第9話 覚醒王レグルス
冒険者ギルドのロビーに設置された巨大な晶板から、怒号と悲鳴が入り交じったノイズが響き渡った。
つい先程まで、S級冒険者レグルス・クロウによる公開演習の様子を映し出していた画面。そこには今、想定外の光景が広がっている。
王都郊外の演習場に架かる、見学者用の長大な浮橋。その中央を支える魔力柱が限界を超え、ひび割れと共に轟音を立てて崩落し始めていたのだ。
「おい、嘘だろ……!」
「見学者がまだ橋の中央に取り残されてるぞ!」
ロビーに集まっていた冒険者たちが息を呑む。
宙に浮いていた橋板が次々と濁流の川へ落ちていく。逃げ遅れた一般の見学者数名と、彼らを誘導しようとして足場を失った若手冒険者が、為す術もなく落下していくのが見えた。
その時だった。
画面の端、演習の合間に休憩塔で『九十分』の仮眠を取っていたはずのレグルスが、赤い髪をなびかせて飛び出してきた。
「――っ」
俺は画面に釘付けになった。
起きた直後の鈍さなど微塵もない。彼は瞬時に状況を把握し、崩れ落ちていく橋の残骸を飛び石のように蹴って、空中を駆け上がった。
信じられない速度と精密さだ。
レグルスは空中で落下する見学者を片腕で抱え込み、安全な岸壁へと正確に放り投げる。さらに跳躍し、濁流に呑まれかけていた若手冒険者の首根っこを掴み上げて引き上げた。
それだけではない。
崩落の衝撃で魔力檻が壊れ、演習用に用意されていた凶暴な中型魔獣が数匹、鎖を引きちぎって暴れ出していた。
岸へ着地したレグルスは、パニックに陥る人々の前に立ち塞がると、流れるような抜刀術で魔獣たちを一瞬にして両断した。
救助から制圧まで、時間にしてわずか数十秒。
彼自身の呼吸は一切乱れておらず、剣筋には微かな迷いも、筋力のブレもなかった。
「……本物だな」
俺は無意識のうちに呟いていた。
あの動きは、無理をして身体を騙している者のそれではない。
覚醒薬で痛みを隠していたダリオの動きとは、根本的に違う。少なくとも今のレグルスには、九十分しか休んでいない者の判断遅れも、足運びの乱れも見えなかった。
『すげええええ! 見たかよ今の!』
『やっぱり覚醒王の九十分睡眠は最強だ!』
『俺も今日から睡眠を九十分に削るぜ! 起きている時間こそが一流の証拠だ!』
晶板の端を、救助への称賛と九十分睡眠への憧れが埋めていく。
だが、俺にはわかっていた。
彼の九十分睡眠が本物であることは間違いない。しかし、それは彼という希少な才能だからこそ成立するものであって、他人が安易に真似をしていいものではない。
ロビーが興奮の坩堝と化す中、ギルドの正面入り口が大きく開かれた。
喧騒が一瞬にして静まり返る。
中継終了から一刻も経たないうちに入ってきたのは、事故を収束させた当人、レグルス・クロウだった。演習場から転移門を使ったらしい。
燃えるような赤い髪に、飾り気のない上質な革鎧。
彼が歩を進めるたび、周囲の冒険者たちが自然と道を空けていく。
その瞳は真っ直ぐに、ロビーの端に立っていた俺を捉えていた。
「君が、レン・アルヴァだね」
よく響く、真っ直ぐな声だった。
俺は姿勢を正し、小さく頷いた。
「ええ」
「迷いの森での救助記録、見せてもらったよ。素晴らしい判断力と足運びだ。それに、あの最悪な状況から負傷率ゼロで全員を連れ帰った手腕、見事としか言いようがない」
レグルスは気さくに手を差し出してきた。
握り返した彼の手は、岩のように硬く、分厚い豆に覆われていた。彼が起きている時間を全て修練に注ぎ込んできたことが、その掌からだけでも伝わってくる。
「俺は、人生は起きている時間にしか使えないと信じている。眠っている間は何も生み出せない。だから、起きている時間を最大化し、限界まで鍛え上げるのが至高だとね」
「俺は、経験を完成させるために九時間の睡眠が必要だと考えています。起きている時間だけでは、何も定着しない」
俺が堂々と返すと、レグルスは不快がるどころか、楽しげに口角を上げた。
「いい目だ。自分のやり方に絶対の確信を持っている。……だが、俺の九十分と君の九時間、どちらが本当に冒険者として優れているのか、少し気にならないか?」
「俺の睡眠は、誰かと優劣を競うためのものじゃありません」
「わかっている。だが、君のような興味深いデータを持つ相手と、同じ条件で比較してみたいんだ」
レグルスは振り返り、ロビーのギルド職員へ合図を送った。
すぐに大型晶板の表示が切り替わり、一枚の企画書が映し出される。
「活動量だけじゃない。君が先日の救助で見せたような、未知の状況への適応力、負傷率、そして何より『どちらがより成長できるか』。それらを含めた総合的な比較遠征を申し出たい」
俺を詐欺師扱いするわけでも、頭ごなしに否定するわけでもない。
彼は純粋に、自分の成功法則が正しいと信じており、それをデータで証明しようとしているのだ。
「期間は十日間。ギルド運営の監視の下、互いに独立した班を率いて同じ難易度の依頼をこなしていく。どうだろうか、受けてくれるか?」
俺は晶板に映る遠征の条件に目を走らせた。
報酬の欄には、破格の金額が提示されている。これなら、王都《静穏区》の家の頭金に大きく近づくことができる。それに、相手のやり方を否定するつもりはないが、俺自身の九時間睡眠がどこまで通用するのか、最前線で試すいい機会でもあった。
「……俺は午後十時には必ず寝ます。それでもいいなら、受けましょう」
「構わないさ。君は君のやり方を貫けばいい。俺もそうする」
レグルスは満足そうに頷き、ロビーに響き渡る声で宣言した。
「よし! 十日間の比較遠征、明日の朝から計測開始だ!」
冒険者たちが地鳴りのような歓声を上げる。
九時間の睡眠と、九十分の睡眠。
どちらのやり方が過酷な十日間を生き抜き、より多くのものを定着させることができるのか。
『覚醒王』との、決して交わらない戦いが始まろうとしていた。




