第48話 休むために任せる
『第三夜/臨時作戦拠点/午後七時三十分』
レンが防音幕の中へ姿を消した直後から、迷宮の底から湧き上がる魔獣の波はさらに激しさを増していた。
作戦卓の前に立つセレナの耳に、各隊からの悲痛な報告が次々と飛び込んでくる。
『第五区画、魔獣の圧力が強まっています! 前衛の疲労が限界です!』
『第七区画で火災発生! 鎮火班の到着が遅れている、このままでは防衛線が――』
だが、セレナの表情に焦りはなかった。
彼女はレンから預けられた代行権限の証である通信機を握りしめ、冷徹なまでに響く声で指示を飛ばした。
「第五区画、第七小隊と第九小隊の休息順を前倒しで更新しなさい。指揮は現場の隊長に委任する。第七区画の火災はダリオに伝令を回して。昼間隊の残存戦力を使って、迂回ルートで消火砂を運ばせるわ」
『り、了解!』
レンがいない。
だが、拠点の機能は止まっていなかった。
「セレナ! 北の第八区画から大規模な救難信号だ! さっきの火災より規模がでかいぞ!」
通信盤を監視していたボルドが叫ぶ。
セレナは手元の白地図に視線を落とし、即座に首を横に振った。
「第八区画には、すでに避難誘導を終えたダリオの部隊が展開しているはずよ。彼らからの直接報告がない以上、その信号は疑わしいわ。レグルス!」
「おう!」
入り口で戦斧を肩に担いで待機していた真紅の髪の男が、獰猛な笑みを浮かべて応えた。
「俺が直接見てきてやる。九十分の《瞬眠》を終えたばかりだ、身体が軽くて仕方ねえ。十分で結果を持って帰ってくる!」
レグルスは突風のように拠点から飛び出していった。
かつては己の睡眠時間を削ることを絶対の正義としていた男が、今はその無尽蔵のスタミナと即応力を活かし、長く眠る者たちを守る即応の『目』を担っている。
「……セレナ。また無音の波形が来たわ」
観測卓に座るフィアが、羊皮紙に羽ペンを走らせながら報告する。
「今夜だけで三回目よ。偽信号が発信される直前、コンマ数秒だけ生じる命令系統の切替ノイズ。……《潮核》は、確実にこの王都の地下を移動しながらこちらを攪乱しようとしているわ」
「記録を続けて。レンが起きた時、それが一番の武器になる」
セレナは言い切り、再び通信機へと向き直った。
その時だった。広域オープンチャンネルに、これまでにないほど切迫した、聞き覚えのある指揮官の声が響き渡った。
『――緊急事態だ! 第二防衛線が完全に突破された! これ以上の現場判断は不可能だ、総司令のレン・アルヴァを直ちに起こして指示を仰げ! 早くしろ、全滅するぞ!』
その声の主は、間違いなく前線を預かる中隊長のものだった。
悲鳴や魔獣の咆哮が混じる生々しい音声。拠点内にいた通信士たちが血相を変え、防音幕の方へと振り返る。
「セレナ様! 第二防衛線が抜けたら、この拠点も危ない! レンさんを起こさないと――」
「持ち場を離れないで!!」
セレナの鋭い一喝が、パニックになりかけた通信士たちをその場に縫い留めた。
「レグルスからの目視報告も、ダリオの伝令網からの直接報告も上がっていないわ! 二系統確認が取れていない以上、あの通信は悪質なフェイクよ!」
彼女は通信機をひったくり、全隊へ向けて宣言した。
「各隊へ告ぐ! レン・アルヴァの指揮権は現在、私が預かっている! 本部の指示を待つ必要はない、各隊長は手元の複写表に従って、現場の判断で休息順を更新しなさい! この防衛線は、私たちが死守する!」
レンを起こさせるための、敵の巧妙な罠。
だが、セレナは代行権限と二系統確認で、その命令を退けた。
ボルドがタワーシールドを構えて拠点の入り口を固め、ダリオが市街地を駆け抜けて各隊の時刻のズレをアナログに修正していく。レグルスが偽装された罠を次々と暴き、フィアが沈黙の中で敵の足跡を記録し続ける。
誰一人が欠けても成立しない。
レン・アルヴァという個人の能力を越え、仲間全員がそれぞれの固有の役割を果たし、分散された権限を使いこなす。それこそが、彼が三日かけて作り上げた『自律運用』という最強の戦術の完成形だった。
激闘の夜は明け、王都の空が白み始めていた。
* * *
午前四時三十分。
きっちりと九時間が経過し、セットしておいた魔導時計のアラームが鳴る直前に、俺は自然に目を覚ました。
「……よし」
身体の底に残る重さは、ようやく自覚できる程度まで下がっていた。文字の線を追い、声の違いを聞き分けられる。まずは、それで十分だった。
俺は身支度を整え、防音幕をめくって外へと出た。
「おはよう、レン。よく眠れた?」
作戦卓に手をついていたセレナが、振り返って微笑んだ。
彼女の目元には疲労の色が濃く出ている。ボルドも壁際で座り込み、ダリオは床で大の字になって鼾をかいていた。だが、拠点内は静かで、絶望的な空気は微塵もない。
「おはようございます。……戦線は?」
「防衛線は二区画下げた。でも避難路は維持している。負傷者も治療班へ渡したわ」
俺が一度も起こされず、この第三夜の危機を越えたという事実。
俺が他人に任せて眠った九時間を、彼らは自分たちの判断でつないでいた。
「起きたのね、レン。これを見て」
フィアが、書き込みで真っ黒になった羊皮紙を俺の前に広げた。
「あなたが寝ている間に記録したデータよ。敵の偽信号が発信される瞬間に生じる、三回の『無音区間』。その発生時刻と、波形の強弱から推測される《潮核》の移動経路を地図に落とし込んだわ」
俺は、その記録を一枚ずつ読んだ。
第三夜の三回の無音区間。フィアが推定した移動範囲。昨日までに自分で確かめた魔力流の周期。そして、ダリオの記録晶板に残った旧鐘楼周辺の時刻ずれ。
点は揃っている。だが、どの順で結べば敵の次の位置になるのか、まだ断言できない。
「今すぐ答えを出さなくていいわ」
セレナが、俺の手から三枚目の羊皮紙を抜いた。
「今日は一度も起こさず回せた。今夜も同じように回せる。あなたは、この記録を自分の経験にしてから休みなさい」
俺は午後から夜まで、フィアと記録の時刻を照合し、ダリオと旧鐘楼周辺を歩き、三箇所の魔力刻印を自分の目で確認した。答えを決めつけず、見た事実と外れた仮説を羊皮紙へ分けて書く。
午後九時五十分。
交代表は俺抜きで更新され、各隊からの報告も二系統確認で処理されている。もう一度、任せられる状態だった。
「この一日分を、一度寝かせます」
俺は三夜分の記録を枕元へ置かず、フィアへ返した。眠る前に答えを暗記して固定するためではない。今日、自分で照合し、歩き、間違えた過程を残すためだ。
「朝七時まで、お願いします」
「ええ。次に起きた時は、一緒に決着をつけましょう」
防音幕を閉じる。
外では、俺が作った表を仲間たちが自分の判断で書き換えている。
その音を聞く必要は、もうなかった。
目を閉じる直前、視界の隅で《未定着経験》の文字が淡く揺れた。




