第5話 眠った翌朝、初めて一本
王都アルシオンの中央闘技場は、熱狂と喧騒のるつぼと化していた。
円形の闘技場を囲むすり鉢状の観客席は満員。空中に浮かぶ大型の晶板には、本日のメインイベントを飾る二人の剣士の名前が大々的に映し出されている。
一人は、重装甲と大剣を軽々と振るうA級上位のベテラン剣士。
そしてもう一人は、白銀の髪を揺らす若手トップ、『眠らぬ剣姫』セレナ・ヴァイス。
「おいおい、また剣姫はあのオッサンに挑むのか? これで十三回目だろう」
「しかも最近の剣姫は、夜の修練を切り上げて睡眠に時間を割いているらしいぞ」
「なんだって? 起きている時間こそが成長のすべてだっていうのに。だからいつまで経っても上位の壁を越えられないんだ。今日も押し切られて終わりだろうな」
観客席から飛び交う野次は、どれも覚醒至上主義の常識に基づいたものだ。
無理もない。セレナはこの三か月間、あのベテラン剣士との公開模擬戦において、ただの一度も有効打を奪えずに十二連敗を喫している。
関係者席の最前列で腕を組む俺の耳にも、そんな無責任な評価が次々と飛び込んできた。だが、俺は彼らの言葉を鼻で笑い飛ばす気にもならなかった。
なぜなら、俺自身が今朝の素振りで「確信」を得ていたからだ。
昨日、護送任務の帰りにセレナから指摘された『肩の入り方の微細なズレ』。それを修正し、正しい型を意識して反復した直後、俺は午後十時に眠りについた。
そして今朝。俺の筋肉は、昨日までのぎこちない修正動作を、まるで長年染み付いた癖であるかのように滑らかに、完璧な精度で出力してみせた。質の高い経験素材を入れれば、休息はそれを最高の形で定着させる。俺の身体がそれを実感しているのだから、俺よりも遥かに密度の濃い三か月の努力を定着させた彼女が、今日無様な姿を晒すはずがない。
「――試合開始!」
審判の甲高い声が響き渡った。
公開模擬戦のルールは単純だ。制限時間十分の間に、相手への有効打、手痛い被弾の回避、または場外へ押し出すことでポイントを競う。
開始の合図と同時に、上位剣士の大剣が空気を引き裂いてセレナへ襲いかかった。
轟音。闘技場の石畳が削れ、粉塵が舞う。
だが、その土煙の中から、白銀の閃光が滑り出た。
速い。いや、純粋な速度だけではない。これまでの模擬戦記録映像で見たような、焦りに任せた強引な踏み込みがないのだ。
(握り直しの癖が、完全に消えている)
俺は息を呑んだ。
三か月間、彼女を苦しめ続けていた『剣を振るう直前の微細な隙』。それが綺麗に消失していた。
上位剣士が驚愕に目を丸くし、次弾を放とうと大剣を引き戻す。しかし、そのわずかな予備動作の間に、セレナは既に相手の懐へ深く潜り込んでいた。
刃の付いていない模擬剣が、流れるような軌道を描き、上位剣士の胸当ての隙間――ポイント判定となる首元へ、寸分違わず突き付けられた。
「……有効打、一本!」
審判の旗が上がり、魔導具の判定音が闘技場に鳴り響く。
一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声とどよめきが観客席から爆発した。
十二連敗。三か月間、ただの一度も届かなかった絶対の壁に対し、セレナが開始早々に「初めての一本」を鮮やかに奪い取ったのだ。
「凄い……なんだ今の踏み込みは!」
「剣姫の動きが変わったぞ! あんな滑らかな剣筋、見たことねえ!」
熱狂が渦巻く中、セレナは静かに残心を取り、剣を構え直した。
だが、上位剣士も伊達ではない。己の油断を恥じたように咆哮を上げ、今度は怒涛の連続攻撃でセレナを壁際へ追い詰めにかかる。
実戦における純粋な地力や経験値の差――その「格」そのものを、たった一晩で完全に追い抜けるわけではない。セレナも重い一撃を躱しきれず、浅い被弾を許してポイントを奪い返される場面があった。
しかし、彼女は決して崩れなかった。
息が上がり、汗が飛び散っても、その瞳にはかつてのような焦燥感はない。三か月間、血を吐くような思いで積み上げてきた素振りと型。その膨大な努力の記憶が、昨夜の深い休息によって神経の隅々まで行き渡り、極限状態でも淀みなく出力され続けていた。
一進一退の攻防が続き、やがて終了の銅鑼が鳴り響いた。
「そこまで! ポイント集計……勝者、セレナ・ヴァイス!」
僅差の判定勝ち。
圧倒的な完全勝利ではない。だが、ルールの下で明確に上位の壁を越えたその事実に、闘技場は今日一番の歓声に包まれた。
「素晴らしい勝利です、剣姫!」
試合直後、晶板中継の音声拡張魔導具を持った実況が、興奮冷めやらぬ様子でセレナへ駆け寄った。
「見事な動きでした! 噂によれば、最近は睡眠時間を増やしているとのことですが、やはり昨夜たっぷりと休んで疲労を抜いたことが、今日の軽快な動きに繋がったのでしょうか!?」
客席からも、同じ調子の声がいくつも上がった。
セレナは額の汗を拭い、まっすぐに晶板の中継魔法陣を見据えた。
「訂正させてもらうわ」
凛とした声が、闘技場の喧騒を切り裂くように響いた。
「寝ただけでは勝てないわ。三か月積み上げたものを、昨夜ようやく剣に戻せた。それだけよ」
静まり返る観客席。
彼女は堂々と胸を張り、控室へと歩き出した。その横顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
* * *
「約束の検証協力報酬よ。受け取ってちょうだい」
闘技場の控室。
着替えを終えたセレナから、ずっしりと重い革袋を渡された。中には、新人冒険者が一ヶ月かけて稼ぐほどの銀貨が詰まっている。
さらに、彼女からの報告書によって、俺のギルドでの新人評価にも『B級剣士の訓練環境改善への貢献』という名目で特別加点がつくことになっていた。
「ありがとうございます。でも、俺は護送中に馬車の揺れを抑えて、少し見張りに立っただけですよ。今日の勝利は、あなたが三か月間積み上げてきた努力そのものの結果です。俺の手柄じゃありません」
「いいえ、あなたがいなければ、私は今も自分の剣を信じられずに自滅していたわ。これは正当な対価よ」
セレナは少しだけ照れ隠しのように目を逸らし、それから真剣な表情に戻った。
「それに、検証はまだ終わっていないわ。私の成長も、あなたの《休養》の実用性も、まだまだ実戦でデータを取る必要がある」
「……嫌な予感がするんですが」
ため息をつく俺を他所に、彼女は一枚の依頼書をテーブルへ広げた。
「次はこの依頼を共同で受けるわ。ギルドには既に申請済みよ」
羊皮紙に書かれていたのは、王都周辺の夜行性魔獣の討伐と、素材の採集依頼。
日没後に危険度が跳ね上がる分、基本報酬に高額な『夜間延長ボーナス』が上乗せされるという、稼ぎに直結する内容だった。
王都の静穏区で家を買うという俺の目標にとっては、非常に魅力的な金額だ。しかし、夜の森に長居すれば、それだけ俺の午後十時の就寝スケジュールが脅かされることになる。
「おっ、レンじゃねえか」
控室を出てギルドの掲示板前へ向かうと、そこに見知った顔があった。
ダリオ・ケイン。彼とその班のメンバーたちも、俺と同じ夜間延長ボーナスの依頼書を手にしていた。
「お前らもこれを受けるのか。剣姫様の金魚のフンとしておこぼれを貰うつもりか知らないが、討伐数じゃ絶対に負けねえぞ。俺たちは覚醒薬を限界まで積んで、今夜は夜通し起きて稼ぎまくってやるからな!」
自信満々に豪語し、目を血走らせるダリオ。
俺は手元の依頼書と、ギルドの壁に掛かった時計を交互に見つめた。
日没から夜間ボーナスが発生し、魔獣が活性化する。だが、長居して疲労を溜めれば明日の定着効率が落ちる。
「……午後十時に寝るためには、かなり巻きで討伐を終わらせないとな」
俺の呟きに、セレナが隣で小さく笑った。
眠れる暮らしを守るための、俺たちの本格的な夜戦が始まろうとしていた。




