも黙った。
しばらくして、美咲が言った。
「今となっては、分からないけどね」
「ああ」
圭司が頷く。
「高木本人に聞けないからな」
上野はグラスを置いた。
「ただの推測です」
「でも」
美咲が言う。
「もし本当だったら……」
三人は黙った。
高木が最後に買ったプレゼント。
手の荒れた美容師見習い。
毎日のように頼んでいたカフェモカ。
誕生日を過ぎてから届いた荷物。
少し大きすぎるコーヒーカップ。
そして、手のケア用品。
それらをつなげると、一つの光景が浮かんでくる。
高木は、妹の恋を応援しようとしていた。
大熊を部屋へ呼び、
「妹と仲良くしてやってくれ」
そんな話をするつもりだったのかもしれない。
だが、大熊にはそれが違って見えた。
嫉妬と劣等感。
そして、自分を馬鹿にされたという思い込み。
たった一つの誤解が、人の人生を変えてしまった。
「……もし高木が、あのときプレゼントを渡せてたら」
圭司が言った。
「何か変わってたかもしれないな」
「そうだね」
美咲が答える。
上野はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「まあ、答えはもう分からないです」
「だな」
圭司が頷く。
「でも……」
美咲が言った。
「高木さんが最後まで妹のことを考えてたっていうのは、たぶん本当だと思う」
圭司は何も言わなかった。
ただ、グラスを傾けた。
店の外では、夜の街を人が行き交っている。
誰かが誰かを好きになり。
誰かが誰かを誤解し。
そして、誰かが誰かを思って何かを残す。
高木が本当は誰にプレゼントを渡そうとしていたのか。
それは、もう誰にも分からない。
ただ――
もしあの箱が、あの日ちゃんと手渡されていたなら。
事件は、まったく違う結末になっていたのかもしれない。
圭司は空になったグラスを置いた。
「野上さん」
「ん?」
「飲み過ぎないでください。」
「上野さんもな」
美咲が笑う。
「二人とも弱いくせに」
「俺は弱くない」
「圭司、顔赤いよ」
「……照明だ」
「はいはい」
三人の笑い声が、店の奥に小さく響いた。
高木の事件は終わった。
けれど、あの日のプレゼントに込められていた本当の意味だけは――
誰にも分からないままだった。




