第46話 交代表を壊せ
ピーッ! ピーッ! ピーッ!
王都防衛線の後方に設営された臨時作戦拠点。フィアが監視している通信盤から、耳を劈くような緊急救難信号が立て続けに鳴り響いた。
発信元は王都の「北区」「東区」、そして地下の「旧水路」。
三方向からの同時発信であり、しかもすべてがギルドの正規の暗号形式を持った『本物と同じ信号』だった。
「レン! 各防衛隊の魔導時計のズレがさらに拡大しています! 最大で数分の誤差が出始めていて、交代のタイミングが合いません!」
前線の部隊長から、悲痛な報告が飛び込んでくる。
狂い始めた時刻と、三つの救難要請。このまま手当たり次第に部隊を派遣すれば、確実に陣形に穴が開き、そこを夜行種の群れに食い破られる。
俺は直前の現場報告を三枚並べた。北区の橋は五分前に封鎖が完了し、詰所の確認印もある。なのに救難信号は、橋の向こうから民間人が流入したと告げていた。
「北区は偽装です。部隊を動かさないでください。東区と旧水路は二系統目の確認を」
一つは弾けた。だが、残る二つを確かめ、全戦線を回し続けるには俺一人の判断へ集めるべきではない。
俺は腕の時計を見た。針の動きは歪んでいるが、俺自身の体内時計と空の暗さから推測して、時刻はすでに午前三時を回っているはずだ。
俺が設定した、俺自身の『九時間の休息枠』の開始時刻だった。
「……レン」
セレナが、切迫した視線を俺に向けてくる。
今すぐ俺が全部隊に指示を出し、偽信号の判別を指揮するべきか。だが、それでは「俺がいなければ回らない戦場」のままだ。俺が倒れれば、この防衛線は終わる。
「セレナ。代行権限を渡します。現場の指揮は、全てあなたに」
「……ええ、引き受けたわ。ゆっくり休みなさい」
俺は迷わず決断し、拠点の一角に設営された防音幕の中へと入った。
外の騒ぎを振動遮断床布が吸収していく。俺の《休養》を機能させるため、そして明日以降の俺自身の判断精度を守るため、俺は仲間たちを信じて目を閉じた。
* * *
『王都防衛線・臨時作戦拠点/午前三時十五分』
「パニックにならないで! 別ルートからの『二系統確認』が取れるまで、主力部隊は絶対に動かしては駄目よ! 防衛線を維持しなさい!」
セレナの凛とした声が、混乱しかけていた拠点に響き渡る。
レンから全権を預かった彼女は、即座に「動かない」という基準を全隊に徹底させた。偽情報が飛び交う中での無用な移動は、自ら陣形を壊す自殺行為だ。
「ボルド、通信の判別を頼める?」
「おう、任せとけ」
分厚いタワーシールドを背負ったボルドが、通信機の前にどっかりと座り込む。長年、最前線で命のやり取りをしてきたベテランの冒険者である彼は、通信から聞こえてくる「音」そのものに全神経を集中させた。
『……旧水路で崩落! 生存者が下層に取り残されている! 水位が上がって――』
「……こっちは本物の可能性が高い。直接確認が要るぞ」
ボルドは耳を澄ませたまま、低い声で告げた。
「水音が一定じゃない。石が落ちるたび反響が変わって、奥で別の人間も咳き込んでる。用意した音を流してるだけじゃ、ここまで乱れねえ」
「東区は弾けたわ!」
隣の観測卓で計器を操作していたフィアが、丸眼鏡を指で押し上げて声を上げた。
「東区の救難信号、暗号形式は完璧だけど、電波に乗っている『魔力波形』が人間の魔術師のものじゃないわ。発信源の魔力密度が、外をうろついている夜行種のものと完全に一致している」
「北と東は偽装。旧水路は本物らしいけれど、救助隊を出す前に現地確認が要るわ。レグルス!」
「待たせたな。最高の一眠りだったぜ」
防音幕の一部がめくられ、九十分の《瞬眠》で判断と脚力を実戦水準まで戻したレグルス・クロウが、巨大な戦斧を肩に担いで現れた。
「旧水路だな? 俺が直接行って、本物かどうか見てきてやる。行って帰るだけで十分もかからねえ」
「頼むわ。ダリオ!」
「おうよ!」
レグルスが夜の王都へ疾風のように飛び出していくのと同時に、伝令役のダリオも駆け出してきた。
「狂っちまった時計に頼るのはもうやめだ! 俺が走って各拠点の隊長を直接繋ぐ! アナログな『伝令網』で、交代のタイミングを物理的に合わせてやるよ!」
「助かるわ。これで戦線は崩れない」
セレナは手元の交代表を広げ、次の指示を構築し始める。
レンが起きていなくても、彼らは決して立ち止まらない。
ボルドの現場確認、フィアの波形測定、ダリオの伝令網、そしてレグルスの高速偵察。彼らはレンから指示を与えられるだけの駒ではなく、それぞれが己の適性と経験を最大限に活かした『独立した判断者』として、完璧に機能していた。
「……見つけたわ」
観測卓のフィアが、羊皮紙に素早く羽ペンを走らせる。
「敵の偽信号が切り替わる瞬間、コンマ数秒だけ通信に生じる『無音の波形』。先ほどダリオから報告があった『時計のズレ』は旧鐘楼周辺で最大になっているけれど、この無音を発している源泉――《潮核》そのものは、一定の法則で常に移動し続けているわ」
情報は蓄積されている。敵の輪郭は、少しずつだが確実に暴かれつつあった。
『――セレナ! レグルスだ!』
通信機から、レグルスの声が飛び込んでくる。
『旧水路の信号は本物だ! 大規模な崩落が起きていて、下の階層に三十人近い生存者が取り残されている!』
「分かったわ、すぐに救助部隊を編成する!」
セレナは各隊の隊長へ、ダリオの伝令網を通じて指示を飛ばした。
本物の危機が確定した。本来であれば、ここで「九時間寝る男」を起こし、彼の的確な状況判断と空間把握能力を頼るべき局面かもしれない。
だが、セレナは俺の防音幕へ向かうことはなかった。
「レンを起こす必要はないわ。私たちだけでやるわよ」
彼女は代行権限を行使し、各防衛ラインから疲労度の少ない部隊を抽出し、自律的に交代表を組み替えて旧水路への救助部隊を編成した。
旧水路の救助は、俺が眠っている間に完了した。負傷者は出たが、三十人の生存者は全員、治療班まで運ばれた。
《潮核》は偽信号で指揮を乱そうとした。それでも仲間たちは、二系統確認と分散した権限で本物の危機だけを拾い、戦線をつないだ。
* * *
「――おはようございます」
九時間が経過し、アラームと共に目覚めた俺は、防音幕を出て伸びをした。
頭は極限までクリアだ。身体には前日の張りが残るが、判断を急かす濁りはない。
「おはよう、レン。状況は安定しているわ。昨夜の崩落救助も、犠牲者ゼロで完了した」
卓に置かれた分厚い報告書を前に、セレナが誇らしげに微笑んだ。
その報告書を一読し、俺は確かな手応えを感じていた。俺が一度も起こされず、負傷者を治療班まで運び切ったという事実。それは、俺たちの戦術が俺抜きでも回り始めたことを意味している。
これで、《永夜潮》の残りの期間も乗り切れる。
そう確信した。
だが、敵である《潮核》の知能は、俺たちの想像をさらに上回っていた。
第一夜を凌ぎ切り、昼間の小康状態を経て訪れた『第二夜』。
敵は戦術を変えてきた。
偽の信号を混ぜるのをやめ、今度は王都の四箇所で同時に『本物の危機』を引き起こしてきたのだ。
市街地への魔獣の大量侵入、主要な魔力供給パイプの切断、そして同時多発する火災。全てがフェイクではなく、放置すれば都市の機能が停止する致命的な事態だった。
「第三区画の防衛線が抜けそうです! 応援を!」
「消火部隊の魔力が尽きました! 水の供給が追いつきません!」
波状攻撃と、予期せぬイレギュラーの連続。
事前のマニュアルや自律運用システムだけでは捌ききれない、臨機応変な「トリアージ(優先順位の決定)」が絶え間なく要求される地獄の防衛戦。
俺は前線を駆け回り、崩れかけた交代表をその場で修正し、足運びのスキルを使って魔獣のヘイトを誘導し続けた。
一箇所を立て直せば、また別の箇所が火を噴く。
仲間たちも死に物狂いで実務をこなしているが、それでも圧倒的な物量と事象の前に、時間が砂のように零れ落ちていく。
「……レン、午前四時よ。あなたの睡眠枠の時間が、とっくに過ぎているわ」
気がつけば、空が白み始めていた。
セレナの悲痛な声に、俺は血に濡れた剣を杖代わりにして荒い息を吐いた。
寝なければならない。明日のために。
だが、今俺がここから離れれば、目の前で崩れかけている第五防衛線が決壊し、数百人の市民が魔獣の餌食になる。
システム上、最も避けるべき事態。
『九時間寝る男』が、睡眠時間を削らざるを得ない最悪の局面に、俺は立たされていた。




