第6話 午後十時なので撤収します
空の端が赤黒く染まり始め、王都近郊の『迷いの森』は急速にその表情を険しいものに変えようとしていた。
木々の影が長く伸び、風が運んでくる土の匂いに、微かな腐臭が混じり始める。昼行性の魔物たちが息を潜め、代わりに夜を支配する者たちが目覚めようとしている合図だ。
「レン。そちらの処理は終わった?」
「ええ。採集指定の魔草も、予定通り回収しました」
血を払った剣を鞘に納め、俺は近くの切り株に腰を下ろして息を吐いた。
数メートル先では、白銀の髪を後ろで束ねたセレナが、倒したばかりの角猿の討伐証明部位を手際よく切り取っている。
本日の依頼は、この森の深部での素材採集と魔物討伐だ。日没以降に活動を継続すれば、危険度が跳ね上がる代償として高額な『夜間延長ボーナス』が支払われる。王都の静穏区に家を買うという俺の目標にとっては、喉から手が出るほど欲しい追加報酬だった。
だが、俺は背負い袋の紐を締め直しながら、静かに周囲の木々を見渡した。
「セレナ。今日の依頼はここまでにして、撤収しましょう」
俺の提案に、セレナは振り返って柳眉を寄せた。
「撤収? まだ日没まで少し時間があるわ。夜間ボーナスの時間帯に少しでも掛かれば、報酬は倍跳ね上がるのよ。あなたの家を買う目標にも直結するはずだけど」
「分かっています。でも、割に合いません。少し周囲を見てください」
俺は立ち上がり、すぐそばにある太い樫の木を指差した。
樹皮の表面、人間の背丈よりも遥かに高い位置に、三本の鋭い爪痕が深く刻み込まれている。
「あの高さに爪痕を残せる魔獣は、この階層に出る標準的な夜行種じゃありません。それに、足元の土。かなり深く抉られている箇所がいくつもあります。日没後に現れる群れは、事前のギルドの想定より大型で、数も多いはずです」
俺は今日一日、剣を振りながらも周囲の環境を観察し続けていた。
高い爪痕も、深い足跡も、別々なら見過ごしたかもしれない。だが同じ場所に重なれば、日没後まで残る理由には十分だった。
「ここからさらに夜戦を敷けば、疲労の蓄積は避けられません。暗闇で未知の大型個体と連戦になれば、怪我をするリスクが跳ね上がる。……今夜のボーナスに目が眩んで、明日の朝、確実に帰還ルートを確保できるだけの戦力を失うのは下策です」
ただ「寝たいから帰る」わけではない。
明日も戦える戦力を残すための、戦術的な撤退判断だった。
セレナは俺の言葉を聞き、自身の右手を見つめた。昨日の模擬戦で完璧な動きを見せた彼女だったが、一日森を歩き回った疲労は確実に蓄積している。彼女自身、先ほどの討伐で踏み込みがコンマ数秒遅れたことを自覚していたのだろう。
「……あなたの言う通りね。私自身の剣の重さも、万全とは言えないわ。今の状態で未知の夜行群と当たるのはリスクが高すぎる。同意するわ、王都へ戻りましょう」
セレナが自身の状態を客観的に判断し、小さく頷いたその時だった。
「おいおい、冗談だろ?」
藪をかき分けて現れたのは、ダリオとその班のメンバーたちだった。
彼らの革鎧は魔物の返り血で汚れ、息も荒いが、その瞳孔は異様に開き、不自然なほどの高揚感に包まれていた。ダリオの手には、空になった濁った緑色の小瓶が握られている。また覚醒薬(眠気遮断薬)を煽ったらしい。
「日没からのボーナスタイムを目の前にして帰るだと? 剣姫様が一緒だから期待してたんだが、やっぱりお前は相変わらずの怠け者だな、レン」
「ダリオ。お前たちも帰還した方がいい。森の様子が少しおかしい」
「馬鹿を言え。俺たちは今、最高に仕上がってるんだ」
ダリオは腰に下げた麻袋を乱暴に叩いた。ジャラジャラと討伐証明の耳が鳴る。
「俺たちの討伐数はもう倍だ。夜間分まで積めば、新人ランキングのトップも狙える。ここで帰る理由はない」
彼の言葉に、後ろの班員たちも興奮気味に同調する。
だが、俺の目から見れば、彼らの足取りは薬で疲労と痛覚を誤魔化しているだけで、既に限界に近いブレを引き起こしていた。筋肉の微細な断裂や関節への負担は、覚醒術では決して治らない。
「そうか。じゃあ、俺たちは先に戻る。怪我には気をつけてください」
「はん、精々ベッドの中で震えてな!」
ダリオたちの嘲笑を背に受けながら、俺とセレナは森を後にした。
彼らの選択を無理に止める義理も、強制する権利もない。この世界において「長く起きていること」は称賛される努力の証であり、彼らはその価値観に従っているだけだ。
だが俺は、俺の生活スケジュールを守る。
午後十時の就寝時間は、誰にも邪魔させない。
* * *
王都へ戻り、ギルドへの報告と夕食を済ませた俺は、安宿の自室で時計を見た。
午後九時半。ギルドのロビーに設置された速報用の小型晶板には、夜間延長組の討伐ポイントがリアルタイムで表示されていた。ダリオ組のポイントは文字通り倍の速度で跳ね上がり、新人の中でぶっちぎりのトップに立っている。
数字だけを見れば、俺は完全に遅れをとっていた。
(まあ、そうなるよな)
稼働時間が長ければ、一時的な処理件数は当然増える。
長く残れば、今夜の数は増える。俺が選んだのは、今日見た爪痕と足跡を忘れず、明朝もう一度たどれる状態で帰ることだった。
俺は迷うことなく晶板の光を落とし、ベッドへ潜り込んだ。
心地よい疲労感が全身を包み込み、意識が深い泥の中へ沈んでいく。
* * *
翌朝、午前七時。
九時間の睡眠をきっちりと貪った俺は、アラームの鳴る直前にスッキリと目を覚ました。
《未定着経験:迷いの森深部における夜行性魔獣の痕跡観察と生息域の予測――定着完了》
視界の隅に浮かび上がったシステム表示を確認し、俺は軽く首を鳴らす。
身体の重さは残っていない。昨日ばらばらに見た爪痕と足跡の位置関係も、順番を違えず思い出せた。
一階の食堂へ降りると、既にセレナが朝食の席に着いていた。
彼女の表情は昨日の夕方より明るい。肩を回して確かめる動きに、無理を押し込める硬さはなかった。
「おはよう、レン。昨夜はよく眠れた?」
「ええ。あなたも、最高の仕上がりのようですね」
「当然よ。昨日の疲労を残したままにするなんて、剣士の恥だもの」
彼女が少し誇らしげに微笑んだ、その直後だった。
ギルドのカウンター奥から、鼓膜を劈くような甲高い警報音が鳴り響いた。
緊急の救難信号(SOS)。
早朝のギルドが騒然とする中、青ざめた顔の受付嬢が掲示板に通信結果を貼り付けた。
「『迷いの森』深部より救難信号! 昨夜から夜間延長で残っていた新人パーティー三組が、大型の夜行種群に包囲されて孤立! 負傷者多数、自力での帰還不可能です!」
発信元のパーティー名には、ダリオ・ケインの班が含まれていた。
彼らは夜通し起き続け、薬で限界を超えて戦い、そして朝を迎える前に力尽きたのだ。
周囲の冒険者たちが「今から準備をしても間に合わない」「疲労が残っている者じゃ二次遭難になる」とざわめく中、俺とセレナは無言で顔を見合わせた。
「レン」
「ええ、行きましょう」
俺の装備は昨夜のうちに手入れを終え、身体も予定どおり休ませた。セレナも、朝食の前に剣の点検を済ませている。
俺たちは誰よりも早く、朝一番の救助へと駆け出した。




